ヨハンナの結婚
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サインツが町を出て行った直ぐ後、ヨハンナとベンは正式に婚約した。
他にも、メアリー・カートライト(旧姓メアリー・フォローズ、ジャック・フォローズの姉だ)が三人目の男の子を産んだり、味噌っ歯のマチュー・オッケルが差し歯を入れたりとニュースの多い月だったが、中でも一番みんなを驚かせたのは、クリフォードがヴォロニエの高等学校に特待生で進学を決めたことだった。
「おめでとうクリフォード。この何年か、あなたは本当に良く頑張ったわ」
「ありがとうございます。ガブリエラ先生」
本人にとっては吉報でも、彼のファンの少女達は大いに落胆した。特にジノは、見るに堪えないほどの落ち込み様だった。
ある日のこと、職員室に呼ばれたノラは、オーボー校長先生から、一緒に男爵家に奉公に行く人物を紹介された。相棒の顔を見て、ノラは思わず「げっ」と眉を顰めた。
「言っておくけど、あなたはおまけよ。せいぜい私の足を引っ張らないでよね」
シルビアは高慢ちきに言って、ノラを辟易させた。
この悲劇を、ノラは早速友人達に報告した。
「あんた達、昔から仲が悪いもんね」
「笑わないでよ。まさか学校を卒業してまで付き合うことになるとは思わなかったわ」
「それもこれも、結婚したくないなんてわがままを言うからよ。あなたが恋の素晴らしさを知る日は、いつになるのかしら?」
婚約したばかりで、結婚式を間近に控えているヨハンナは、大層得意げだった。
「ふんだ。どうせ私はお子様よ。なによ自分は彼氏がいるからって。ねぇジノ、ジノはそんなこと言わないわよね?……ジノ?」
ノラの声も耳に入らないほど、真剣に何やら考え込んでいたジノは、突然パッと顔を上げて宣言した。
「私、クリフォードに告白する!」
「「ええ!?」」
ノラとヨハンナは、声をそろえて驚愕した。
「告白って、愛の告白よね?あなた、なにを言っているのかわかってるの?」
「だって……彼、もう直ぐヴォロニエに行ってしまうのよ。不安なの。一度町を出て行ったら、もう二度と帰ってこないんじゃないかって……」
ジノはきちんと揃えた膝の上で拳を握りしめた。
「クリフォードが待っていてくれと言えば、三年でも、十年でも待てるわ。それに恋人でもいれば、町に帰ってきたくなるわ」
「わかんないわよ。ヴォロニエ美人と浮気するかも」
ジノの希望的観測を、ヨハンナは軽い気持ちで否定した。ジノの顔色が変わって、ノラとヨハンナはぎくりとした。
「ひどいわヨハンナ!どうしてそんなことを言うの!?」
「じょ、冗談よ冗談」
「冗談でも、言っていいことと悪いことがあるわ!」
「ジノ、落ち着いて」
「私、もう帰る!」
ジノはかんかんに怒って帰って行った。
「悪いこと言ったわ。まさかあんなに怒るなんて……」
ヨハンナはしょんぼりと項垂れた。
「ちょっと動揺しているだけよ。きっと今頃、怒り過ぎたと反省してるわ」
「だと良いけど……結婚式にきてくれなかったらどうしよう?」
結論から言うと、ヨハンナの心配は杞憂に終わった。翌月のヨハンナとベンの結婚式には、二人はすっかり元通りだった。
結婚式当日、友人代表のスピーチの代わりに(謹んでお断りしたのだ)裏方を引き受けたノラは、ヨハンナの祖母のジャンナ・カレーラスと共に、キッチンで料理や皿洗いに追われていた。
「ノラ、もう飲み物がないわ!」
「はあい」
「ノラ、マルカがスープをこぼしちゃったの、布巾をもらえる?」
「はい、はい」
「ノラ」
「もう。今度はなあに?」
ノラが振り返ると、カレンとアガタが冷やかしに来ていた。
