サインツ教授の秘密
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そして翌日。
ノラは悩んだ末、ガブリエラの言葉を信じることにした。また怒られるかと思うと気が重いが、いつまでもこのままにはしておけない。
朝方、支度を済ませて玄関を出ようとしたところだった。
「デムターさんが、みんなを広場に集めるようにって」
近所の寄合から帰ってきた母が、慌てた様子で言った。
「?なにかあったの?」
「わからないけど……酒場のジョー・フレッカーが言うには、昨夜遅く、お屋敷に団体のお客様が見えたそうよ」
「お客様って……町の外から?」
「詳しいことはまだ分からないわ。とにかく、直ぐに支度して頂戴」
ノラは取る物も取り敢えず、母と共に広場へ向かった。
広場に集まっていたのは、お屋敷や商店通りから、比較的家が近い者だけだった。町の南の方に住んでいる人々……特に、農場や牧場で働いている人々は、まだ誰も到着していなかった。(彼等は日中、広大な畑のどこかで作業をしているので、捉まらないのだ)母は広場の様子を見て、「慌てることなかったわね」とぼやいた。
広場の中心には十余名の男達がいて、人々が到着するのを待っていた。どれも見たことのない顔で、ジョーフ・レッカー氏が言うところの『団体客』なのだとわかった。
ノラ達が到着してしばらくすると、タリスン院長先生と孤児院の子ども達がやってきた。
タリスン院長先生は、片隅にノラの姿を見付けると、子ども達をラーラに任せて駆け寄ってきた。
「なにがあったの?」
「それが、私達にもさっぱり……」
答えて、ノラは不安気に周囲を見渡した。
男達の傍らに控えるデムター・オシュレントン氏が、真っ青な顔をしている。その隣には、同じような顔色のアルバート医師が立ち尽くしている。よっぽど悪いことが起きたに違いないとノラは思った。
先に到着した人々は、長い時間待たされて、いらいらしていた。ノラ達が到着して十分もすると、パーラー店主のマルタ・ブレトンが聞えよがしに文句を言い出したので、男達は仕方なく集会をはじめることにした。
「我々は、帝都より派遣された、疫学研究員である!」
まず、男の一人が一歩前に進み出て、大きな声で自己紹介をした。
「皇帝陛下より勅命を受け、この町に流れる河川の水質調査に参った!住民に危害を加えるつもりはなく、任務を全うし次第、速やかに立ち去る所存である!方々、安心するように!」
そう言われても……と、誰もが思った。男は人々の困惑に気付くことなく続けた。
「ついては、この村で一番博学な老人を紹介してもらいたい!才知に長け、自然の理法に通ずる賢者が、この町にはいるはずだ!」
男が協力を求め、聴衆の頭がざわざわと揺れる。皆自分のことはそれなりに利口だと考えているが、一番と言われると、挙手する自信はないようだった。
ノラはざわめきの後ろの方に埋もれながら、頭の中で男の言葉を反芻していた。
(誰かを、捜してる……?)
ふと見ると、デムターさんの顔面が先ほどより血の気を失くしていて、ノラは確信した。やっぱり、彼等は研究員なんかじゃない。彼等は捜しに来たのだ。誰をって、それは……
(私……?)
どうして見つかってしまったんだろう?上手に隠れていたつもりだったのに。早く……早くどこかへ逃げなければ……
そこまで考えて、ノラははっと我に返った。
(逃げる?私が?……どうして?)
毎日を平凡に、堅実に過ごしているノラには、憲兵に追いかけられる理由などないはずだ。最近は悪戯もしていないし(失敗は別として……)特に弟のジャンが産まれてからは、彼や、やんちゃな孤児院の子ども等を諌める側に回っている。いったい何故、追われているなんて思ったんだろう?
