波乱のダンスパーティ
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仕方なく、ノラは子ども達の傍から離れることにした。
手持無沙汰なノラが辺りをぶらぶらしていると、会場の片隅に、ジャンの姿を見つけた。ジャンは楓の樹の黒い影の中に、ひっそりと佇んでいた。
「…………」
発育が良過ぎるせいで、同年代の子ども達の輪に入って行けないジャン。大人たちはそんな彼を遠巻きに見て、ひそひそと言寄せている。そのほとんどは世間話の延長のような陰口だが、中にはジャンのことを悪い病気だと決めつけて、子供を近寄らせようとしない親もいる。
笑い合う人々を、物欲しそうな目で睨むことしか出来ない弟が、ノラは不憫でならなかった。寡黙で無愛想なジャンは、自分から人の傍に寄って行こうとしない。なぜ彼が孤独になりたがるのかは、誰にも、実の姉のノラにもわからなかった。
なんとかしてやりたくて、ノラは合唱を終えて戻ってきた孤児院の子ども等を捕まえた。
「ねぇ、あの子も仲間に入れてあげてくれない?」
ノラは広場の片隅を指して頼んだ。指の先にジャンの姿があるとわかると、ロザンナとベアトリス・クレマンは、困り顔を見合わせた。
「だって、なんだか怖いんだもん」
「あの子、本当に先生の弟?全然似てないよ」
いくらノラの頼みでも、こればかりは聞けない、というような口ぶりだった。
二人は競い合うように走って行ってしまった。彼等の向かう先……綱引き相撲会場では、ヒューゴ・キャンピオンが、挑戦者のブレンダン・アダムに勝利したところだった。
ノラは諦めて、一人でジャンのもとへ向かった。
「お姉ちゃんと一緒に、お祭を見て回りましょう」
ノラが誘っても、ジャンは樹の下から動こうとしなかった。どうやら彼は木陰の中を安全地帯と考えているようで、ノラが強引に連れ出そうとすると、はげしく嫌がった。
ノラが根気強く説得を続けていると、そこへ、ヨハンナがやってきた。
「こんなところにいた。もう直ぐ戦車レースがはじまるわよ。向こうでジノが場所取りしてるわ」
ヨハンナは一目で状況を理解し、人好きのする笑顔でジャンに近寄った。
「一人なの?お姉ちゃん達と一緒に来る?ん?」
ヨハンナが腰をかがめて、ジャンの頭に触れようとしたその時、事件は起こった。
「いたっ!」
あろうことか、ジャンがヨハンナを両手で突き飛ばしたのだ。ヨハンナはごろんと転倒し、ノラはぎょっとした。
「ジャン!?なにをするの!?」
ノラは大慌てでヨハンナに駆け寄った。彼女を助け起こしている間に、ジャンは走り去ってしまった。
「んもう!なんなの!?」
「ごめんなさいヨハンナ。きっとびっくりしたんだわ。いつもはあんなことしないのよ。本当よ」
「あなたが甘やかしすぎるからよ!どうするのよ!ドレスが泥んこじゃない!」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
ヨハンナはしばらくぷりぷりしていたが、戦車レースがはじまる頃には、すっかり機嫌を直していた。怒ってもすぐに忘れてしまうのが、彼女の一番の長所だ。
「今年はどちらが勝つかしらね」
ジノが早朝から場所取りした特等席に立ち、戦車レースの進行係が出てくるのを待ちながら、ヨハンナが言った。
「クリフォードよ。絶対、クリフォードよ」
繰り返すジノは、手作りの応援グッズを片手に、本人以上の意気込みようだ。
去年、クリフォードは御者のダニエル・モリンズに、接戦の末惜敗した。道の向かい側では、今年こそは!と願う彼のファンの少女達―――トリシア・フォローズや、カレン・ウォルソン、アガタ・デビ、ユリヤ・ポワソンとマルカ・ポワソン姉妹、等々―――が長い壁を作っている。
続いて、ノラは戦車の横で待機しているクリフォードを見た。クリフォードは彼の専属トレーナー兼技術者の、ヨーハン・ギルデン氏と熱心に話し込んでいた。その真剣な表情に、隣のジノがうっとりしている。
ノラが何気なく見ていると、クリフォードがこちらに気付いて振り向いた。ノラと目が合うと彼は急に笑顔になって、顔の横でグーを作って見せた。
「クリフォード!がんばって!」
言葉のないメッセージにノラがどぎまぎしていると、隣のジノが興奮気味に手を振った。
ノラははっと我に返り、恥ずかしくなった。『どうして自分に合図したなんて思ったんだろう?』
ノラはレースの間中、顔が上げられなかった。そのことは、レースになんの影響も及ぼさなかった。恋人の大きな声援を受け、クリフォードはダニエルに大差を付けて優勝した。
「おめでとう、クリフォード」
「今年はもうだめかと思ったのに、最後の追い上げは凄かったなあ」
「見ろよ。ダニエルの、あの悔しそうな顔」
