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約束の当日。生憎の雨である。秋雨前線はついこないだ通り過ぎたばかりだと思っていたのに、また雨か。やや憂鬱に、夕方帰り支度をしていた俺に、慌てた様子の部下が声をかけてきた。
「岬さん、大変です。わが社の個人情報が漏れた可能性があります」
「はい?」
「パソコンにおかしなメッセージが表示されるのです」
パソコンをひらく。確かに警告メッセージがある。見たことのないものだ。外部から侵入されたか。触れるのは、後にしよう。
「誰か、開発部のスタッフは残っていないか」
「見てきます」
取引先情報、、無事。社員情報、、無事。一つずつ確認するしかないだろう。時計をみる。あぁ、どうして今なのか。小さく舌打ちをする。
[悪い。急な用件が入った。何時になるかわからないから、先に済ませていてくれないか。]
そう、橘へメッセージを飛ばしたのち。再び椅子へ座り直し、合流した開発部のスタッフと、作業へとりかかった。
数時間後。辺りは殆どが暗闇に包まれかけていた。もう橘は帰っただろうか。仕事を何とか片付け、トレンチコートを羽織り早足で墓所へ急ぐ。
デジタル化が著しく、数十年前とはすっかり風景も変わり果てた近年ではあるが、“墓所”というものは変わらない。古代からの人々の想いが継続的に紡がれているようで、異質な空間であるものの、現代まで変わらずにずっとそこにあり続けている。
やっと目的の場所へ着く。
そこの空間で俺が目にしたのは、外灯に照らされ、黒い傘を差して立ちすくむ一人の青年であった。傘の間からわずかに見える口元は、うっすらと微笑んでいるようだ。
近づく途中、無意識下で足を止める。小雨に混じり、微かに音がした。……人の声?
…でしたよ。…?…さんは、よくやっておられます。誇りですね。今期も忙し…です。
……サも、よく成長しました。じきに、私なんて…んでしょうね。貴女…似て…れいで…。
…お慕いしておりました。今でもずっと……
一瞬、世界から音が消えた。言葉がはっきりと聞こえる。
“愛しています”
いつまで立ち尽くしていただろう。少なくとも、今の声が目の前の青年から発せられたのだ、ということを理解するのには、それなりの時間を有してしまった。
青年は、合わせていた手を解き、顔を上げた。そして、こちらを向くと、にっこり微笑んだ。
「……早かったですね、お仕事お疲れ様でした」
「……橘…」
「……帰り際にバグが起こったんだ」
乾いた口から、何とか声を絞り出す。
「それは……大変でしたね」穏やかな声が返ってくる。
「お前だろ、犯人」
「犯人、って。私が……」
「とぼけないでもらって良いですかね。っつーか、今確信したわ。おっと、私が自分の意思でそんなことができるとでも?、とかカマをかけてもらっちゃ困るからな。今の言葉、聞かせてもらった」
業務用ではない、素の声が次々と出てくる。……そんなことがあるか?今までそんな徴候なかったか?いや、妄信していただけかもしれない。あそこには、ロボットしかいない、という前提が、そもそもの間違いだったのか。
「お前、人間、だったんだな」
「……盗み聞きですか」橘の声色が固くなる。
「答えろよ」
「別に、だましていたわけではないじゃないです。岬さんが、勝手に思い込んでいただけですよ」
否定はできない。色々聞きたいことはあるが、言葉がでてこない。
「どうして、無駄にバグを起こしたんだ」
「一人で来たくなったからです」
「個人的な趣向で、会社と社員を使ったのか」
「でも、被害もほぼほぼなくて、すぐ直りましたよね?」
「そういう問題じゃないだろう」
心の中で、盛大な溜息をついた。長らく人ならざる者として過ごしてきたからか、こいつには倫理がないのか。
「私とのお話も良いですけど。良いんですか、槿さんにご挨拶されなくても」
俺からふと目線を外す。
「もう、閉園時間になってしまいますよ。あぁ、掃除はしておきました」
ちらっと腕時計を見る。全く誰のせいだと思ってるんだ。色々言いたいことはあったが、ひとまずこちらが優先だ。
「……どうもありがとう」
手を合わせ、目を閉じ近況をたくさん報告した。変わらない感謝と懺悔と、気持ちを伝えた。『貴女と橘は、どういう関係だったのですか』……今年はそんな質問もしたが、勿論返答は返ってこなかった。顔を上げる。
何ともいえない表情の橘と目が合った。遠くに住職とみられる人が門を閉めようとしているのが見える。
「時間ですね。帰りますか」
「あぁ……」
橘の横に並ぶと、二人彼女の元を後にした。
降り続く雨。多数の雨水が跳ねる音が沢山聞こえてくる。そういえば、ここは湖と隣接していたっけ。そんなことをぼんやり考える。闇が深まり、薄い霧も出てきた。そんな周りの様子が逐一気になってしまうほどには、暫く無言の時が流れていた。そんな沈黙を先に破ったのは、橘であった。
「個人的な話になってしまうのですが」遠慮がちに橘が口を開く。
「私、元々人間ではなかったんですよ」
「どういうこと」
「比喩、ってとこでしょうか」
「ややこしいな」
橘がふっと笑う。
「そんな私を拾い、救ってくださったのが、槿研究員だったのです。……ちょっとした私の昔話になってしまいますが。良ければ話させて下さい」
さっきまでとはうって変わり、元の穏やかな声色に戻っていた。
急に雨脚が強まってきた。注意して聞かないと、言葉が漏れてしまいそうだ。
「俺も、聞きたい」
考えるより先に、俺は返答していた。




