困惑のノラ
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翌日、ノラは久しぶりに母ベスタの顔を見た。
「お母さん、お話があります」
ノラと母はキッチンのテーブルに向かい合った。何の話か薄々感付いているようで、母の顔面はいつになく強張っていた。
「お母さん、私は誰とも結婚はしません。幼年学校を卒業したら、私は、孤児院の職員になります」
ノラは母の目を見詰めて、はっきりと宣言した。
「本気なの?勝手をするというなら、二度と家にはあげないわよ」
「……それでも、構わない」
たとえ勘当されたとしても、これだけは曲げられない。ノラの決意は母を深く悲しませた。世界中の絶望を背負ったような母を見て、ノラは心が痛んだ。
「お願い、わかってお母さん。お母さんを悲しませたいわけじゃないの」
「…………」
「結婚はしたくないの。どうしても……」
ノラは母の手を握って懇願した。母はその手を乱暴に振り払った。
「……私を苦しめて、お前はひどい娘よ。二度と顔も見たくないわ」
「お母さん……」
「出て行って。早く」
母は顔をそむけ、頑なな調子で命じた。こうなってしまうと、なにをどう弁解しても無駄だと言うことを長年の付き合いで知っているノラは、すごすごと退散した。
部屋に戻ったノラは、しばらく何もする気になれず、ベッドに突っ伏していた。脳裏には消沈する母の顔が浮かび、固く決意したはずの心が、ぐらぐらと揺れた。母の忠言を聞かず、我を通すことが本当に良いことなのかどうか。夢も計画もなく家を出て、本当に独りでやって行けるのかどうか。先のことを考えると不安でたまらなくて、ノラは今すぐ謝罪してしまいたい衝動に駆られた。
少し気力が出てくると、ノラは机の引き出しを開いた。
(あら……?)
引き出しの中をごそごそやってみたが、目的の物が見当たらない。机の下や本の隙間や、ベッドの下まで捜してみたが、やっぱり見当たらなかった。
犯人は直ぐにわかった。先の一件でいらいらしていたノラには、いつもなら笑って許せたかもしれない幼い弟の悪戯が、酷く悪質なものに思えた。
ノラは今にも爆発しそうな怒りを腹にため込んだまま、ジャンの部屋に向かった。
「ジャン!あなたね、私の腕輪を持って行ったのは!」
ノラはノックもせずに、ジャンの部屋の扉を開いた。ジャンが手に持っていた何かを慌てて背中に隠したので、ノラは確信した。
「他の物ならなんだって譲ってあげるわ。でも、あれだけは駄目!あれはとても大切なものなの!」
「…………」
「返してちょうだい!さあ、早く!」
ノラはずいと右手を突き出して、背中に隠している物を出すように求めた。
ジャンはしばらく抵抗していたが、ノラに譲る気がないとわかると、腕輪を……サリエリの形見の腕輪を、床に投げ付けて部屋を飛び出して行った。
ノラは慌てて腕輪を拾い上げ、胸に抱きしめた。腕輪が乱暴に扱われると、まるで彼そのものが粗略に扱われた気がした。悲しくて、腹立たしくて、やり切れない。ジャンのことが、はじめて憎らしいと思えた。ヨハンナの言う通り、少し、甘やかし過ぎたのかもしれない。
それから三日間もの間、ノラは家族の誰とも口を利かずに過ごした。母は言わずもがな、ジャンは部屋に引きこもっていたし、ノラも率先して話しかけようとはしなかった。
そして迎えた、四日目の朝。母はノラをキッチンに呼んだ。
ノラと母は、テーブルを挟んで向かい合った。覗き込んだ母の瞳は別人のように落ち着いていて、ノラは緊張した。
「……お前の気持ちはわかったわ」
母の力ない声には、諦めの色が滲んでいた。
「お母さん……それじゃあ……」
母が渋々と言う風に頷き、ノラは歓喜した。「ありがとう!お母さん!」
「でも、孤児院はだめよ。就職するなら別のところになさい」
