エリザベート・スカーレット
僕が見てしまったのは、まさに血肉。人の肉だ。そして、それを貪っているエリザベート嬢の姿だった。金色の長い髪を、どす黒い血に染め、口周りと手にも血が付いていた。僕は、貪りつくされた人の死体と、血の匂いで吐いてしまった。けれども、その死体からは眼を放すことが出来なかった。理由は一つ。気になったからだ。人は死をひどく嫌うくせして、人の死体をみたいと思う。そういう好奇心は人にあって当たり前だと僕は思う。僕は、その好奇心に勝つことができずに、眼をそらすはずが、逆に凝視してしまった。流石に、食べようとは思わなかったのだけれど、これはトラウマになりそうだ。
「はあ……お、お嬢様。な、何をしていられるのですか?……」
エリザベート嬢は、口周りを強引に拭い、僕を緋色の瞳で見つめる。
そして、僕にゆっくりと急接近してきた。血塗られた白い肌、赤に染まった柔らかな唇、緋色の瞳が眼前へと迫る。その場から逃げようとも考えた。が、お嬢様とこれだけ近づくことなんて、これからないだろうし、僕は留まることを選んだ。
すると、お嬢様は僕の首筋へと近づき、首筋に鋭い痛みが走った。僕は少し怯んだが、なんとなくお嬢様を抱きしめてしまった。下っ端の執事がこんなことをしていいのだろうか。別にこの場には誰もいないわけだし、いいだろう。
血が吸われていく。気持ち悪くて、身体が痒くなってくる。頭はくらくらし、意識が遠退いてゆく。けれど、僕は身動き一つ取らず、お嬢様の匂いに苛まれていた。
遂に僕の身体に張り巡らされていた血液は、ほぼ皆無というところまでに減ってしまった。僕の視界は、徐々に黒く染まってゆき、微睡の中に浸かっていった。
しかし、微かに意識はあった。
お嬢様の泣く声が聞こえた。ぶつぶつと独り言を叫んでいる。
―私はもう人間には、戻れない。あの日、初めての人間を食らった時から。遂には、彼までも食ってしまうだなんて。死にたい。ああ!!死ね!!死ね!!
そう声を張り上げ、身体を自らの手で、裂いて、引き千切って、刺して。調理室に鮮血が大量にまき散らされる。肉が抉れる音が鳴り響く。
―ねえ、レイン。殺してよ。起きて。起きて。
緋色の涙を流しながら、僕の体を揺さぶる。僕は、起きて、と連呼するお嬢様を見ていた。その視界は徐々に晴れてゆく。どんどん微睡の中から引きずり出されてゆく。
「ああ……お……嬢……さ、ま」
僕の意識は覚醒した。
「殺して……お願い、レイン」
僕の意識が完全に戻るまで、少しの時間を有した。
「嫌……です。そんなこと……僕にできるはずが、ないじゃないですか。なんで、な、んで……命の恩人を殺さなきゃ、いけないんですか!?」
僕は泣きじゃくり、お嬢様の腕を掴んだ。
「レインしか……私を殺せない」
そう言って、僕の手を強く握る。
「じゃあ、僕は!お嬢様を殺して罪悪感に浸っていろっていうんですか。僕の親と同じじゃないですか!勝手に自分だけ楽になろうとして……自分以外はどうでもいいってことですか!?」
僕は思いっきり怒鳴る。これでは、僕の親と同じことだ。現実から逃げるために、他人を汚し、どん底に突き落とす。本人がそうは思っていなくとも、僕は辛かった。そんな時、お嬢様が僕に手を差し伸べてくれた。それだというのに。
「そ、そういうわけじゃないけど……私は貴方を大切に思ってる。でも、私にこれからも人を食らっていけというの!?私は、自我を無くし、理性を無くして、無我夢中で人を食ってしまう。私は、人を食うなんてしたくないのに……。だから、私は死ななければならない。けれど、自分で死ぬこともできない。だから……」
