ジャン・リッピー
著作権は放棄しておりません。
無断転載禁止・二次創作禁止
孤児院での仕事を終えたノラが家に帰り着いたのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。我が家ではちょうど夕食の時間で、玄関先までスープの良い香りが漂ってきた。
「ただいま」
食卓に着いていたのは、母ベスタと、弟ジャンの二人だけだった。父は最近帰りが遅く、そのせいで母が苛立っていることも多い。
今日はどうだろう?顔色をうかがうノラは、ふとあることに気付いて、首を傾げた。
「お母さん?ジャンのスープを忘れているわよ?」
母と父とノラの分は用意されているのに、ジャンの前には皿も置かれていない。黙々とスープを啜る母の前で、ジャンは身体を激しく前後に揺らしながら、テーブルクロスをじっと睨み付けている。
「……いいのよ。今日、ジャンは食事抜きよ」
「?どうして?悪戯でもしたの?」
ノラの質問に、母は答えなかった。ノラは人知れずため息を吐いた。
「……育ち盛りの子が食事を抜くなんて、良くないわ」
ノラはジャンの分の食事を用意しようと、キッチンに向かった。母はその後を追いかけてきて、ノラが手に取った皿を奪い、床に叩き付けて割ってしまった。
「だめよ!これ以上大きくなったらどうするの!?」
ぎょっとするノラに向かって、母はがヒステリックに喚いた。ノラは漸く訳を察した。
「……お母さん……ジャンは確かに、周りの子たちより少し大きいけど……」
同年代の子ども達より、体格に恵まれたジャン。この世に生を受けて、まだ五年と少しだと言うのに、彼の外見は既に子どもの域を超えていた。この調子で成長し続ければ、一年後にはノラの身長を追い越してしまうだろう。数年後には、天井に頭をぶつけているに違いない。
「少し……!?少しですって!?」
母が過剰に反応して、ノラは額を抑えた。
「アルバート医師が言うには、ジャンは成長が速いだけで、悪い病気じゃないって。健康ならそれで良いじゃない」
「なにが良いもんですか!あなたは知らないのよ!ジャンが町の人達に、陰でなんと言われているか!」
成長が速いという以外に、もう一つ、ジャンには人々に気味悪がられる理由があった。それは、彼の左手の小指にあった。
「……悪口なら私もいろいろ言われたわ。とにかく、食事を与えないなんて、やり過ぎよ」
ジャンの左手の小指だけが、なぜか、生まれた時から黒ずんでいたのだ。青でも、紫でもなく、真っ黒に。他と色が違うと言うだけで血は通っているし、ちゃんと動くのでなんの問題もないのだが、神経質な母を悩ませるには十分だった。
ノラの忠言に、母はすうっと目を細めた。
「あなたは私が、憎くてこんなことをしてると思っているのね……」
「そうじゃないけど……」
「かわいそうなジャン……お母さんがもう二度と、化け物なんて呼ばせないわ!」
「お母さん……」
「お願いだから!言うことを聞いて!」
ノラは言葉を失ってしまった。その後、母は小一時間も泣き続け、やがて帰ってきた父に連れられて二階へ引っ込んだ。
「……すっかり遅くなってしまったわね。食事にしましょう」
ジャンはノラが用意したスープを、皿を抱えるようにして、ぺろりと平らげてしまった。
「お姉ちゃんのをあげるわ」
物足りないという顔をするジャンに、ノラは自分の分のスープを差し出した。ジャンはそれもあっという間に腹に流し込み、それでもまだ足りないようだった。
「ごめんね。今日はもう終わりみたい」
鍋の中を覗いておかわりがないことを伝えると、ジャンは不満そうに眉を寄せた。
「お姉ちゃんがもっと働いて、お腹いっぱい食べさせてあげるわ」
ジャンはにこりともせずに席を立った。
食堂を出て行くジャンの後ろ姿を見ていると、ノラはふと、彼の歩き方がおかしいことに気が付いた。
「ジャン、靴を脱ぎなさい……!」
ノラは逃げようとするジャンを捕まえて、無理やりに靴を脱がせた。ジャンの足には接ぎ合せた布が何重にも巻かれており、膝から下が青くなっていた。ノラは慌てて布を解いた。
「これ、どうしたの?お母さんがやったの?」
そうに違いない。とノラは思った。