「あなた、こんなところで何してるの?」
「外へ出ていらっしゃいよ。隣町から、男の子がたくさん来ているのよ」
みんな独身よ!カレンとアガタは興奮して言って、ノラはチキンソースをかき混ぜる手を止めて苦笑した。
「私は遠慮しておくわ。初対面の人と話すのって苦手なの。まだ洗い物もあるし」
「そんなものジャンナに任せておけば良いのに。あなたってもの好きよね」
「そうでもないわ。ここにいるとつまみ食いし放題だもの」
しみじみと言うカレンに、ノラは近くのボウルの中のクリームを指ですくって見せた。
「残り物には福があるって言うだろ?……ここで待っていてご覧、今に一番大物が引っかかるから」
黄色い声を上げながら駆けて行くカレンとアガタを、キッチンの窓から目を細めて見送っていると、ジャンナが訳知りだてに予言した。
ノラは耳半分に聞いていたが、ヨハンナが恋愛の師匠と仰ぐ彼女の言うことは、概ね正しかった。
忙しさのピークを過ぎ、ノラとジャンナが残り物で遅い昼食をとろうとしていた時のことだ。玄関の方が騒がしくなり、ノラは『何事だろう?』とキッチンから顔を出した。
同級生で新郎の親友、デイビッド・ホールドが、力自慢の男達の手で、運び込まれてくるところだった。
「どうしたの?」
ノラは一緒に入ってきた、同じく同級生のエレオノーレ・アレシに尋ねた。エレオノーレは呆れ顔で説明した。
「飲み過ぎで潰れたみたい。悪いんだけど、クリフォードの様子を見ていてくれない?私はデイビッドに付き添っているから」
エレオノーレに頼まれたノラは、ぎくりとした。
見ればデイビッドに続いて、クリフォードも担ぎ込まれてくるではないか。ノラは咄嗟に庭に出てジノを捜したが見付からず、仕方なしにクリフォードに付き添うことにした。
客間に運び込まれたクリフォードは、半時も目を覚まさなかった。
その間、ノラは手持無沙汰に、昏々と眠り続けるクリフォードを―――五年前よりぐんと男らしくなったあごの骨や、筋肉で盛り上がった胸、太く節くれだった指などを―――見つめていた。そして、後悔していた。彼が目を覚ましたら、不思議に思うだろう。付き添いがジノではないことに気付いて、がっかりするかもしれない。
「…………」
部屋の中は茹だるように暑く、ぞっとするほど静かだった。窓を開けると風に乗って、子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきた。
しばらく風に当たり、頬の熱がすっかり引いた頃。クリフォードが唸り声と共に、ゆっくりと目を開けた。
「……夢を見ているのか?」
クリフォードは寝ぼけ眼でノラの顔を見上げ、うわ言みたいに確認した。
「夢じゃないわよ」
「……ここは?」
「ヨハンナん家の客間」
ノラがぶっきら棒に説明すると、クリフォードは緩慢な動作で室内を見回し、漸く状況を理解した。(デイビッドと飲み競べをして倒れたのだ)
ノラはクリフォードに水をくれてやり、彼はだらしなくソファに寝そべったまま、それを受け取った。
「……私、もう行くわね。片付けを手伝わなきゃ」
クリフォードが水を飲み終えるのを待って、ノラはドアに向かって歩き出した。一歩、二歩、三歩と進み、ノラはつんのめるようにして立ち止まった。振り返れば、クリフォードがソファからずり落ちそうになりながら、ノラのスカートの裾を掴んでいた。
「まだ行くな」
目を瞬かせるノラに、クリフォードが命令した。
「行くなよ……ロイのところになんか……」
「ロイ?」
「さっきお前を捜してた。それから、ヒューゴも……」
そう言えば、今日は朝から忙しくて、二人には会っていない。
