天使の導き
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ノラがいつまでもホールに戻れないでいると、そこへ、お隣のアンジェラ・カルカーニがやってきた。
「こんばんは、ノラ。楽しんでる?」
痴呆の気のあるアンジェラは、夫の顔すら思い出せない日がある。今日はどうだろう?と考えていると、彼女はノラの顔を見て親しげに微笑んだ。
「こんばんは、おばさん。ええ、まあ……」
ノラはほっとして、挨拶を返した。
「浮かない顔ねぇ、どうしたの?」
アンジェラはノラの気鬱を敏感に察した。
ノラは少し迷ったが、アンジェラに事情を話すことにした。
母が頻りに結婚をすすめてくることや、弟のジャンが自分に懐いてくれないこと、就職や進学の悩み等、触りだけ話すつもりが、気付いた時には、ここ最近身に降りかかった小さな災難も含めて、洗いざらいぶちまけていた。
アンジェラはノラの話を黙って聞き、最後に一つだけアドバイスした。
「結婚するにしても、進学するにしても、物事を決めるときは深く考えては駄目よ。まずは飛び込んでみれば良いのよ。そうして与えられた環境の中で、出来るだけの努力をすれば良いのよ。頑張っていれば、必ず道は開けるからね」
アンジェラの助言はノラの心を軽くし、勇気付けた。その翌日のことだった。アンジェラは彼女の愛する夫に見守られ、天の国へと旅立って行った。
故人の希望で、葬儀はその日の内に執り行われた。二日酔いを押して参列した人々は、哀悼の意を表しながらも、式の間中、どこかぼんやりしていた。いよいよ棺の蓋が閉じられるとなると、夫のカシマ・カルカーニが、彼女のチャーミングな死に顔にキッスして、皆の涙を誘った。
「ノラ、待ってくれ。君に渡したいものがあるんだ」
葬儀の帰り、母と共に帰宅しようとしていたノラを、カシマが引き留めた。カシマは首を傾げるノラに、手紙を差し出した。
「アンジェラの遺品を整理していたら、ベッドの下から、こんなものが出てきたんだ」
封筒を裏返し、差出人を確認したノラは息を呑んだ。
「本当にすまないなぁ。あいつ、どうしてこんな真似をしたんだか……」
「…………」
それは彼が、町を立つ前日にしたためたものだった。
ノラが震える手で封を開き、中の手紙を取り出そうとすると、手紙と一緒に入っていた何かがひらりと地面に落ちた。拾い上げた瞬間、長い間頭の隅に追いやられていた記憶が、洪水となって押し寄せてきた。
「あっ……」
真ん中が焼け焦げて、半分になったリボン。白い生地の上にレースが重なったそれは、ランベル夫人の力作であり……
「ああっ……!」
五年前の昨日、サリエリが勝ち取った、芋の皮むき競争の優勝賞品だ。
「その、なんてお詫びしたら良いか……」
ノラの目から大粒の涙がこぼれ出し、カシマは狼狽した。
「……いいえ……いいえ、おじさん。もう一度彼に会えるなんて、夢のようよ」
カシマが帰宅し、墓地に一人居残ったノラは、サリエリの墓の前に座り込んで、手紙をじっくりと読んだ。一文字、一文字追うごとに、思い出の粒が頭の中で弾けて、ノラを堪らない気持ちにさせた。
笑ったり、泣いたりしながら手紙を読み終えたノラは、便箋を鼻に押し当てて、大きく息を吸い込んだ。少し黄みがかった便箋からは、確かに、五年前の冬の香りがした。
ノラは長い間サリエリの墓の前に座り込み、考えていた。もしも……もしも彼が生きていて、まだこの町で、暮らしていたとして……
「…………」
ノラが見合いしたと知ったら、何と言うだろう?やきもちを焼いてくれた?結婚なんて止めろと言ってくれた?