常識を重んじるタイプの母ベスタは、ジャンの過剰成長を悲観的、かつ一大事と捉えた。病に違いないと考えてアルバート医師の下へ通い、解決しないとわかると、今度は教会のロドルフォ神父に相談に行った。結果、ジャンの身体は首から上を除いて、刺青だらけだ。しかし、悪魔除けを施してなお、ジャンの成長は止まらない。
「答えなさい!ジャン!」
「っ……」
「きゃっ!」
ノラが詰め寄ると、ジャンはノラを突き飛ばして食堂を出た。二階の自室へ向かうのかと思いきや、ジャンは廊下を駆け抜け、そのまま外に飛び出してしまった。
「待ちなさい!ジャン!こんな時間にどこへ行くの!?」
ノラは慌てて後を追いかけた。外は既に暗く、灯りがないと右も左もわからない。森に迷い込んで、獣にでも襲われたら大変だ。
ノラは馬車を出してきて、思い付く限りの場所を捜し回った。二時間かけて町の方にも行ってみたが、無駄足に終わった。
「はあ……」
仕方なく、ノラは捜索を諦めて、リビングで彼の帰りを待つことにした。我知らず、口からため息が漏れた。
かわいい、かわいい、歳の離れた弟。いつまでもよちよち歩きの赤んぼでいてくれたら、どんなに良かったか。あっという間にすくすく育ってしまって、どこへ行くにも背中に負ぶっていたのが遠い昔のようだ。時の経つのはなんと早いことか!
ジャンの帰りを待ち続けて、更に小一時間が経った。時刻は夜中の十一時を過ぎていた。浅いまどろみから目を覚ましたノラは、ろうそくの明かりに浮かび上がったそいつの姿に、飛び上がって驚いた。
「また出たわね!」
頭から角を生やしたた不細工なねずみが、燭台の傍らに立ち、豚のように潰れた鼻をひくひくさせながら、じいっとノラを睨み見上げていた。
「私は今機嫌が悪いのよ。早くどっかへ行かないと、煙突に縛り付けて鷹の餌にするわよ」
神出鬼没のそいつはノラの家の屋根裏に住み着いていて、気まぐれに現れては家人の寿命を縮めている。
こいつが出ると、母の病が悪化するのだ。
何度も退治しようと試みたが、頭の良いねずみで、毒入りの餌にも、鍛冶屋のヨーハン・ギルデン開発のスペシャルねずみとりにも引っかからない。その上ねずみはこの家を甚く気に入っていて、追い出しても、追い出しても、戻ってきてしまう。
「そのまま、じっとしていなさい」
今日こそ長年の戦いに決着を付けてやる!ノラはそーっと椅子から立ち上がり、手近にあったボウルを手に取った。
「えい!!」
捕まえた!
「あ、あら?」
確かな手ごたえがあったのに、そっとボウルを持ち上げてみると、ねずみの姿は影も形もなかった。ノラは歯ぎしりして悔しがった。
ジャンが戻ってきたのは、深夜零時を過ぎた頃だった。
お屋敷の前を通ったジャンは、庭で松明片手にナメクジ取りをしていたデムターさんに補導されたのだった。
「デムターさん……どうもご面倒をおかけしました」
「なに、もののついでだ。構わんさ」
デムターさんは気さくに言って、ノラを安堵させた。
「君もすっかりお姉さんだな。ついこの間までマルク達といたずらばっかりしていたのに、やはり下ができると違うのかな」
デムターさんがからかい、ノラは恐縮した。
「マルクから手紙は届いてます?」
「いや……便りがないのは良い報せと言うが、なにをしているやら」
帝都の騎士学校に進学したマルキオーレは、出て行ったきり、一度も帰郷していない。約束の一年はとうに過ぎてしまった。手紙を出しても梨の礫で、デムターさんはすっかり諦めている様子だった。
「そうですか……」
「美しく成長した君を放っておくなんて、我が息子ながら、間抜けなやつだよ」
デムターさんは慰めを言った。
「これじゃあ君をアリンガムのとこの愚息にとられても、文句は言えないな」
「ロイ?……なぜロイが出てくるんです?」
「だって君、ロイと見合いするんだろう?お母さんから聞いたんだけど……」
「ええー!?」
翌日の朝一番、ノラは昨夜とは打って変わってしゃきっとしている母を問い詰めた。
「昨日の夜デムターさんから聞いたの。私とロイがお見合いって、どういうこと?」
「どうもこうも、言葉のままよ。ちょうど言おうと思っていたのよ」
母はノラのいら立った声色を無視して、平然と答えた。
