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新しい生活と嫌がらせの犯人

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

 男爵夫人が旅から帰ってくるまでの間、ノラは口約通り、良く働いた。

 朝は早くから起き出して床下から天井裏に至るまで徹底的に拭き清め、晴れた日には布という布をかき集めてきて洗濯し、涼しくなると薪を割って風呂を焚いた。

「床が風邪をひいてしまうよ。そのくらいで勘弁してあげたら?」

 親の仇かなにかのように部屋中を擦りまくるノラを、クラウスはしばしばそう言って揶揄した。

「ここが終わったら、どぶ浚いに行ってきます」

「え?まだやるのかい?」

「もちろんです。病の神様を完全に追っ払うんです」

「そう言えば、前にも言っていたね。病の神様って?」

「ばいきんと言うんです。リネンを鍋で煮たり、食器を強いお酒に漬けたり、部屋を湯気で満たしたりすると、ばいきんは逃げていくんですって」

 偉大なるエステバン・サインツ教授の受け売りだ。ノラは胸を張って答え、クラウスを感心させた。

 このように、ノラは身辺を清潔を保つことで病が快癒すると確信していたが、事はそう簡単には運ばなかった。

「うっ!……ううっ……!」

「坊ちゃま……!」

 クラウスの身体を長らく蝕んできた病は、ノラの想像以上に手強く、残酷だった。

 体調が悪い日は激しい腹痛と吐き気に襲われ、ベッドを起きられない。ジョージが日に二度持ってくる食事はほとんど手を付けられず、しかし家畜にやるわけにも行かず、残飯として処理された。クラウスの薄い背中を擦る度、ノラは世の中の不条理を思わずにはいられないのだった。

 クラウスの病状が芳しくないことと、庭園の敷地から出られないこと以外は、穏やかで満ち足りた日々だった。食事や生活に必要な物は全てジョージが届けてくれるし、献身的に尽くすノラに、クラウスはこの上なく優しかった。二人は仕事の合間に、天気や、昨夜見た夢や、家族の話をした。

「坊ちゃまは、本がお好きなんですか?」

 ある時、ノラは天井まである、据え付けの棚を見上げてたずねた。棚には分厚い書物が隙間なく、整然と並べられており、オシュレントン邸の図書室を思い出させた。

「まあね。なにしろ、他にやることもないしね」

 ノラはクラウスに断って、棚の本を一冊抜き取った。

「その棚にあるのは全て、グリモワイユだよ」

「グリモワイユ?これ全部ですか?」

「そうさ。地方や出版社によって微妙に解釈や表現が違うんだよ。ノラが手に持っているのは、バルドゥインという人が書いた、ワリンベルク地方のグリモワイユだ」

 ノラはしげしげと、青い布張りの表紙を観察した。表紙の隅には確かに、バルドゥイン・アジッチの名が刺繍されていた。

「知っているかい?世界には本物の魔法がかけられた、特別なグリモワイユが存在するんだ。中でも魔王の手記と呼ばれるグリモワイユには悪魔の王が封じ込められていて、七冊全て手に入れた者は、世界を支配できると言われているんだよ。一冊は帝都の国立博物館に所蔵されていて、年に一度、ヘルベヘヌ祭の時にだけ、一般公開されるんだ」

 クラウスは弾んだ声でうんちくを披露し、ノラを驚かせた。

「私の夢はね、この世のどこかにあると言われる魔王の手記を手に入れて、その謎を解き明かすことなんだ」

「まあ!世界征服をなさるんですか?では、坊ちゃまが魔王様となられた暁には、ノラを宰相にして下さいませ」

「宰相になって、どうするんだい?」

「出勤時間を朝十時にするんです。それから、昼寝の時間とおやつの時間を作るんです」

 ノラがクラウスの専属メイドになって、十日ほど経ったある日のこと。

『ノラ?ノラ、そこにいるの……?』

 ノラが川の辺で汚れ物を洗っていると、石塀の向こう側から声が聞こえてきた。それが知っている人物に良く似た声だったので、ノラは洗濯を中断して、石塀に寄って行った。「アデルさん……?」

『ノラ!ああ、良かった……!そうよ!私よ、アデライードよ!』

 そこにいたのは、ノラの予想通り、教育係のアデルだった。

『ベルモンドさんから、あなたがクラウス様付きのメイドになったと聞いて、ずっと心配していたの。身体は大丈夫なの?』

 アデルはノラに口を開く隙を与えず、矢継ぎ早に尋ねた。ノラははきはきと答えた。「はい。今のところ平気です」

『本当にごめんなさい……まさかこんなことになるなんて、思わなかったのよ……』

 来訪を喜ぶノラに、アデルは唐突に謝罪した。

「?アデルさん?泣いているんですか?」

『こうなったのは全て、私の責任よ……恨まれても仕方ないわ……』

「なにか、あったんですか……?」

 ただ事ではない様子を察して、ノラは恐る恐る尋ねた。

 アデルは長い間を空けて、葛藤の滲む声で告白した。『私なの……ずっとあなたに嫌がらせをしていたのは……』

 ノラは激しい衝撃を受けた。靴の裏に靴墨を塗ったり、家畜小屋の鍵を開けて鶏を逃がしたり……陰湿な嫌がらせは、全て彼女の仕業だったのだ。

「ア、アデルさんが?……どうしてそんな……」

『あなたが昇進するんじゃないかと思ったのよ……』

 ノラは首を捻った。?……昇進?