ノラは便箋とリボンを丁寧に封筒の中に戻し、立ち上がった。歩き出した彼女の胸は、締め付けるような切なさと、勇気に満ちていた。一足先に旅立ったせっかちな友人が、遠い遠い空の向こうの国から、一人の天使の力を借りて、ノラを導いてくれたのだった。
「そうか!受ける気になったか!」
ノラが進学を決意したことを伝えると、サインツは自分のことのように喜んだ。
「はい。それでその、一昨日から勉強をはじめてみたんですが、ずっとさぼりがちだったから大変で……」
試験に間に合うかどうか……
「君の目は節穴かね?私を誰だと思っているんだ?」
情けない顔をするノラに、サインツがにやりと笑ってみせた。
「安心したまえ。私の教師人生にかけて、必ず合格させてみせる」
胸を反らして宣言するサインツを、ノラは尊敬の目で見つめた。「先生、頼もしい!」
その日から、ノラは猛勉強をはじめた。母にばれないよう、夜中に起き出して勉強するのは大変だったが、毎日が充実していた。明確な目標があると些細なことは気にならないもので、母のお小言も、ご近所さんのお節介な忠言も、笑って聞き流せるようになった。
進学するに当たり、ただ一つ気がかりなのは、ジャンのことだった。ノラが町を離れるとなれば、幼い弟は今度こそ独りぼっちになってしまう。彼はノラの進学を、どう思うだろう?いやそれ以前に、まだ進学の意味が理解できないかもしれない。
ノラはぎりぎりまで迷い、結局秘密にしておくことに決めた。まだ合格するかも分からないのに、煩わせることはないと思ったのだ。
サインツに手助けしてもらいながら準備を進め、ついに迎えた試験当日。
朝方にこっそり家を抜け出したノラは、歩いて試験会場である幼年学校へ向かった。試験官はヘルガではなく、ゲイリー・マカスカーという高年の紳士で、密かに期待していたノラは、少しがっかりした。
受験者は、ノラ一人きりだった。筆記試験と簡単な面接を終えると、午後には家に帰された。ヴォロニエの受験者を含めて選考され、結果が届くのは二か月後だそうだ。
空いてしまった午後の時間をどうしようかと考えながら歩いていると、家まであと少しというところで、後方から荷馬車が近付いてきた。荷馬車は道の端に避けたノラを追い抜いて、三メートルほど先で止まった。
御者台から降りてきたのはヒューゴ・キャンピオンで、ノラは頭痛がした。お屋敷に用事がある時、彼はわざわざ遠回りしてノラの家の前を通るのだ。
「…………」
ただ、今日はいつもと様子が違った。御者台にはもう一人、キャンピオン家の家長ロナルド・キャンピオンからどら息子の監視を任された目付け役……つまり、クリフォードが乗っていた。
ノラは一度深呼吸してから、荷馬車に近付いて行った。
「こんにちはヒューゴ。クリフォードも……」
「やあ、ノラ!偶然だな。今帰りか?」
ヒューゴがお約束を披露して、ノラは脱力した。家の前の道には不自然にたくさんの轍が伸びていて、彼等が何度もこの道を往復したのは明白だった。
「そうよ。それじゃあね」
経験から何を言っても無駄だと悟っているノラは、付き合っちゃいられないと、素っ気なく告げた。
「待って!」
さっさと立ち去ろうとするノラの腕を、ヒューゴが慌てて掴んだ。
「家に帰るなら、送って行くよ!」
「良いわよ。直ぐそこだもの」
ノラは目と鼻の先にある我が家を指した。玄関まで、あと五〇歩もない。
「まあ、そう言わずに。さあ乗って乗って」
ノラはヒューゴの手を振り解こうとしたが、ヒューゴは放そうとせず、しつこく同伴を勧めた。焦れたノラが引っ叩いてやろうかと考えていると、頭上から声が降ってきた。
「ノラ」
クリフォードの声が自分の名前を呼ぶと、心臓がぴょんっと跳ねた。
「乗って行けよ」
大人びた笑顔は、ノラの負けん気を俄かに大人しくさせた。
ノラは頬を染めて俯き、ヒューゴがまなじりを吊り上げた。
「こら、クリフォード」
ヒューゴは胸の前で腕を組み、とん、とん、と靴底で地面を叩いた。
「気安く呼び捨てにするんじゃない。彼女はいずれ俺と結婚して、キャンピオン家の女主人に……つまり、お前の雇い主になるんだからな」
奥様と呼べ!
ヒューゴがとんちんかんなことを言い出して、ノラはぎょっとした。なんだって?