「ノラ、どうかしたの?」
頻りに首を捻っているノラに、母が尋ねた。「なんでもない」とノラは答えた。
「私、デムターさんに話があるから。お母さんは先に帰って」
そして、十分もした頃。
カートライト牧場のアリサ・カートライトが『賢いと言えば、うちの舅に違いない』と名乗りを上げ、自称疫学研究員達は彼女に連れられ、広場を出て行った。仕事を放り出してきた人々は、井戸端会議を開きたいのはやまやまという感じで、速やかに解散した。
人々が帰りはじめると、ノラは早速デムターさんに駆け寄った。
「デムターさん、今の人達は誰です?研究員なんて、嘘なんでしょう?」
一体、誰を捜しに来たんです?ノラが詰め寄ると、デムターさんは縋るような目でノラを見た。
「ノラ……こんな危険なことを君に頼むのは、間違っているとわかってる。だが、どうか一度だけ、私の頼みを聞いておくれ」
君にしか頼めないんだ。デムターさんは懇願した。その表情からは、深刻な事態であることがうかがえた。ノラは一も二もなく頷いた。
「君が最も尊敬する人物に、この言葉を伝えてくれ」
デムターさんは低く落とした声で、ノラに口伝えた。
『とうとうこの日がきてしまいました。お別れです』
ノラははっとして、デムターさんの目を見つめ返した。奴等が捜しているのは、博学な老人。そして、ノラが最も尊敬している人物と言えば……
「急いでくれ。奴等が気付く前に」
ノラは返事をする間も惜しんで広場を飛び出した。
デムターさんの荷馬車を滅茶苦茶に走らせ向かったのは、町はずれの森。ノラが休日の度に足しげく通っている、サインツの自宅だ。
(先生っ……サインツ先生……!)
研究所の近くまで来ると、緑の森の向こうから紫色の煙が上がっていることに気付き、ノラはぞっとした。
「ノラか?どうした、そんなに慌てて……」
今日に限って、サインツは暖炉で実験を行っていた。ノラは家人の許可なく部屋に上り込むと、鍋に残っていたスープを、赤々と燃える炎にぶっかけた。教え子の奇行に、サインツは眼を剥いた。「なにをするんだ」
「先生!逃げて下さい!」
ノラが掴みかからんばかりの勢いで告げると、サインツは眉毛を持ち上げた。
「待て、待て。順を追って説明しなさい。訳が分からん」
ノラはサインツの言葉を無視してリビングを出ると、寝室に急いだ。クロゼットからサインツの服や下着などを引っ張り出し、旅行鞄にてきぱきと詰めて行く。
それが終わると、今度は鞄を持ってキッチンに移動した。パンやチーズ等、保存がきく物や、そうでない物を、めったやたらに詰め込む。
「ノラ、いったいどうしたと言うんだ?何があった?」
見かねたサインツがノラの両手を掴んで制止し、ノラはやっと我に返ることができた。
「……デムターさんから、伝言です」
ノラは小さな、小さな声で告げた。『とうとうこの日がきてしまいました。お別れです』
サインツの、いかにも賢そうな瞳が揺れた。彼はたった一言で、すべてを理解したようだった。
「先生、早くっ……」
逃げて下さい。ノラが口にしようとしたその時、玄関と裏口のドアが突然に開き、自称疫学研究員の、憲兵達が雪崩れ込んできた。バタバタバタ!と硬い靴底が何重にも重なって響き、ノラとサインツは立ち上がる間もなく取り囲まれた。
「な、なによ、あんたたち……!」
ノラは咄嗟に、サインツの頭を胸に抱えて叫んだ。男達の手には剣や槍が握られていて、ノラは震えた。
「そこを退け、女。我々が用があるのは、そちらの御仁だけだ」
ノラが言うことを聞かないでいると、男の一人が、剣をきらりとさせて脅し付けた。「邪魔をするならただでは済まさんぞ」
「物騒な真似はよさないか。誰も逃げやしない」
ノラの胸の谷間から抜け出したサインツは、のんびりとした口調で言った。
「危険武器等開発の容疑により、貴殿を拘束させていただきます。どうぞ、お手向かいなさいませんように」
サインツは立ち上がり、自ら男達の方へ歩いて行った。ノラは狼狽した。