「?別のところ?」
「マントウィック男爵夫人が、新しいメイドを探しているそうよ。幼年学校を卒業したら、一年間、行儀見習いも兼ねて行ってらっしゃい」
母はこの三日の内に、ノラの新たな就職先を探してきたのだった。ノラは母の真心に胸を打たれた。
「男爵夫人にご迷惑をかけないよう、しっかり務めるのよ」
「はい、一生懸命頑張ってきます」
ノラは感極まって母に抱き付いた。母は憑き物が落ちたような顔で、愛する我が子を抱きしめ返した。
「わがままな娘でごめんなさい」
「……思えば昔から、あなたが私の思い通りになったことはなかったわね。売れ残って後で泣いても、知りませんからね」
その日の夕方、ノラはご機嫌取りのために用意した蜂蜜入りのミルクを持って、ジャンの部屋を訪ねた。
ノックをしても返事がないので、(いつものことだが)ノラはそっと扉を開いて部屋に入った。
「…………」
ジャンは眠っていた。ノラの使い古した下着を、命綱のようにしっかりと抱きしめて。その頬には涙の跡があり、ノラの胸は深い後悔に襲われた。
いったい今まで、彼の何を見てきたんだろう?この幼く無力な弟は、こんなにも肉親の愛情を必要としているのに!
「かわいいジャン……お姉ちゃんはお前が大好きよ」
せめて夢の中でくらい、彼が安らかでいられますように。願いを込めて、ノラはジャンの頬にキスを落とした。
「進学のチャンスをふいにして、召使いになるだと!?」
進学を止めて奉公に出ることを告げると、サインツはまなじりをさいた。
「召使いじゃなくて、メイドです先生」
ノラは親切に訂正した。
「主人にこき使われるという点では、同じことだ!なんと愚かな!」
サインツはノラの決断を喜ばなかった。てっきり賛成してもらえると思い込んでいたノラは、困惑した。
「お言葉ですけど先生、メイドと言えば、世の女の子達の憧れの仕事です。貴族でもない私を雇ってくれるんだから、ありがたく思わ言ないと……」
「金持ちに靴を履かせるのが、憧れだって!?……くだらん!君がそんなに短慮な人間だとは思わなかった!」
「先生、何をそんなに怒っているんです?孤児院に就職すると言った時は、応援してくれたじゃないですか」
サインツが烈火のごとく怒り狂い、ノラは半ばパニックになりながら尋ねた。彼がこんなにも声を荒げるのは、ここ何年もなかったことだ。
「弱者に奉仕するのと、権力者におもねるのでは意味が違う!私は断固反対だ!だいたい、せっかく合格したものを、なぜ他人に譲ったりしたんだ!断るくらいなら最初っから受けなきゃ良かっただろう!」
サインツはノラが何を言っても聞き入れず、しまいには研究室に閉じこもってしまった。仕方なく、ノラは肩を落として帰路に着いた。
その帰り道でのことだった。ヨハンナの姿を見かけたノラは、声をかけようとして様子がおかしいことに気付き、思いとどまった。
ヨハンナの傍らにはベン・ウォルソンがいて、二人は人目を避けるように木陰に立っていた。こんな町外れの森の中で、なにをしているんだろう?ノラがしばらく見ていると、ベンが両手でヨハンナの頬を挟んだ。
(これはっ……)
いけない!と思いつつ、ノラは目を逸らすことが出来なかった。ノラが食い入るように見つめていると、嫌がる素振りを見せるヨハンナの顎を、ベンが強引に上向かせた。
「!!!」
思いがけず友人のキスシーンを目撃してしまったノラは、飛び出しそうになった黄色い悲鳴を、上唇と下唇を前歯の内側に巻き込んで堪えた。
ノラは我知らず身を乗り出し、固唾を呑んで成り行きを見守った。出来ることならこのまま空気のようにここに潜み、第二幕を観賞したかったが、そんな出歯亀みたいな真似は神様が許さなかった。ヨハンナがベンの頬を思い切り引っ叩いて、全速力でこちらに駆けてきたのだ。ど、どうしよう!隠れなきゃ!