「ロイのところにも、ヒューゴのところにも行かないわ。言ったでしょう?早くキッチンに戻って、ジャンナを手伝わないと……今頃一人でてんてこ舞いしてるわ」
ノラは答えたが、クリフォードはノラのスカートの裾を掴んだまま放さなかった。ノラは仕方なく付き合うことにして、近くの椅子を引き寄せて座った。
「後悔してるんだ……」
ノラが腰を落ち着けるなり、クリフォードが打ち明けた。
「後悔?なにを?」
「……お前の寝癖を、引っ張ったこと……」
「はあん?」
「それから、ドレスをからかったことも……弟みたいだなんて、言わなきゃ良かった……」
クリフォードが唐突に懺悔しはじめて、ノラはぼんやりと思い出した。そう言えば、そんなこともあったっけ……懐かしい。もう遠い昔のことのようだ。
「……子どもの頃の話じゃない。私はぜんぜん気にしてないわ」
「ロイが……ロイのやつ、俺に向かって、ノラをこれからもよろしくなどと言いやがった……くそっ……」
せっかくノラが謝罪を受け入れたと言うのに、クリフォードは聞いちゃいなかった。クリフォードは枕を叩いて憎々し気に吐き、ノラを当惑させた。
「なにを勘違いしているか知らないけど、ロイとはただのお友達よ」
今日の彼は、少し様子が変だ。ノラと同じで、親友の結婚に少し心が乱れているのかもしれない。
「……ヒューゴはお前のハンカチに毎朝キスしてる……」
「ちょっと待って。私のハンカチが……なんですって?」
「取り上げたんだ。お前の弟から……」
クリフォードがちくって、ノラは直ちに取り返そうと心に決めた。
「ロイもヒューゴも、広い畑を持ってる。お前の弟に、腹いっぱい食わしてやれる。俺にあるのは、借金だけだ……」
クリフォードはぐずぐずとくだを巻いた。ノラは漸く、クリフォードの様子がおかしい理由に気が付いた。
「……酔ってるわね」
ノラは呆れ返って指摘した。クリフォードは肯定も否定もしなかった。
「だらしないんだから。いいかげん、この手を放して頂戴、クリフォード」
そうとわかれば、いつまでも付き合っちゃいられない。ノラはスカートをぐいと引っ張り、クリフォードは抵抗した。十数秒間の短い攻防の末、ノラがクリフォードの手をひっ叩こうとした、その時だ。
クリフォードはノラのスカートをあっさり放し、代わりにノラの手をぱっと掴んだ。ノラは過剰な程に驚き、暴れていたのが嘘のように、ぴくりとも動けなくなった。
「は、放してっ……」
なんて大きいんだろう……それに、なんて硬くて力強いんだろう……!
「昔みたいに、クリフって呼んでくれたら放す」
ピン止めされた昆虫みたいになってしまったノラに、クリフォードが悪戯っぽく言った。猫みたいに細められた彼の目を見て、ノラは悟った。からかわれた!
ノラがじろりと睨むと、クリフォードは「笑顔で」と条件を追加した。
「……放して、クリフ」
ノラがにっこり微笑んで条件に従うと、クリフォードは今度こそノラを解放した。
「まったくもう!」
ノラがぷりぷりして部屋を出ると、廊下の向こうからジノが走ってきた。
「クリフォードが倒れたって聞いて……」
「平気よ。ただの酔っ払いよ」
「心配だから、私が付いてるわ」
入れ替わりにジノが部屋に入ってしまうと、ノラはほっと息をついた。廊下が暗くて良かった。おかげで赤い顔を見られずに済んだ。
扉の向こうから聞こえてくる楽しげな笑い声に耳を傾けながら、ノラは密かに決意した。
「…………」
町を出よう。一日も早く。全てを振り切り、新しい一歩を踏み出すために。自信を付け、たくさんの繋がりを持ち、正しい大人になれたら。本当の意味で、二人を祝福できる日が来るはずだ。