「せ、先生……!」
「無礼だぞ女」
慌てて駆け寄ろうとしたノラを、男の一人が制止した。
「この方はサルバドール・ムルシア様とおっしゃって、現ヴォロニエ侯爵エドゥアルドゥ・ムルシア様の兄君でいらせられる」
「こ、侯爵様……?サインツ先生が?」
「そうだ。世が世なら、ヴォロニエ国王となられていたお方だ。お前のような下々の民が、気易く接して良い方ではない」
ノラは『とても信じられない!』という目でサインツを見た。サインツは居心地悪そうにした。「止せ。この子はなにも知らないんだ」
「家督は弟に譲り、侯爵家とは縁を切っている。今はただの老いぼれ教師さ」
サインツは皺の目立つ目元を緩め、混乱するノラを落ち着かせた。
「教え子と最後の別れをさせてくれ」
それからノラとサインツは、リビングに戻ってお茶を淹れた。二人きりで話すことは許されず、部屋の中に一人、扉の向こう側に一人、見張りが付けられた。
椅子に座ってごくりと一口お茶を飲むと、漸く人心地がついた。
「……驚きました。先生が、ヴォロニエ侯爵様のお兄さんだったなんて……どうして教えてくれなかったんです?」
「どうしてって……もしも私が打ち明けたとして、君、信じたか?」
聞き返され、ノラは少し考えた後、首を横に振った。「正直者め」サインツが声を立てて笑い、見張りの男を恐々とさせた。
「ノラ、君は私の最後の生徒だ。他に頼める者もいないので、私は君に後のことを任せたい」
ひとしきり笑った後、サインツは本題に入った。何しろ、時間がないのだ。ノラは気持ちを切り替えて、神妙に頷いた。
「よろしい。ではまず、この家のことだが……君が住んでもいいし、誰かに貸してもいい。
家具は残して行くので好きに使ってくれ。二週間に一度は空気を入れかえて、出来れば掃除もしてもらえるとありがたい」
「はい」
「それから、暇な時で良いので、そこの机の上の本をオシュレントン邸の図書室に戻しておいて欲しい。ずっと借りっぱなしで、返すのを忘れていてね。ついでに裏の畑の作物を収穫して、デムター氏に渡してくれ。私からのささやかな礼だと言って」
「わかりました」
「ガブリエラ先生と生徒たちには、君からよろしく言っておいてくれ。本当は直接別れを言いたいんだがな。くれぐれも、私の身分は明かさないように。余計な混乱を招きたくないんだ。……あと、これから言うものを、それぞれに渡してくれ」
直ぐ近くでは石像のような見張りが、二人の会話を聞き漏らすまいと、耳をそばだてている。他の者達は研究所の捜索に忙しいのか、絶え間なく騒音が響いている。
「燭台はカレン・ウォルソンに、テーブルクロスとカーテンはエレオノーレ・アレシに」
サインツは頭の中で選んだ形見の品を、すらすらと声に出した。
「一輪挿しと絵はヨハンナ・カレーラス、庭の置物とベンチはマチュー・オッケル、フライパンや鍋はジノ・シャルディニ、アガタには置き時計、シルビア・グッドマンには絨毯と壁のタペストリー」
「ちょ、ちょっと待って下さい。えーと……」
「棚の本はショーン・カートライトと、ジャック・フォローズ、エドワード・マージョラムで分けてくれ。デイビッド・ホールドには皮の前掛けとタンスの中の洋服、クリフォードには馬と荷馬車と農具一式、ジャン・ピッコリにはかんじきとスキー板とそり、ベン・ウォルソンには……なにが良いかな……そこの麦わら帽子と、貯蔵室の食糧をやろう。それから……」
まだあるの!?ノラがパニックしていると、サインツは徐に立ち上がって、花瓶に挿さった野の花を手に取った。
「この花を、サリエリの墓に」
「…………」
「彼も私の大切な生徒だ。決して忘れてはならない、ね」
ノラの目に涙が滲んだ。サインツはやがて大泣きしはじめたノラをきつく抱きしめ……
「サリエリの墓は、君がしっかりと守っていくんだ。良いね?」
と、念を押した。ノラは少し不思議に思ったが、しっかりと頷いた。
サインツは研究員を装った憲兵達に連れられ、その日の内に町を出て行った。