「ノラ!出して!」
ヨハンナは道の真ん中であたふたしているノラに気付くと、ノラが操る荷馬車の御者台に乗り込んできた。
「ええ!?」
「早く!ゴー!ゴー!」
ノラはヨハンナにせっつかれるまま、荷馬車を発進させた。
「ヨハンナ!待ってくれ!……ヨハンナ!」
背後からベンの悲願の声が聞こえ、ノラはちらりと隣のヨハンナを盗み見た。ヨハンナは眉間にしわを寄せ、唇をきつく噛みしめていた。
覗き見していた負い目に加え、口を開けば根掘り葉掘り問いただしてしまいそうだったので、声をかけるにかけられず、ノラは黙って荷馬車を走らせ続けた。
やがて二人を乗せた荷馬車がカレーラスの家に到着し、帰ろうとしたノラを、ヨハンナが引き留めた。「その……お茶を飲んで行かない?」ノラは喜んで呼ばれることにした。
家人は仕事に出ていて、広いリビングにはノラとヨハンナの二人きりだった。ノラは『お茶なんか良いから、早く真相を聞かせて!』と思ったが、ヨハンナはノラのために、ハーブ入りのホットミルクを淹れた。
全ての準備が整うと、二人は広いテーブルを挟んで向かい合った。
「……まったく気付かなかったわよ。あなた達、いつからそういう関係なの?」
ノラの質問に、ヨハンナは少し考えてから答えた。「そうね……」
「半年くらい前からよ……ずっと好きだったって言われて、私……」
ヨハンナは手元のカップを弄びながら、もごもごと告白した。
「その……どこまでいってるか、聞いても良い?」
「……何度かキスしたわ」
ヨハンナが頬を染めて気恥ずかしそうに答え、ノラは衝撃を受けた。『ヨハンナ!大人!』
「プロポーズされたの。学校を卒業したら、結婚しようって……でも私、迷ってるの」
「ベンのこと、好きなんでしょう?」
「そうだけど……」
「……お家の人に、反対されてるの?」
ヨハンナは首を左右に振った。
「家族は大賛成なのよ。ベンなら小さい頃から良く知ってるから、安心だって。でも……」
ヨハンナはため息交じりに告げた。
「考えてもみてよ。あのカレン・ウォルソンが、小姑になるのよ?」
ノラは「あー……」と納得した。
「私達が付き合ってること、カレンはまだ知らないの。反対されるに決まってるわ」
「じゃあ、もしカレンが賛成してくれたら、ベンのプロポーズを受けるのね?」
ヨハンナは明確に答えようとせず、言葉を濁した。「なんだか、急すぎて……」
「今は混乱しているだけよ。一晩じっくり考えてみたら?返事は待つと言ってくれたんでしょう?」
重々しく頷くヨハンナは、ノラの目にとても眩しく映った。
「……物事を決める時は、深く考えては駄目よ。まずは飛び込んでみて、与えられた環境の中で、出来るだけの努力をすれば良いのよ」
ノラがとっておきを披露して、ヨハンナは目を丸くした。ノラはうふふと笑った。「悩める子羊に、天使からアドバイスよ」
それから三時間近くも話し込み、ヨハンナの家を出たのは、太陽が傾きはじめた頃だった。
「あまり思いつめないでね。私で良ければ、いつでも話を聞くわ」
「ありがとう。あなたに相談して良かった」
ヨハンナはそう言うと、急にそわそわし出した。
「?どうしたの?」
「私ったら逃げ出したりして……ベンは怒っているかしら?」
「平気よ。ベンだもの。明日になったらすっかり忘れてるわ」
ヨハンナはノラの意見に丸ごと同意した。「それもそうね」
「そういえば、あなたの方はどうなってるの?」
ヨハンナが質問して、ノラはため息交じりに答えた。「お見合いのことなら、断ったわ」
ついでに、国立魔学校の試験を受けたことや、合格して辞退したことや、マントウィック男爵家に奉公に行くことになったこと等を、ざっくり報告した。
「強いのね。ノラは」
「……子供なだけ。ロイには悪いことをしちゃった」
「仕方がないわよ。こればかりは」
ノラはヨハンナと別れて帰路に着いた。道中、ノラは考えていた。
(ヨハンナが、あのベンと……ねぇ?)