人々は口々にクリフォードを称えた。
クリフォードは鍛冶屋のヨーハンをはじめとする彼の応援団の男達に担がれて、壇上に上って行った。
「ジノあなた、こんなとこにいて良いの?」
「大変!私、行かなきゃ!」
町長のデムター氏から、優勝者の頭にミモザの冠を乗せる役を仰せつかったジノは、慌てて走って行った。
「まるで結婚式みたいね」
勝利を祝福されるクリフォードと、その隣にぴったりと寄り添うジノを見て、ヨハンナがため息交じりに呟いた。「ええ、そうね」とノラは同意した。樹上からまき散らされる花吹雪の中、照れたように微笑み合う二人は、初々しい新郎新婦という感じだった。
「……ヨハンナ、悪いけど私、そろそろ帰るわね」
「え?もう帰るの?」
「うん。支度があるから早く帰って来いって、母がうるさいの」
「あんたも大変ねぇ……わかったわ。また夜にね」
「悪いわね」
最後にもう一度だけ舞台上のクリフォードとジノを見て、ノラは一人、賑わう広場を後にした。
「遅かったじゃない!子ども達を送り届けたら、すぐに帰ってくると言ったでしょう!」
我が家では、準備万端整えた母と、母の宿敵のランベル夫人が、ノラの帰りを今か今かと待っていた。ランベル夫人はノラの見合い話を聞き付けて、率先して手伝いを買って出たのだった。
「さあ、さあ、早くお風呂に入って、着替えるのよ」
言われた通り身を清め、着替えて部屋に戻ると、鏡台の前には何種類ものこてや櫛が用意されていた。
「ねぇお母さん、何もここまですることは……」
ないんじゃない?言い終わる前に、母はきっと眉を吊り上げ、ノラを黙らせた。
母とランベル夫人は二人がかりで、ああでもない、こうでもないと言い合いながら、二時間もかけてノラの髪をセットした。母が目指すところの『完璧な支度』が終わった頃には、ノラはくたくたのへとへとになっていた。
「さあ、これで良いわ」
母は顔中に白粉をはたかれたノラを見て満足気に頷き、ランベル夫人はノラの周りをぐるっと回って、手抜かりがないか入念にチェックした。
「今夜のパーティの主役はあなたよノラ。美しく変身したあなたを見れば、アリンガムの堅物も『一ころ』よ」
「はあ……どうも、ありがとうございます、ランベル夫人。巻き込んでしまって、すみません」
「愛弟子の一大事ですもの。駆け付けるのが当然でしょう?」
ランベル夫人は『結婚式の時も、私が支度をしてあげますからね』などと言って、ノラをドギマギさせた。
それから半日もの間、ノラはドレスが汚れてはいけないからと、立ち上がることさえ許されなかった。身じろぎでもしようものなら、母の厳しい視線が飛んできた。
そのうちランベル夫人は帰ってしまい、母も家の用事を済ませるために、ノラにくぎを刺して部屋を出て行った。「なにがあっても、そこを動くんじゃありませんよ」
部屋に一人になると、ノラはたちまち暇になった。何時間もただ鏡台の前に座り続け、飽き飽きしていたところへ、ジャンが帰ってきた。
ジャンは扉の陰から部屋の中を覗いて、目を白黒させた。『知らない女の人がいる』
「いつもと格好が違うんで、驚いているのね」
ノラが苦笑すると、ジャンはやっと見知らぬ女性の正体に気が付いた。
「こちらへいらっしゃい。怒ってないから」
逃げるかと思われたジャンは、蝶々みたいにふらふら近寄ってきて、ノラの膝にぴたりととまった。彼は柔らかな布地に包まれたノラの膝を、はじめて動物に触れる時みたいに、おっかなびっくり撫でた。
こそばゆさに笑い出したくなるのを堪えながら、ジャンに興味を持ってもらえるなら、お化粧も少しは意味があったのかもしれない。などと考えていると、用事を済ませた母が部屋に戻ってきた。
「ジャン!何をしているの!?」
母はノラの傍にジャンが佇んでいるのを見て、血相を変えた。
「汚い手で触っては駄目!!」
母はジャンの手を払い退け、彼を部屋から叩き出した。
夕方、馬車で迎えにきたロイは、いつにも増して仏頂面だった。着飾ったノラが出て行くと、彼は口をへの字にひん曲げ、いっそうの不機嫌顔を作った。
「本当にごめんなさいロイ……母が無理を言って……」
ロイの顔を見るなり、ノラは彼の心の内を察して、しおしおと謝罪した。ロイはなにも言わなかったが、迷惑がっているに違いなかった。行きの馬車の中は言わずもがな、気詰まりな雰囲気だった。
お屋敷に到着した二人は、まず主催者であるデムターさんに挨拶に向かった。
「やあロイ。決まってるな、君のそういう格好ははじめて見るよ」
デムターさんの言葉通り、ロイはここ何年か祭には参加していなかった。不思議に思ったノラが何故かと尋ねると、ロイは……
「ばか騒ぎは苦手なんだ」
などと不機嫌そうに答え、ノラを恐縮させた。
