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「元々私は技術者でした……」静かに橘が語り始める。
今でこそ、ロボットは私たちの生活に身近なものになりましたが、当時はまだ普及が始まったばかりの時代でした。私はとある会社でロボットの開発に携わっていました。ここよりももっと小規模でしたが、顧客は多く、それなりに繁盛している会社でして、私は日々忙しい生活を送っていました。
日常生活を送ることはできましたが、私には人として致命的なことがありました。人の気持ちが一切わからないのです。状況判断的に、世間的に。前例からだと。そう考えると、なんとなく相手の考えることを予測できましたが、相手の表情や言動を受けて、それで“こうなんだ”と気持ちを推し量ることは困難だったのです。日々この解釈で合っているだろうか、といった不安と隣り合わせて生きていました。
それでも、周りは常識的範疇で生きる人が多かったため、それで何とか生きていくことができました。生きてはいけますが、当然会社外、特に一人でいるときは、喪失感が募ります。
自分は、人として、正常に生きていない。欠陥品だ。生涯、理解者を得ることは不可能であろう、と心得ていました。それでも、社会に貢献しながら生きていけたなら、それはそれで幸せでした。
そんな中、出会ったのが槿研究員です。当時いた会社に推薦されて行った、とあるロボットの最新研究発表会で、その姿を初めて私は見ました。研究内容はもちろん斬新で、今日のまさに最先端の技術でした。何より人に寄り添ったものでした。技術の中に、人への優しさを垣間見ました。人へ優しくするには、深く関係を持つには、こうアプローチをしたら良いのか。私は講演から学びました。
私は、彼女の講演が終わったタイミングで、席を立ちました。そして、彼女に接触し、今の気持ちを一心に伝えました。彼女はとてもびっくりした様子でありましたが、控え目に「ありがとう」と言ったのち、「技術ではなくて、人への還元の仕方で感動してくれたのは、君が初めてよ」と小さく笑いました。私は、続けて自分が人の気持ちがわからない、普通がわからない、出来損ないの人間であることを話しました。だから、今こうしているのが、自分でも不思議です、と。
彼女は少し悩んだそぶりを見せた後、「……私は救ってもらった身です。そして、今も正直人間は嫌いです。……でも、だから、今私はこうしているのかもしれませんね」と、小さく呟きました。そして、こうも言ったのです。
「君は今苦しい?人を知りたい?よかったら、私たちのところに来る?」
正直、彼女の言葉の真意はわかりませんでしたが、気づくと私は、確かに自分の意思で、頷いていました。
その後、私は“普通を知るため”に岬コーポレーションへ入社、開発部へ所属しました。アンドロイドとして。私が人間だと知っていたのは、社内で槿さんだけでした。
槿さんは、基本的には誰とも馴れ合わず、一人ロボット達と向き合っている時間が多かったようでしたが、それはそれで幸せそうでした。後から知ったことですが、どうやら彼女の人間嫌いは本物だったようで、社長とその息子以外で、言葉を交わした者はいないに等しかったようです。それでも圧倒的な技術と頭脳を持っていたため、綺麗で優秀な研究員として、遠回しにではありましたが、周りからも信頼されていました。
社長はそんな彼女のとても良き理解者でして。今では規模的に考えられませんが、当時、開発部全般に関しては、全て槿さんに一任されていました。そして現在の開発部の基盤を作ったのは、間違いなく彼女です。社長は、あえて槿さんに全てを託すことで、信頼を示していました。つまり、ロボットの情報を管理していたのは、槿さんだけ。私のロボット情報がなくても、誰も怪しむことはなかったのです。私は存在しないものとして生きていくことができました。
入社して私は、今までとは比べ物にならないほどの、色々な人と、ロボットと触れ合って、一般的な、人の幸せというものを、学びました。
誰かを思い、思われること。それを認め、享受すること。愛を受け取り合うなんて、なんて凄いことなんだろう。人に囲まれて、笑い合う温かい時間は、どんなに素晴らしいものだろう。想像すると、憧れで胸がちくっと痛みました。
ただ、それらを、自分に変換した時、どんなに難しいことか。人に何も感じることができない、はたまた向けられる好意に嫌悪すら感じることもあるなんて。胸の辺りがキュッと苦しくなりました。自分の心が死んでいることが明確にわかって、愕然としました。私に心許せる相手が、受け入れてもらえる相手がいない事実は、紛れもないことでした。よって、思い、思われるといった、一般的な普通の人の幸せは、変わらず私には到底手の届かないところにありました。
『最近どう?』数ヶ月後。業務終了後に、人気のない研究室で、珍しくたわいのない雑談をしていた時、槿さんは私に尋ねました。私は『沢山勉強になります』と、仕事のことに加え、きっと疲れていたのでしょう、今言ったようなことをうっかり槿さんに話してしまいました。せっかくここに引き込んでくれたのに、私が出来損ないのままであることが、ばれてしまった。私は内心慌てました。『やっぱり似てるのね』……槿さんは静かに何かを呟くと、微笑んでそっと、私に教えてくれました。
『橘くん、普通なんて、この世に存在しないわ。自分が幸せなら、それが基準、普通になるのよ』
『心はまだ死んでない。なぜなら、今言ったみたいな、沢山の想いがちゃんとあるから』私は槿さんに無いはずの心を自覚させられました。
まだ、私は、欠陥品ではない。そう擁護されて、私は、生まれて初めて泣きました。そして、彼女を抱きしめました。彼女は一瞬息を吞んだようでしたが、まるで母親のように、そっと頭をなでてくれました。人を理解できない人と、人を嫌う人。どちらも、その場しのぎで何とか生きてきた、人を解さない異端者でした。
その晩、一度だけ、私たちは関係を持ちました。そこで、生まれたのがアサです。
お腹の中にアサの存在が明らかになったとき、槿さんはここを去ろうとしました。だけど、残しているものがあまりにも多い。それで、自分がいなくても会社に、岬社長に迷惑がかからないよう、これまでの整理と、ここから新たな開発に着手するのです。




