男爵夫人の帰還
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ノラがアデルの説得を終えて戻ってきたのは、夜更けのことだった。空には細い月が浮かび、庭のどこかでフクロウが鳴いていた。
ノラが扉の鍵を開けてそろそろと塔に進入すると、物音に気が付いたクラウスが、階段を駆け下りてきた。クラウスは闇の中にノラの姿を見付けて、息を呑んだ。
「ただいま戻りました、坊ちゃま」
ノラは、蝋燭の明かりに浮かび上がるクラウスの驚き顔に向かって、朗らかに挨拶した。
「アデルさんとお喋りしているうちに、馬車に乗り遅れちゃったんです。そそっかしいでしょう?」
「…………」
「こんなことなら、荷造りするんじゃなかったな。なんだか疲れちゃった」
見え見えの嘘を吐くノラを、クラウスは言葉もなく見詰めた。彼は大きなため息と共に、崩れ落ちるように階段に座り込んだ。
「坊ちゃま……!」
ノラは荷物を放り出し、慌ててクラウスに駆け寄った。
「苦しいんですか!?早くベッドに……!」
「違うんだ。大丈夫」
「でもっ……」
「本当に大丈夫だから……」
クラウスは慌てふためくノラを制し、彼女の手を握った。彼の枯れ木のような細腕は予想外に力強く、ノラは狼狽した。「あ、あの、坊ちゃま……?」
「……君は今すぐこの手を振り払って、逃げ出すべきだ」
「……私は、そうは思いません」
「近い将来、君はきっと後悔する。この選択を、私を、恨む日が来る。賭けても良い」
クラウスが断言して、ノラは反発した。「後悔なんてしません!私は……私は、自分の意思で坊ちゃまのお傍に……!」
「わからないのか!?私は嫌だと言っているんだ!」
クラウスは急に声を荒げた。こんな風に怒鳴られるのははじめてのことで、ノラは狼狽した。
(やっぱり……!)
恐れていたことがついに起こってしまった!ノラ唇をわなわなさせた。
「……ノラがお傍にいては、ご迷惑ですか……」
クラウスを強引に説き伏せて専属メイドになったが、思えば彼は最初から、ノラを追い出したがっていた。戻ってきてはいけなかったのだ。
ノラは項垂れた。この十日間、ノラは誠心誠意クラウスに仕えたつもりだ。彼も認めてくれていると思っていたのに……
(役立たずっ……)
男爵夫人の命令とは言え、本人が否と言えば、塔を出て行かざるを得ない。つまり、またお払い箱ってことだ。クラウスのメイドになって、少しずつ取り戻しかけていた自信や誇りが、手に手を取って逃げて行く。
「違う!そうじゃない!……君の重荷になりたくないんだ……!」
クラウスは力を込めて哀訴し、彼女を不思議がらせた。「?重荷……?」
「……この十日間は、本当に楽しかった。この病にかかってからは、外へ出かけることも、人が訪ねてくることもなかったから……こんな寂しい日々が生涯続くのだと、うんざりしていたところへ、君はやってきた。君は私の、はじめての友人だ」
「失望して、去って行く君を見たくない。夢から覚めるなら、早い方が良い。なにより、君を悲しませたくないんだ……なぜなら、私はいずれ……」
ノラはクラウスの言わんとしていることに気付き、顔色を変えた。「坊ちゃまっ……!」
「弱気はいけません!坊ちゃまはノラと一緒に、病を打ち倒すのです!世界征服して、私を宰相にしてくださる約束ではないですか!」
「そんなものっ……」
「病が良くなるまで、私はいつまでもお傍におります!決して坊ちゃまを一人には致しません!」
ノラは堂々と宣言して、クラウスの卑屈の虫を退治した。「戦ってくれるのかい……?一緒に……?」
「もちろんです。私はそのために戻ってきたのです」
こうなると、男爵家に奉公に来たのも、シルビアをかばって帰郷し損ねたのも、全ては神の思し召しという気がした。初日に寝坊したのも、ぼや騒ぎを起こしたのも、きっとそうだ。そうに違いない。
「ごめんっ……」
使命感に燃えるノラに、クラウスは繰り返し謝罪した。「頭では、君を帰すべきだとわかっているのに……」
「坊ちゃま……」
「君が残ることを、震えるほどに喜んでるっ……」
クラウスはと揺れる心中を吐露し、ノラをきゅんとさせた。彼の瞳からこぼれ落ちた涙がお仕着せのスカートを濡らすと、ノラの胸は矢を射られたようにずきりと痛んだ。
「傍にいてくれ……後少しだけで良いから……」
「はい、坊ちゃま」
ノラはクラウスの果てのない孤独を思い、同じく涙した。クラウスはノラの胸で少しだけ泣いて、生きる気力を取り戻した。
それからというもの、ノラとクラウスは限られた時間を大切に過ごした。相変わらずクラウスの体調は芳しくなかったが、大きな災難に見舞われることもなく、日々は平穏無事と言えた。ノラはこれまで以上に塔の営繕や清掃に励み、クラウスの気分の良い日は二人で狭い庭を散歩したり、お互いの似顔絵を描きっこしたり、指相撲をしたりした。
