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思い出すは、白衣を着て研究室に佇む姿。
今から数年前、とある一室。雪が舞う時期。途中すれ違うロボットに条件反射で会釈をしつつ、その部屋に辿り着く。手袋をしていてもかじかむその指で入力式のパスワードを打ち込むと、その自動ドアは静かに開いた。一台のコンピューターの前でキーボードを叩く女性がいる。真っ白な肌に黒髪ストレートを無造作に縛っている。薄いメイクは、肌の綺麗さを際立たせていた。銀縁眼鏡をかけたその奥の眼差しは、真剣そのもの。その顔はとても綺麗で。ふと一瞬、時が止まったかのように見とれていた。ひと段落ついたのだろう、暫くして女性が顔を上げる。
「あれ、どうしたの」
鈴を鳴らしたような心地よい声で、眼鏡をとりながら僕に声をかけてきた。
「学校は?」
「終わって帰ってきたところ」
「そう、お疲れ様でした。もう、そんな時間なのね」少し幼さの残った、可愛らしいしぐさで壁時計をちらっと見やる。
「槿さん、昼ご飯ちゃんと食べた?どうせまた休憩とらずに没頭してたんでしょ」
「そんなことないわ。休憩はちゃんととってるから大丈夫」
パソコンを覗くと、数字と英語の羅列が目に入る。
「何かバグったの?」
「違うわ。新しいやつ作ってたの」
「へぇ、なんの?」
表情がぱっと華やぐ。
「うーんとね、アンドロイド」
「今ある型とは違うの」
「うん、もうちょっと、命を吹き込みたくて」
少し伏し目がちになりながら、呟いた。……ぼかされたな。それとも単なる比喩か?
「そっか。もっと色々聞いても良い?」
「まだ開発中だからなぁ。目途がついたら、教えてあげる」
「わかった。楽しみにしてる」
「真面目だね。さすが、社長の後継者、って感じ」
「個人的な好奇心だから。槿さんまで、やめてよね」
最近は、大学でもみんな就職の話題ばかりである。もちろん、僕に関しては就活はノーパスだろうと、同級生は遠巻きになり、僕とはほぼ会話をしなくなっていた。跡継ぎだなんてプレッシャーをかけられ続ける日々なんてお前らには想像つかないだろ、と心の中で悪態をつきながらも、モヤモヤしたものは溜まっていく一方だった。
「ふふっ。さて、こんな時間だし、今日は帰るわね。社長によろしく」
パソコンをシャットダウンし、帰り支度を始めた。こんなことはよくある風景だったが、大学の帰宅直後であり、且つナイーブな時期の僕の心は少し荒んでいた。発言をスルーされて、僕は少しムッとして思わず言った。
「僕は、貴女に憧れているんだ。人の上にたつよりは、人の役に立ちたい。だから槿さん、どうか……」
「岬くん。」
凛とした声が、遮る。
「それ以上言うなら、今後研究室へ入れないわよ」
冷たい視線が、僕を射抜く。……いつもそうだ。どうして、人の気持ちを受け取らないんだ。敬慕の念を伝えたことは、今回が初めてではない。物心ついたころから、ずっと言っている。だけど毎回、僕の声をまともに受け取ってくれたことはないんだ。まるで自分の深いところへは立ち入らせてくれない。会えば声をかけてくれたし、研究室へは入れてくれているのに。
「岬くんは、まだこの会社の未来を継がなきゃいけないから。私の元では、もったいないわ」
笑顔でそう言い残すと、「またね」と僕の頭に手をのせ、すっと研究室を出ていった。目に入るは、翻る白衣の一端。その光景は、未だに俺の脳裏にはっきりと焼き付いている。
そこから暫くは、卒論やら最終ゼミ発表やら新入社員研修やらで、地下の研究室に遊びに行く余裕はなくなっていた。入社してからは、数年は修行、の名目で地方支店を転々とさせられ、地方を飛び回る毎日を送っていた。そしていよいよ本社勤務になった当日、緊張した面持ちで研究室へ行ったときには、槿研究員は既に存在せず、代わりに“橘”という優秀なアンドロイドがいたのだった。
「急にどうしたのですか」
開発中のロボットに関して、現段階での作業報告をした後、橘は俺に向かって困惑した表情をみせた。
(岬様、どうされたのですか〜)
機械的な音声で、サンプルのアンドロイドも首を傾げて聞いてくる。
(手が止まっていますネ〜)
なんだ、こいつら表情も作れるんじゃないか。おまけにサンプルの奴は一言多いな。
進まない仕事を積んだデスクを挟んで、彼らの顔を今一度見た。冬が近づき、年末にかけての忙しさと寒さは、格段に仕事のスピードを下げにきているとしか思えない。やっぱり、いつになってもこの時期は嫌いだ。つい素の声が出てしまう。
「だから、その、もうすぐ槿さんの命日だろ。一緒にお参りいかないかな、って思って」
「私が、ですか」
「そう。なんなら他のみんなも連れてきても良いからさ、アサとか」(私とか〜)
「そこに何の意味があるのですか」サンプルロボの声は無視し、橘が返す。声色は変わらず柔らかいが、空気が少し張り詰めた気がした。
「うーん。俺一人よりは、喜ぶかな、って思って」
「故人が、ですか」
「うん」
「そういうものですか」
「うん。まぁ、大方俺の自己満足になっちゃうかもしれないんだけど。あまり他の人達と共有できないからさ。彼女のこと」
「……」無言の空気が重い。
「たまにはセンチメンタルになりたいじゃん?とくに、この季節だと思い出しちゃうし……まぁ、仕事の邪魔になっちゃうよね、ごめん忘れて」
「良いですよ」
「うん、ごめんそうだよね……?今なんて?」
「良いですよ、と申し上げました。しかしその日は私外勤予定でして。仕事を削ることは難しいですので、定時業務後に直接向かわせて頂く形になりますが、よろしいでしょうか」
「……!うん、嬉しい」
「スケジュールに組み込みました。では、私はこれで失礼します」
(失礼します〜)
丁寧な、模範的な角度でお辞儀をすると、彼らはすっと部屋を出ていった。
「うん。橘、ありがとう」
どうしよう。ダメ元で言ったのに、橘は応じてくれた。なぜ急に?でもAiってすごいな、というか、彼と接していると、プログラム自体よくわからなくなってきた。勉強しなおさなければ……。いや、それより、仕事を片付けよう。
さっきまでとは打って変わって、手が軽い。作業速度が2倍ほどに上がったようだ。俺は今ある仕事を黙々と進めていった。
帰り際、橘の表情に一瞬影が落ちたことを、俺はこの時知らなかった。