サインツが突然引っ越したことを知ると、町の人々は……特に生徒達は驚いた。
「薄情なのね、サインツ先生って。挨拶もなく突然引っ越すなんて」
無人となったサインツの自宅で、形見の鍋を受け取ったジノが、不満そうにぼやいた。
「良いことじゃない。ご家族が迎えにきたんでしょう?先生だってもうお歳だもの」
「それはそうだけど……」
「こういう一輪挿し、ずっと欲しかったのよね」
ヨハンナは狙っていた花瓶が手に入って嬉しそうだった。
雑事を終えた夕方、ノラはサリエリの墓を見舞った。サインツから受け取った野の花は歩いている途中にすっかり萎れてしまったので、途中の森で新鮮なものを摘んだ。
墓地へと続く小道を歩きながら、ノラは考えていた。
どうしてサインツは突然『サリエリの墓を守れ』なんて言い出したんだろう?埋められた棺の中に彼の遺体が入っていないことは、サインツだって知っているはずだ。
空っぽのお墓の何を守らなければならないのか。ずっと胸に引っかかっていた疑問は、墓地に到着すると同時に解消された。
墓地では巨漢のダミアン・マスグレイヴをはじめ、マッチョで長身のロドリーグ・バタイユ、シンド・デ・ルシア、リオナルド・ビュシェール等、この町に在留する九人もの憲兵達が、勢揃いでノラを待っていた。
「…………」
無視してサリエリの墓の前に跪いたノラは、掘り返された跡があることに気付き、はっとして彼等の方を振り向いた。泥だらけのブーツに作業着。なにより、剣の代わりに手にしたスコップが、ノラの疑念が真実だと伝えている。
ノラは険悪な目付きで憲兵達を……ダミアン・マスグレイヴを睨み付けた。
「密告の次は墓荒らし?憲兵ってずいぶん暇なのね」
ノラがいらいらと挑発し、ダミアンは口にくわえた煙草を地面に吐き捨てた。
「俺は何度も忠告したはずだぞ。聞かなかったのは先生の方だ」
「…………」
「時間の問題だったんだよ。こうなることは」
悔しいが、ダミアンの言う通りだった。彼は毎週のようにサインツの自宅を訪ねては、注意を喚起していた。耳の痛い忠言を、サインツはいつも、のらりくらりとかわしていた。
サリエリの墓に花を手向けて立ち上がると、ダミアンが近付いてきた。
「先生からお前に贈りもんだ」
彼はその手に抱えられた小箱を、ノラに向かって突き出した。「開けてみろ」
ノラは小箱の蓋を開けて、中身を確認した。
「これは……」
柔らかそうな布のクッションの上に横たわる、金属の塊。視界に入れた瞬間、ノラの脳裏にまざまざと当時の記憶が蘇ってきた。
両親の夫婦喧嘩を発端とした、ひと月半にも及ぶ大冒険。人攫いに騙され、売られて行く子ども達の顔。サリエリと歩いたミミエスの町並み。旅を終えて母の胸に飛び込んだ時の、後悔と安堵。
最も強烈に印象に残っているのは、殺人鬼シュテファン・ババコワの隠れ家で過ごした、数日間の出来事だ。目の前の金属の塊は、あの時二人を助けてくれた恩人、大悪党ロザリンダ・スカリが持っていた、雲を晴らす魔法の筒と、同じもののように見えた。
とても、とても危険なものだ。ノラはごくりと唾を飲み、添えられた手書きのメモを開いた。
『この町で最も賢良な者に、この宝を託す。君の人生に幸多かれと願う』
ノラは慌ててダミアンに小箱を突き返した。
「これを託されたのは、サリエリよ。私じゃない」
「先生はお前に言ったはずだ。坊やの墓を守れと。そいつはお前のもんだ」
ダミアンはノラの主張を退けた。
ずっしりと重たい小箱を手に、ノラは途方に暮れた。元に戻そうにも土を被せられてしまっているし、石の棺の蓋はノラ一人の力では開かない。
「肌身離さず持っておけ。そして決して人に見せるな」
ダミアンは背を向けて、町の方へ向かって歩き出した。ノラはその背中に向かって問いかけた。
「出ていくの……?」
「……ああ。もう俺達がこの町にとどまる理由はないからな」
新しい憲兵が派遣されてくるのを待って、ダミアン達は町を出て行った。