「やあ、オーベール」
「こんにちは、アレジさん」
ある晴れた日の午後のことだった。庭師のオーベール・アレジが、小さな包みを持って部屋を訪ねてきた。
「坊ちゃん、いつものお茶です」
「どうもありがとう。ちょうどそろそろ無くなりそうだったんだ」
クラウスはノラが見ている前で、アレジから小包みを受け取った。
「坊ちゃん。くれぐれも奥様やベケット医師には……」
「わかってる。内緒にするよ」
クラウスが保証するとアレジは深々と頭を下げて仕事に戻って行った。
「私が好きなお茶なんだ。毎月、母上に内緒で届けてもらっているんだよ」
ノラが興味津々という目で小包を観察していると、クラウスが説明した。ノラは得心した。クラウスの口に入る物は、彼の主治医であるエフィー・ベケット医師によって、材料や産地を厳選されているのだ。庭師が作ったお茶だと知れれば、取り上げられてしまうに違いない。
「ノラも、秘密にしてくれるかい?オーベールが母上に怒られてしまうから」
「坊ちゃまの御心のままに」
楽しい日々は瞬く間に過ぎ、ひと月後の月曜日。マントウィック男爵夫人は前触れなく、シルビアを伴って帰宅した。男爵夫人の突然の帰宅に、お屋敷は天地がひっくり返るような大混乱に陥ったが、そうと知らないノラは今日も今日とて、塔内の生活環境改善に努めていた。
「本当に大丈夫かい?やっぱり止めておかないか?落っこちて怪我でもしたら……」
クラウスは屈み込んで暖炉の中を覗きこみ、ブラシ片手に梯子の踏ざんに足をかけるノラを、不安そうに見つめた。
「大丈夫ですよ。実家の煙突は、いつも私が掃除していたんですから。それより、早くなんとかしないと」
朝も夜も凍えるほど寒いというのに、暖炉用の煙突が詰まってしまったのだった。しかも間の悪いことに、いつも使っている煙突掃除屋の小僧が、風邪を引いて寝込んでいると言う。仕方なく、ノラが自分でやることにした次第だ。
一段、また一段と慎重にはしごを上り、専用のブラシで煤を掻き出すこと二十分。頭のてっぺんからつま先まで真っ黒になったノラを見て、クラウスは腹を抱えて笑った。
「坊ちゃま!女性の顔を指差して笑うなんて、失礼ですよ!」
「だって君、ねえ?あははははっ!」
「んもう!そんなに気に入ったなら、坊ちゃまの顔にも付けて差し上げます!」
「え!?や、止めて!」
狭い部屋の中を追いかけっこして、クラウスの顔面が真っ黒になったところへ、男爵夫人はやってきたのだった。
「まあ!なんです!?この有り様は!」
ずかずかと部屋に入ってきた男爵夫人は、煤だらけになった絨毯やキルトを見て眦を決した。床を転げまわってお互いの顔に煤を擦り付け合っていたノラとクラウスは、慌てて起き上がり、居住まいを正した。
「けほっ……煙突掃除をしてたんです……」
ちょちょこなって言い分けするノラを、男爵夫人はぎろりと睨んだ。
「煙突掃除で、なぜ部屋がこんなになるんです!?いつもの煙突掃除夫はどうしたの!?」
「はあ……それが、風邪で来られないそうで、仕方なく私が……」
「……やっぱり、あなたに任せたのは間違いだったようね!二人とも、早くそのゴリラみたいな顔を洗っていらっしゃい!」
男爵夫人は甲走った声で、居丈高に命じた。ノラは隙を見てクラウスに尋ねた。「ねぇ坊ちゃま、ミスター・ゴリラって誰です?」
その途端、真面目くさった顔で男爵夫人の説教を聞いていたクラウスが、爆ぜるように笑い出した。ノラは慌ててクラウスの口を塞ごうとしたが、笑いの発作は治まらなかった。けらけら、けたけた、クラウスは五分も笑い続け、男爵夫人の度肝を抜いた。
「あなたに話があります。付いていらっしゃい」
男爵夫人はノラ一人を部屋から連れ出した。その際ノラは恨みがましい眼で、笑い続けるクラウスをじろりとやった。「もう!坊ちゃまのせいですよ!」
「……ところであなた、身体は平気なの?」
階段を下りながら男爵夫人がノラに尋ね、ノラは恐縮して答えた。「はい。全然、なんともありません」
「そう……さっきはああ言ったけど、あなたには今後も、クラウスの面倒を看てもらいたいわ」
男爵夫人が希望して、ノラは目を瞬いた。
「あの子の母親になって随分経つけれど、あんな顔は、はじめてみたわ。あの子にはあなたが必要なのかもしれないわ。……お願いできるわね?」
「は、はい。喜んでお世話させていただきます」
ノラは一も二もなく引き受けた。
男爵夫人はノラを連れて庭に出ると、この庭の管理責任者である、オーベール・アレジの元へ向かった。
アレジは庭の奥の、水車の傍に立っていた。もう一人、その隣に佇む人物を見て、ノラは息を呑んだ。
「クリフォード……」