ベン・ウォルソンと言えば。遅刻の常習犯で、ノラに負けず劣らずの悪戯坊主で、成績はいつも尻から数える方が早い、子どもの代名詞みたいな男の子だ。そんな彼が女の子にプロポーズしたなんて……その相手がヨハンナだなんて、俄かには信じられない。
(……そうか……そうよね……)
ノラより一つ年上のベンは、今年で十六歳。十六歳と言えば、世間的には、いつ結婚してもおかしくない歳だ。彼は一足早く学校を卒業したし、仕事も持っている。資格は十分にある。
今まで分からなかったいろいろなことが、急に理解できたような気がした。同時に、背筋が寒くなった。
(結婚……ヨハンナが……)
足元がぐらぐらした。ノラは気持ちを落ち着けるために、三回、深呼吸した。
ノラが帰宅すると、産休中のガブリエラが、リビングでお茶を飲んでいた。ノラは荷物を放り出し、嬉々として駆け寄った。
「ガブリエラ先生!どうしたんですか?」
「近くまできたので、あなたの顔を見に寄ったのよ。お母様から、あなたの卒業後の進路について聞いていたの」
お喋りな母が、また何かノラの悪口を吹聴したのだろう。
あんまりおかしそうに笑っているので、ノラはそうに違いないと思ったが、ガブリエラはそのことには触れなかった。
「男爵家に奉公に行くんですって?あなたは負けん気が強いし、心強い相棒もいることだし、心配いらないわね」
「?相棒……?誰のことです?」
「そのうちわかるわ」ガブリエラは勿体付けた。
「お腹、ずいぶん大きくなりましたね。今何か月ですか?」
ノラが尋ねると、ガブリエラは膨らんだお腹を、愛おしそうにぐるりと撫でた。第一子を妊娠中のガブリエラは、半月前に会った時より、大分ふくよかになったようだった。
「五か月よ。悪戯はともかく、あなたのように元気いっぱいに育ってほしいわ」
ノラはガブリエラのお世辞を真に受けて、いししと笑った。
ガブリエラは小一時間ほど話し込んだ後、席を立った。「さて、そろそろ帰るわね。あまり長居しちゃ悪いから」
「あ、待って先生。私、先生に相談したいことが……」
ガブリエラは、「向こう見ずさんが相談!?明日は槍が降るわね!」などと言って、ノラをからかった。ノラは抗議しようかと思ったが、時間もないことだし、相談を優先した。
「サインツ先生は、私がメイドになることに、反対みたいなんです。金持ちに媚びるなんて、愚か者のすることだって」
話している内に、ノラはしょんぼりしてきた。常々変わった老人だと思っていたが、これほど気持ちが通じないのは、はじめてのことだ。
貴人の屋敷で働けるなんて、農民ばかりのこの町の人間からすれば、大変な出世だ。特に、嫁入り前の女の仕事としては申し分ない。
ノラは深く悩ましいため息を吐いた。サインツと知り合って早五年。彼を理解しようと努力してきたが、今回ばかりは難しそうだ。サインツの精神の深淵は、その知識の広さと同じくらい、果てがないようだ。
ガブリエラは「まるで恋煩いね」と苦笑した。
「出来の良い生徒を手放すのが惜しいのよ。サインツ先生の気持ちわかるわ」
「そうでしょうか……?」
「そうよ。私はあなたの決断を応援するわ。サインツ先生も、時間が経って冷静になれば、わかって下さるわ」
ガブリエラはバラ色の頬をにっこりさせて、彼女らしい、大雑把な励ましを言った。
「明日にでも、もう一度訪ねて行ってごらんなさい。案外忘れてるかもしれないわよ」