「明日の十時。場所はパーラーよ。新しく仕立てたドレスを着て行きなさい」
「パーラーでお見合いなんかしたら、町中の噂になっちゃうじゃない!結婚なんてまだ早いわ。私まだ十五歳よ!」
「まだじゃなくて、もう十五歳よ。いつまでも子供のような気分でいて、この先どうするの?幼年学校もじき卒業でしょう?」
「何度も言っているじゃない。卒業したら孤児院の職員になるの。正式に雇ってくれるって、昨日返事が来たわ」
ノラの主張に、母は顔色を変えた。
「だめよ。だめ。就職なんて許しません」
母は断固として言った。
「お前にはまだ分からないかもしれないけれど、女が独りで生きて行くって、とても大変なことなのよ。ガブリエラ先生だって結婚したじゃないの」
母はノラの恩師を引き合いに出し、ノラは一昨年の夏を思い出した。
ガブリエラが結婚すると聞いた時は、みんな(特にクラスの女子達は)冗談かと思った。その相手が銀行支店長のイーノック・ゴドウィン氏だと聞いた時は、冗談に決まっていると思った。
「ガブリエラ先生は、生活のために結婚したわけじゃないわ。愛し合っていたからよ」
「まあ!なんて生意気を言うのかしら、この子は。外でそんな口を利いてはいけませんよ」
母はノラを、毛虫を見る様な目で見た。
「ねぇお母さん、考え直して。だいいち、どうしてロイなの?」
「それはロイが存外、頼りがいのある青年だからよ。それにブルースが、ぜひお前をロイの嫁にって」
「ブルースが?」
「そうよ。ブルースはお前の勝気や負けん気を買ってくれているの。ありがたいことよ」
上機嫌で言う母は、ノラの意見を聞き入れる気はさらさらないようだった。
彼女の頭は今、大きい娘の嫁ぎ先という悩みから解放される喜びでいっぱいなのだった。それに、ジャンのこともある。彼の評判が芳しくない分、ノラを誰よりも早く結婚させることが、母の面子を保つためにどうしても必要なことだった。
頭の痛い問題はひとまず置いておくことにして、ノラはサインツの家に向かった。
週末に彼の家を訪れるのは、ノラの大切な習慣だ。
おっかない鬼教師はノラが大人らしい分別を持つにつれ、気さくな老人へと姿を変えていった。彼の奇想天外な発想から生み出される風変わりなおもちゃを見るのも、ノラの楽しみの一つだった。(おもちゃと言うと、サインツは怒るのだが……)
ノラがゆっくり馬車を走らせていると、道の向こう側から、憲兵で巨漢のダミアン・マスグレイヴがやってきた。ダミアンはノラを見ると、わざとらしく険しい顔を作った。
「また先生のところへ行くのか?」
「そうよ。悪い?」
ノラはつんとして答えた。
「あそこへは行くなと言っただろう」
「そうもいかないわよ。先生は研究にのめり込むと、食事もろくにとらないんだもの」
サインツにとって、おもちゃ作りは研究で、おもちゃ壊しは勉強だ。ノラが口答えすると、ダミアンは「ちっ」と聞えよがしな舌打ちをした。「面倒なことになっても知らねぇぞ」
サインツの家に到着すると、ノラは開口一番、我が身に降りかかった重大な問題を相談した。
「結婚か……早いものだな。君ももうそんな年になったのか」
「先生、感心している場合じゃありません。このままだと私、ロイと結婚させられます」
「いやなのかい?」
「いやって言うか……私、孤児院の先生になりたいんです」
先生だって知ってるくせに。ノラは口を尖らせ、サインツは苦笑した。
「進学できる頭があるのに、もったいないな。……気持ちは変わらないか?」
「町を出るなんて、母が許しません。それに私、働かないと」
かわいい弟、ジャンのためにも!
「そうか。人には真似できない立派な仕事だし、君に向いているかもしれん。町一番の秀才に勉強を教わる子ども達は幸せだな」
サインツは大真面目に言って、ノラを良い気持ちにさせた。
「就職のためにも、ロイとの縁談を白紙に戻さなくちゃ。先生だって、私が来れなくなったら困るでしょ?」
なにしろ、この家の家事のほとんどは今や、ノラが引き受けているのだ。
「もちろんだ。私も一緒に考えよう」
妙案を思いつかないノラは、エステバン・サインツ教授の閃きに賭けて、家中から洗濯物をかき集めるのだった。