『私はここへきて、もう八年になるの。順番から言えば、私がレディーズ・メイドに昇格するはずだったのよ』

 アデルは複雑な心中を吐露して、ノラをはっとさせた。

 朗らかで面倒見の良いアデル。彼女の働きは誰もが認めているし、あの厳しいジョージでさえも彼女には一目置いている。

『あなたが男爵夫人に呼ばれたと聞いて、勘違いしたの……『シルビアに続いて、あなたまで!』って……』

 仲間たちは、次の昇進は彼女に間違いないと噂していた。シルビアの人事は正に、晴天の霹靂だったのだ。

『書斎から戻ってきたあなたは浮かれているし、私すっかり思い込んでしまって……まさか帰省の話だなんて、思いもしなかったの……本当にごめんなさい……』

「そうだったんですか……」

 ノラは得心した。事情を知っても、不思議と怒りは湧いてこなかった。それは、今が満たされているからかもしれない。

『ノラ、今すぐそこを出て。逃げてちょうだい』

 アデルは塀越しから、涙ながらに懇願した。ノラは首を横に振った。「それは出来ません」

『どうして!?お金のことなら心配いらないわ。必要な物は、全て私が用意するわ。故郷に帰るのよ!』

『そのままそこにいたら、いずれは病気がうつって、死んでしまうわ!』

 アデルはヒステリックに泣き叫んで、ノラをぎょっとさせた。

 責任感の強いアデルは、ノラが考えている以上に、事態を深刻にとらえているようだった。興奮する彼女をどうやって宥めようかと、考えあぐねていた時だ。ノラはふと気配を感じて背後を振り返った。

「坊ちゃまっ……」

 そこには、いつの間にかベッドを抜け出したクラウスが立っていた。ノラはどきりとした。

『エリザベータ様は冷酷な方よ!あなたは見放されたのよ!今までにも、ミスをしたメイドが何人かそこへ送り込まれたわ。誰一人戻って来なかった!』

 クラウス本人が聞いているなんて知りもしないアデルは、無遠慮に続けて、ノラを狼狽させた。

『みんな言ってる!ノラは死を宣告されたも同然だって!もう、おしまいだって!』

「止めて!アデルさん!」

『迷っている時間はないわ!今夜、知り合いの行商人が、ムタガンダへ向けて出発するの。近くまで乗せてもらえるように頼んであるから、夕方、東の庭の納屋のところまで来て!』

「っ……」

『聞いているの!?ノラ!』

 動揺するノラの代わりに口を開いたのは、クラウスだった。

「ちゃんと聞いているよ」

 クラウスが答えると、アデルが息を呑むのがわかった。

「東の庭の納屋だね。彼女は今晩、私が責任を持って送り出す。……これで良いか?」

 少しして、アデルが走り去る音が聞こえてきた。ノラは堪えきれずに泣き出して、クラウスを不思議がらせた。「なにを泣くことがあるんだい?」

「だって……!病気はなにも、坊ちゃまのせいではないのに……!」

 アデルにも、他の使用人達にも、悪気はないんだろう。わかっているのに、口さがない彼等のことが、憎らしく思えてならない。

 ノラの言い分に、クラウスは苦笑した。なんだ、そんなことか。

「気にしないで。こんなことは、もう慣れっこなんだから」

「坊ちゃま……」

「良い仲間じゃないか。あんなに取り乱して……君を心から心配してくれている証拠だ。大事にしなければいけないね」

 クラウスは大人びた微笑みを浮かべてノラを諭した。

 ノラとクラウスは夕方までの時間を、いつも通りに過ごした。ノラは前々からやろうと決めていたシャンデリアの掃除をし、クラウスはベッドで読みかけの本を読んだ。お互い特に会話はなく、それは静かな午後だった。

 時間は瞬く間に過ぎ、太陽が地平線に沈む頃。

「荷物はそれで全部かい?」

 旅行鞄を一つ抱え、戸口に立ったノラは、クラウスの問いかけにこくりと頷いた。

「気を付けて行くんだよ。夜は寒いから、これを着て」

 クラウスはノラに、外出用のマントを着せた。全身が彼の香りに包まれると、ノラの決心は揺らいだ。「坊ちゃま、やっぱり私……」

 クラウスはノラの言いたいことを察して、首を左右に振った。

「家族が帰りを待っているんだろう?どうしても、君は帰らなくちゃならない」

「…………」

「さようなら、ノラ。どこにいても、私は君の幸せを願っているよ」

 クラウスは女神も嫉妬するような、綺麗な笑顔でノラを送り出した。

 塔を出た直後のことだ。ノラはマントのポケットに、金貨が二枚入っていることに気が付いた。

「っ……」

 ノラは塔の窓に向かって深々とお辞儀をして、庭園を後にした。



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