「俺は彼女を送って行くから、お前はさっさと仕事に戻れ。……ったく、少しは気を利かせろよな」
ノラが呆気にとられている内に、クリフォードは方向転換して、キャンピオン家の畑の方に戻って行った。我に返った時には、荷馬車はもう走り出した後で、去り際のクリフォードがどんな顔をしていたのか、知ることは出来なかった。
ノラが唇をわなわなさせていると、ヒューゴが彼の背中に向かって大声で怒鳴った。「親父には上手く誤魔化しておけ!」
「さあノラ、行こうか」
「…………」
「?ノラ?どうかした?」
突如、ノラは片手を振り上げて、ヒューゴに殴りかかった。ヒューゴは驚きながらも、持ち前の反射神経でひらりと避けた。
「馬鹿!誰が女主人よ!あんたなんかと結婚するもんですか!」
「ま、待って!なに怒ってるの!?」
「もう二度と顔見せないで!次に会ったら承知しないわよ!」
その後、しばらくは鳴りをひそめていたヒューゴだったが、一週間くらいすると、再び顔を見せるようになった。結局何故怒られたのかはわかっていないようで、ノラの頭痛が解消されることはなかった。
試験結果が届くまでの二か月間、ノラはとにかく母と顔を合わせないよう、逃げ回って過ごした。朝は母が目を覚ます前にベッドを抜け出して出勤し、夜は皆が寝静まってから帰宅する。はじめのうち、母はどうにかしてノラを捕まえようとしていたが、ひと月もすると諦めた。
日々をなんとかやり過ごし、二か月後の日曜日。
ノラは試験の結果を聞きに幼年学校へ向かった。
「おめでとう、ノラ。やったな」
幼年学校の前には先にサインツがきており、ノラが口を開くより早く告げた。
「サインツ先生……それじゃ、結果は……」
「満点合格だそうだ。中で使者殿から詳しいお話がある」
教室では、この度試験官を務めたゲイリー・マカスカー氏が、子供用の小さな椅子に座ってノラを待っていた。身体が大きいので、酷く間抜けに見えたのは余談だ。
マカスカー氏は入り口のところでもたもたするノラに、「早くかけたまえ」と、真向いの椅子を勧めた。
「まずは、合格おめでとう」
マカスカー氏は、ノラが席に着くのを待って祝福した。小さな椅子は納まりが悪く、ノラはお尻をもぞもぞさせた。「あ、ありがとうございます……」
「担当の試験官として非常に鼻が高い。受験者の中では君がダントツの……あ、いや、筆記試験の結果は確か、同点一位だったな」
マカスカー氏は言い直して、手元の資料を捲った。
「同点?」
「ああ。もう一人、ピート・リックマンという、十七歳の青年が満点だった」
「じゃあ、その人も入学を?」
「いいや。選ばれたのは君一人だ」
マカスカー氏が答えて、ノラは首を傾げた。
「?なぜです?なぜ私一人なんです?」
「なぜって……もともと枠は一人分だ」
「…………」
「ピート・リックマンは成績は優秀だが、孤児院出身だ。理由があるとすれば、そこだろうな」
それから、ノラは入学の手続きなどの説明を受け、教室を出た。教室の外ではサインツが待っていた。
「帰ってとっておきのワインを開けよう。つまみは酢漬けと……チップスが残ってたな。それともなにか買って……」
上機嫌であれこれ計画していたサインツは、ノラの様子がおかしいことに気付いた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
「いえ……」
辛気臭い顔をするノラをサインツは訝ったが、勉強疲れが出たのだろうと思い、しつこくするのは止めておいた。
その夜、天井を見つめながら、ノラはじっと考えていた。国立魔学校に行って、自分はなにをするつもりなのか。それが問題だ。
「…………」
今の自分は、特別悪魔学者になりたい訳ではない。だからと言って、別の夢がある訳ではないが、情熱を持たない自分が、誰かのチャンスをいたずらに奪って良いものだろうか?結婚したくないと言う、ただそれだけの理由で……
「……はあ……」
道が開けると思って受験することを決めたが、気が付けば新たな迷宮の中にいた。
ノラは机の引き出しから、サリエリの手紙を取り出し、そっと中を開いた。
(綺麗な字……)
ピートという青年も、いっぱい勉強したんだろう。ノラと同じか、それよりもっと。働きながら、眠い目を擦りながら……そう、彼のように。
「大切なのは、譲り合いよ……そうよね?」