マジシャン・レイズ
歓楽街の谷底のような路地の行き止まりには決まってバーがある。その手のバーは申し合わせたように名前がなく、ただBarとだけネオンサインを入り口にかけている。その手のバーは相手が誰だか知らず、自分も誰だか知らさずに時間を過ごすためにあった。高度に情報化された社会では、ささやかなプライバシーは立派な商品になりうるのだ。地下にある酒場にはゲームで時間をつぶしたいもののためにビリヤード台があり、音楽で時間をつぶしたいもののためにジュークボックスがあり、そしてアルコールで時間をつぶしたいもののためにカウンターがあった。
「強いのをくれ。ボトルで」
バーのマスターは小さなグラスにテキーラを注ぎ、壜を置いた。焼けつくメキシコの風が喉を通り抜け、胃のなかで燃え出した。酒が頭にまわると感覚が研ぎ澄まされて、自分が都市をまるごと呑み込んだ監視システムにでもなったかのように様々な話し声がきこえてきた――エイト・ボールが絶妙な位置でスーパーショットを待ってるぜ………………Dは現ナマで五〇、Bはきらしてる。チベット・ハーブが欲しいならよそにいけ………………それでわたし、あのハッカーになんて言ってやったと思う? 今度、こんなことしたら足をへし折ってやるって………………トイ・ビーは二十二日から一週間、おもちゃ全品十パーセントオフ!………………おめえも好きだな。またその曲、かけるのかよ?………………トインビーさん、予約がなんのためにあるのかご存じですか? こんなふうに夜中に、いえ、怒っているわけでは………………ここでチャンス・タイムです。次の問題を正解すれば得点が二倍に………………やつぁ、なにかやらかすぜ。スパイダーなんて呼ばれてる野郎が、仮釈放期間中、お利口にしてる確率はゼロだ………………ときどき思う。あんな工場売っ払って、そのカネを三日で使い果たしてやろうって………………あのクソガレージ、タイヤがパンクしてるのにラジエーターを交換しろだとよ、てめえの脳みそ交換するのがさきだろーが………………そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。見たこともない過去が現れるとすれば、その過去を知らないうちに経験しているからだろう。経験の方法は現実に依存するとは限らない。僕はスペイン内戦を夢で見る若者を知っている。彼は眠るたびに従軍したことのない、はるか昔のスペインの戦争を夢のなかで体験する。彼はスペインに行ったことはない。だが、彼はそこで流れた血について知っている。それは想像の産物ではない。共感覚が拡大したようなものだ。自分の経験した戦争から別の戦争を知覚したのだよ。きれいな花を見て、舌が甘味を感じたように。彼はいまもこの会話をきいているかもしれない。自分は決して救われることもなく赦されることもない人間だと思いながら。
聴覚をシャットアウトした。それ以上、ききたくなかった。
テキーラは気づけば、半分に減っていた。もうずいぶん酔っていたし、体のなかで奇妙な慣性が右往左往していた。だが、眠れそうになかった。つぶさなければいけない夜はまだ長かったし、寝れば、あの戦争の夢を見る。おれは今度こそ寿にきくことができるだろうか? おれを恨んでいるか、と。
ルクレツィアが他の殺し屋を差し向けてくる可能性を考えてみた。いまの扇は少し自暴自棄になっていたから、もしこの場で誰かが自分を殺しに来たら、ブーストを使わずに大人しく殺されてやろうと思っていた。
「なあ。そこの。そうだ、あんただよ、テキーラの兄ちゃん」ビリヤード台にいた口ひげの男が手招きした。「ビリヤードはやるか?」
「多少は」扇はこたえた。
「このスーパーショットに挑戦してみねえか? オッズは九対一だ」
派手なジャンプショットかありきたりなマッセでもさせられるのかと思っていたが、実際、台を見てみると、要求されているのはエフレン・〈マジシャン〉・レイズの再来だった。5番が短クッションの中間、ロングライン上にぴたりとついていて、手球の前には6番が邪魔している。Zクッションするには邪魔になる位置に7番をポツンと置いてある。
扇はヘッドレールに一〇クレジット札を一枚置くと、壁にかかっていたキューから無造作に一本選び、チョークをつけて、手球の左やや上をついた。じっくり考えれば成功するショットではないし、酔っぱらってもいた。だが、手球は第一クッションにぶつかった後、まさに魔法のようなカーヴを描きながら第二クッションにぶつかり、5番をコーナーポケットに落とした後、手球は6番の後ろにぴたりとついた。口ひげの男はにやりと笑ってOKのサインを出し、ヘッドレールの一〇クレジット札を取り、折り目一つない一〇〇クレジットの新札を置いた。
それをとってカウンターのスツールに戻って、もう一度ルクレツィアが他の殺し屋を差し向けてくる可能性を考えた。どうってこともないのかもしれない。少なくともいまは。