やがてダンスパーティがはじまっても、ロイは終始つまらなそうだった。ノラとは最初のダンスを一度踊ったきり会話もなく、壁際に佇んでビールを飲んでいる。
ノラはそっぽを向いているロイの横顔を盗み見て、人知れずため息を吐いた。どうしてこんなことになったのか、考えてみたが、ノラにはさっぱりわからなかった。
「やあ、ノラ」
ノラが何をするでもなくぼんやりとホールを眺めていると、人ごみをかき分けて、ヒューゴが近寄ってきた。
「君が来るのを待ってたんだよ。昼間の俺の雄姿を見てくれた?」
綱引き相撲で五度目の防衛を果たしたヒューゴは、力こぶを自慢しながらたずねた。
「ええ。優勝おめでとうヒューゴ。格好良かったわよ」
ノラが見え見えのお愛想を言って、ヒューゴは鼻の穴を膨らませた。「格好良かった?そう?本当に?」
「あっちで俺と踊らないか?こんな壁際にいないでさ」
褒められたことで自信を付けたヒューゴは、勢い込んでノラをダンスに誘った。ちょうど新しい曲もはじまり、女の子を誘うには最高のタイミングだと言えた。
「今日は俺のパートナーなんだ。ダンスの相手なら他を探せ」
ノラがどうしようか迷っていると、隣で黙って様子を見ていたロイが、話に割り込んできた。ヒューゴはロイを鬱陶しそうに睨んだが、それだけだった。
「こんな型物と一緒にいてもつまらないだろ?ね、踊りに行こうよ」
「喧嘩を売ってるのか?あっちへ行けと言っているんだ」
無視されて腹を立てたロイが、ヒューゴの肩をぱん!と叩き、二人はノラを挟んで睨み合った。
「……おい、俺にそんな口を利いて良いのか?今ここで叩きのめしてやったって構わないんだぜ」
「やってみろ野蛮人。お前が毎年優勝できているのは、俺やギャビンが出場しないからだ」
「なんだと!?」
今にも『表へ出ろ!』などと言い出しそうな様子に、ノラは肝を冷やした。ヒューゴが大きな声を出したので、周りの人々も不穏な空気に気付きはじめた。『なに?喧嘩?』
「ね……ねぇ二人とも、もうそれくらいに……」
だんだん人が集まってきて、ノラが本格的に慌てはじめると、そこへ、クリフォードがやってきた。
「ヒューゴ。あっちでクラリッサとアナがお前のことを捜してたぞ」
クリフォードは険悪な様子に臆することなく、気さくに声をかけた。
「クラリッサが?」
「ああ。お前におめでとうを言いたいんだと。行って来いよ色男」
クリフォードは嫌味なく冷やかして、ヒューゴを気持ち良くさせた。ヒューゴはちらりと、ノラの方を窺い見た。
「私のことは気にせず、行ってらっしゃいよ」
「そ、そうかい?そんじゃ、ちょっとだけ……」
未来の妻の許しを得たヒューゴは、そそくさと庭の方へ去って行った。ノラはほっと胸を撫で下ろした。
「……余計なことをしたかな」
ヒューゴが完全にいなくなり、人々の興味がそげると、クリフォードが言った。答えたのは、不機嫌そうに黙り込んでいたロイだった。
「いいや。礼を言うよクリフォード。彼女も俺も困っていたんだ」
ロイは言いながら、ノラの腰に腕を回して、自分の方にぐいと引き寄せた。突然腰を抱き寄せられたノラは驚き、ロイの顔をまじまじと見上げた。ロイはノラの顔をじろりと見下ろして……
「君もお礼を言って」
と促した。
「ええ……どうもありがとう、クリフォード……」
ノラはロイの腕の中から戸惑いがちに謝辞を述べ、クリフォードは視線を床に伏せた。
「クリフォード、こんなところにいたのね」
三人が奇妙な空気をどうすることも出来ずにいると、ステージの方からジノがやってきた。ジノはノラへの挨拶もそこそこに、クリフォードの腕を引いた。
「デムターさんが捜していたわよ。飲み物が足りないって。行きましょう。二人の邪魔しちゃ悪いわ」
クリフォードはジノに連れられ、いるべき場所へと戻って行った。クリフォードが去って行くと、ロイは直ちにノラを解放した。
「君の交友関係に口を出す気はないが、今夜は俺のパートナーなんだ。あまり恥をかかせないでくれよ」
「ごめんなさい、ロイ……」
その後、ロイとノラは何曲かダンスをした。ロイは少しも楽しそうじゃなかったが、パートナーの座は、少なくともヒューゴに譲る気はないようだった。
それは、パーティも終わりに近づいた頃だった。
ロイの肩越しにふと入り口の方に視線をやると、クリフォードがゴブレットを片手にこちらを見ていた。その瞳は極々真剣で、ノラの一挙一動を、一秒たりとも見逃すまいという風だった。熱っぽい視線はノラの頬を熱くし、また戸惑わせた。
かちんこちんに緊張したノラは、ロイの足を三度も踏み付けた。彼の眉毛の角度を測りながら、ノラは泣きたいような気持だった。
曲が終わると、ノラはロイに『風に当たってくる』と断り、ホールを飛び出した。茂みの中に飛び込むと、漸く人心地が付いた。まったく、今日はなんて日だ。