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扇が最初に人を殺したのはおそらく十二歳のときだった。それより前の記憶がないので、それが最初だと断言できないが、状況から判断すればそれが初めてだったのだろう。そこは美しい温室庭園で珍しいシダや青いバラで満たされていた。そこに男が一人ひざまずかされていた。お堅い弁護士のようなスーツ姿で後ろ手に縛られ、口にガムテープが貼りつけられていた。温室の隣にあるプールから水泳パンツ以外なにも身につけていない筋肉質でハンサムな男が現れた。健康さではちきれそうになっていて、その男が右の眼窩に義眼をはめ込むと、白い鋳鉄製のアンティーク・テーブルの上に乗った九ミリ口径の銃を手に取り、扇に渡した。
「あの男は」と義眼の男が言った。「きみの家族を殺した。両親を殺し、妹をレイプした。きみは仇を取れる。そうだろう?」
扇はこくんとうなずいた。笑うととても魅力的に見える男だった。縛られている男は必死になって呻いていたが、扇の家族を殺していないというつもりなのだろう。
「きみはあの男が憎い」
そういえば、憎い気がした。
「あの男を殺しても、罪悪感など湧かない」
そういえば、湧かない気がした。
「さあ、引き金を引くんだ」
銃が手のなかで猫のように暴れた。いつ引き金を引いたのか自分でも分からなかった。銃弾が男の頭の上半分を吹き飛ばし、青いバラに血飛沫が飛んだ。
義眼の男は扇の手から銃を取り上げるとたずねた。
「罪悪感は湧いたかい?」
扇は首をふった。もし、罪悪感にかられたら、その場で処分されることになっていた。
「上出来だ。次は憎いと思わずに殺せるようになろう」
あの男は扇の家族を殺していないのだろう。訓練が始まって一年ほどして、そんなことをぼんやり考えた。だからといってなにかが変わるわけではなかった。自分も他のカンパニーと同じように培養ガラスのなかでつくられた人間なのだと思うと、親の仇というものはさほど意味を持たなくなった。培養ガラスが割られたからといって、それを恨むなど馬鹿げている。政府はカンパニーに関する全てのプロジェクトを凍結したから、あの義眼の男も失業中だろう。あるいはもっとひどいことに関与しているかもしれないし、遠泳の世界記録に挑戦しようとしているかもしれない。
人で混み合ったマーケットの小道を歩き、崩れかけた煉瓦のアーチをくぐった。ウォークマンにカセットを入れて、イヤホンをつけ、フルーツ・マンの『バインド・ゼム』をかけて人ごみの騒音をシャットアウトする。クラシカル・テクノの前に商人たちは言葉の音を失って瀕死の金魚のよう口をパクパクさせていた。ブラシ、ポケットVTR、パスタ入りのスープ、安物の抗齢剤、プラスチックの羽根がない扇風機のモーター部、ピクルス壜に入った密造酒、遺伝子組み換えコーンフレーク。並んだ売り物は雑多で陳列コンセプトが見えない。あえて言うなら誰かの家に押し入って、なかにあったものを外にぶちまけたといったところだ。大きく息を吸い込めば、人造培養肉のシシケバブのにおいが肺を満たした。狭い通りのあちこちで串刺しにされた肉を価値が暴落した小汚い紙幣の束が炙っていた。経済オンチの扇にとって、札束が焚きつけにしかならなくなるメカニズムは非常に複雑だった。突然、ゼロの数が増えたり減ったりして、若干の自殺者を出したのち、電子チップに貯め込んだ全財産がデジタルの荒野へと消えていく。
「わからないな」と、扇が言った。「紙切れ同然になると分かってて、どうして紙幣や電子チップにまだ頼るんだ? 金を小難しい経済問題もろとも葬り去って、物々交換にしたほうがずっと簡単だ」
「物々交換にすれば、先物とデリバティブの売り買いが発生する。人間である限り、経済問題から逃げることはできないのさ」
話している相手はディモルフォドンだ。このクローン翼竜の大きすぎるが薄っぺらい頭にはティモシー・ヴァン・デ・レイクの人格チップが埋め込まれていた。人間の体を捨てて、不細工な恐竜や多目的六輪モービルに魂を埋めるのはもう百年前に確立した技術であり、都市部ではこうした転移者はそれほど珍しくない。ただ、どうせ人間をやめるなら、馬やイルカになったほうがずっといいと思うのだが、彼らの人格は離婚訴訟か誤認逮捕か、とにかく我慢ならない出来事に直面してクリニックもお手上げなほど歪んでいたので、チップを美しい生き物に埋め込むことができなかった。
ディモルフォドンのティモシーはもともと第二地区の住人だった。つまり、富裕層だ。彼の父親は兵器会社のCEOで母親は作家だった。母親はガソリン・ゼリーを糾弾したルポルタージュを書いてオーウェル賞を取ったが、それは夫の兵器工場を舞台にしたものだった。右手で与え、左手で奪う両親の偽善テクニックやその他もろもろにうんざりしたティモシーはクリニックで自分の人格をチップ化した。彼の精神はそこまで歪んでなく、鹿や狼といった躍動する風のような生き物にチップを移植することもできたが、彼が選んだのはカタログのなかで一番醜く、一番非機能的な形をした生き物だった。
ハンサムで知的な大学生のティモシーはいま第七地区のマーケットで古代翼竜に魂を移し変えて、怪しげなジャンク屋をしながらハッカーの真似事をしていた。毎日、高級ハムの塊みたいな形をしたテレビで視聴者参加型クイズ番組をハッキングし、解答者がポイントチャンス問題を絶対にしくじるよう選択肢を操るのに心地よくも真っ黒な愉悦を感じるのだ。
「煙草を切らしてるって? 禁煙するいい機会じゃないか」ティモシーの声だけはハンサムな大学生のままだった。声と人格は彼らが考えているよりもずっと深いつながりがあるのだ。
「禁煙するくらいなら人間をやめる」
「きみもディモルフォドンになるのかい?」
「もっとマシな生き物を選ぶ」
「なんだい、それ? 翼竜差別か? 関心しないな。いいかい? 翼竜ってのはね、空が飛べないんだ」
「頭がでかいからだ」
「そうじゃない。飛ぶために必要な筋肉がないんだ」
「じゃあ、なぜ翼があるんだ?」
「飛べないのに翼があるということにカタルシスを感じるだろう?」
「経済の話は分からない」
「ぼくは文学の話をしてるんだよ」
「もっと分からない」
「いいかい。完璧な存在には摩擦が生じない。全ての物質に馴染んで、好きなときに同化して、好きなときに分離ができる。だから、摩擦は存在しない。異なるエネルギー同士のぶつかり合いが存在しないところに熱は存在しない。それは情熱でも同じことだ。飛べない翼は飛べる翼よりもエネルギーがあり、熱量がある。ずっと情熱的なんだ」
「今度は発電所の話か?」
「分かった。きみは完璧な存在なんだ。摩擦もなく、情熱もない。いいね?」
話がまとまったそのとき、携帯電話が震えだした。