「なら……。だったら僕も、一緒に死にます。お嬢様を殺してまで、生きていようとは思わない」
その僕の言葉に、お嬢様は眼を大きく見開く。
「そんなの嫌!あ、貴方が死ぬだなんて……」
お嬢様はまた、涙を流す。僕を強く抱きしめて。数分、泣きながら僕を抱いていた彼女は、小さくため息をつく。
「私は、どうすれば……」
その刹那、キュイイイイインという機械音が鳴り始めた。その不気味な音は徐々に迫ってくる。
すると、調理室の壁が破壊され、凄まじい爆発が起きる。壁の役割を果たしていた煉瓦は無残に飛び散り、熱風と爆風が僕たちを襲う。
「あ、ああ……」
僕たちは炎に焼かれていた。僕の体は熱く燃え上がり、衣類は一瞬にしてチリとなり消えた。お嬢様は僕を庇う様に、僕に覆いかぶさっていた。お嬢様は眼を開けて、しっかりとこちらを見ていた。お嬢様の重く閉ざされていた口が、ゆっくりと開く。
「に……げ……て……」
声は出ていなかったが、口の動きで分かった。が、僕はそれを無視した。僕はお嬢様を持ち上げて、調理室から出ることに成功した。そこから歩き、外を目指した。玄関の広い空間に着くと、調理室よりは炎も弱かったが、黒い煙が立ち込めていた。
「お嬢様ああ!!!」
真ん中の大きな階段の上から叫ぶ人がいた。姿は薄っすらとしか見えなかった。そのため誰か到底することができない。声は男の声で、男性ということが分かる。彼は、勢い良く階段を下りてくる。
しかし、彼はお嬢様のもとへはたどり着けやしなかった。
またあの不気味な音が迫る。そして、壁を突き破り彼に直撃した。人影は一瞬で消滅し、僕は爆風で吹き飛ばされ、壁にたたきつけられる。何とかお嬢様を落とさずに済んだが、身体の損傷がひどい、と思ったが、身体に目をやると、何故か、火傷や切り傷が消えていた。そして、折れた骨もすぐに治った。
「どうして……それよりも、お嬢様を!!」
僕はお嬢様を抱え、一心不乱に走り出した、玄関の大きな扉を勢いで開け、城の外に飛び出す。庭園の草木は燃え落ち、池は灰にまみれ、黒く染まっていた。
城壁の外には赤い光が点滅していた。そこからは、水がすさまじい勢いで、幾つも飛び出していた。それは、炎が立ち昇るとこ目掛けて、噴射されていた。僕は城門に向かって走った。
しかし、城門が見えたところで、あの音が迫ってきた。その方向を見ると、十機ほどの旅客機が宙を舞っていた。そしてそれが一斉に城目掛けて、落下してゆく。
三機が、僕たち目掛けて降ってくる。
これで、終わりか。これでよかったんじゃないか。
僕も死ぬことができて、お嬢様も死ぬ事ができる。
最高の結果。
僕は、それでも思いっ切り走った。
絶望の先に希望はある。
けれど、一機は城門に落ち、他の二機は僕たちに直撃した。
「クソがああああああああああああ!!!」
最後に人生最大の声を出して、無様に潰された。
僕は、それでも生きていた。体は完全になくなっていた。お嬢様は右腕だけが残り、死んでいた。悲惨な光景だ。僕の視界は真っ赤に燃え、地面もえぐられ、荒れまくっていた。
僕は、お嬢様の腕をずっと見つめていた。
「お嬢様を守れないなんて、執事失格だな。お、お嬢様……」
僕は、泣いていた。泣くことしかできなかった。だから、泣いた。泣きつづけた。
本当の死が、迎えようとしていた時。
世界から、色が失われ始めた。赤色、緑色、青色、金色、銀色、その他すべての色たちが、僕の前から去ってゆく。これが死にゆく景色なのか。
色はだんだん薄れてゆく。涙はだんだん枯れてゆく。
色が薄れたとき。
涙が枯れたとき。
一瞬にして、視界が無くなった。
そして、
僕も、無くなった。