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「おい、追わなくて良いのかよ」
慌てて橘に問う。
「……でも、私仕事をしなければ」
「は?」
「明日の仕事の用意をしなければなりません。先ほど、営業部の方々から貴重な声を頂いてきたのです。明日から改善できるように、準備しないと……」
やや上ずった声ではあるが、橘は冷静に話す。そして先ほどばらまいた資料を拾い始めた。
「第一、アサももう子供ではありません。そのうち……」
「お前、バカなのか?」
橘の手が止まる。あー、もう。何でこういう時にそっちを取るかな。橘の手を引き、そのまま俺はアサが去った方へ走り出した。再び紙の吹雪が舞う。
「仕事なんて、完璧な部下がやるだろう!」
「ちょっ、岬さん!」
されるがまま引っ張られる橘は、最初こそ何かしら訴えていたが、じきに観念したのか押し黙った。足を進めながら橘に聞く。
「さっき、一体どこから聞いてたんだよ」
「……」その問いには橘は答えなかった。
途中、帰路についている若い社員とすれ違い、ものすごい形相で振り返られつつも、一体の一定の速度で歩くアンドロイドにぶつかりそうになりつつも、どちらも大人二人が手を繋いで走るという、よくわからない状況には突っ込まなかった。必死すぎて、話しかけるなオーラが出ていたのかもしれない。三十路前の大人にしては走るスピードが速すぎた、なんて聞こえの良いことでも言っておこうか。
広いエントランスへ着く。外気が著しく冷たいことなんて、自動ドアの曇りでわかる。しまった、咄嗟にとはいえコートでも引っ掴んでくるべきだったか。こんな気候、出て行った彼女を早く見つけないと、彼女が風邪をひいてしまうだろう。焦りからか、つい親のようなズレた思考が混ざる。
「お前、アサが行きそうな場所知ってるか。元々住んでた自宅か?」
「あそこは既に引き払っています」
「じゃあどこか他に思い当たるとこないのかよ?」
失踪したのが本当にロボットであれば、マイクロチップが埋め込まれている分、すぐに居場所は特定できる。しかし、橘とアサに限っては特注の社員証を首から下げており、そこにチップが入っているとつい最近橘から聞いたことを思い出す。そして、その社員証は開発部のデスクの上に置いてあるのを、さっき俺は見てしまった。
「私も本当に検討がつかなくて……」
息を切らしながら、俺に手を引かれたまま橘は動こうとしなかった。珍しく弱々しい言動の彼に目を向ける。本当に自分は部下のことを知らなかったのだということをつくづく実感させられる。こいつも、アサの本心はよく知らないのかな。そりゃあ、隠し事をずっとするなんて、親子であれ多少の距離感は必要だろうが。……いや、そもそも他人に共感できないっていう話を前聞いたじゃないか。人に寄り添うなんて、相手を知ろうとするなんて、一番苦手だってことぐらいわかるだろ、俺。上司なら、そこはさっとフォローしろ!
橘の手を離し、一息つく。
「とりあえず、別れて探そう。思い当たったところはどこでも良い。橘、分析とかお得意だろ?」
にやっと笑う。精一杯、いつものように。対する橘は、俺と目線を合わせると、無言のまま静かに頷いた。ようやく動き出した彼と別れる。
アサ、どこだ。こういう時、槿さんなら、どこに行くだろう?走りだした俺は、ふと足を止めた。
槿さんだったら……?
俺は踵を返すと、会社内へ入って行った。




