塔の主
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翌日の早朝。男爵夫人は持ち場へ向かおうとするノラを捕まえて、庭へと連れ出した。
人目を忍ぶようにして向かった先は、南の庭園だ。何かの間違いかと思ったノラだったが、男爵夫人は迷いなく扉の鍵を開けて、ノラを塔の中に引き入れた。
「ここは……」
「黙って付いてきなさい」
暗い石の階段を上りきった先。そこには、以前ノラがたどり着けなかった、塔の主の部屋があった。男爵夫人は扉を二回ノックし、入室の許可が下りるのを待った。『どうぞ』しばらくして聞こえてきた青年の声に、ノラはどきりとした。
「朝早くにごめんなさいね。出発前に、どうしてもあなたの顔が見たくて」
扉の先にいたのは、眩いばかりに美しく、細らかな青年だった。
「本当は、あなたを残して行きたくはないのだけれど……」
「私のことは気にせず、行っていらして下さい」
「ありがとう、クラウス。体を大事にね」
「母上も、道中お気を付けて……」
皓白の肌に、華奢な肉体。雪の精もかくやと思われるほど儚げで、朝日が昇れば光に溶けて消えてしまいそうな風情だ。女性と見紛うような丈姿に、ノラは目を瞠った。
一方のクラウスも、男爵夫人の背後にノラの姿を見付けて、瞠目した。「母上……そちらの方は……」
「彼女には今日から私が戻ってくるまでの間、あなたの身の回りの世話をしてもらいます」
寝耳に水の差配は、二人ともを驚かせた。男爵夫人は肘でノラを小突き、ノラは慌てて膝を折った。「ノラ・リッピーです。坊ちゃま」
自己紹介が済むと、男爵夫人は困惑を露わにするクラウスを残し、ノラを連れて部屋を出た。
二人きりになると、男爵夫人は即座に不機嫌顔を作った。
「ジョージから聞いたわ。あなた、私に隠れて何度もこの庭に足を運んでいるそうね」
「申し訳ありません……」
「……本当は、あなたのようなそそかし屋に私の大事な宝を任せたくはないのだけれど、他になり手がいないの」
男爵夫人の遠慮ない物言いはノラを傷付けたが、ノラは唇を噛んで堪えた。男爵夫人は知らないのだ。オルゴール事件の真相も、ノラの数々の失敗の理由も、シルビアが夜な夜な盗み食いを働いていることも。それは、彼女のせいじゃない。
「詳しい仕事内容は、後でジョージに聞きなさい。これ以上私を失望させないで頂戴ね」
男爵夫人は冷たく言い捨てて、塔を出て行った。
「悲しそうな顔だね」
肩を落として戻ってきたノラの顔を見て、クラウスが指摘した。
「母上には私が上手く言っておくから、君は早くお逃げ」
ノラは首を捻った。「?逃げるって、どこへです?なんのために?」
「ここに長くいれば、病気がうつってしまうかもしれない。……その様子では、好きでここに来たわけじゃないんだろう?」
クラウスの、薄い色の眉が寂しそうな曲線を描いているのに気付き、ノラは慌てて首を横に振った。
「違うんです、坊ちゃま。そうじゃないんです。私が悲しんでいるのは、もっと別の理由です」
「別の理由?」
「……馬鹿馬鹿しい話なんです」
あの時、つまらない情け心なんか出さなければ。男爵夫人のお供に選ばれていたのは、ノラのはずだった。恋しい家族のことを思うと、なんて愚かな真似をしたんだろうと、自分で自分の首を絞めてやりたい気持ちになる。頼まれてもいないのに、被る必要のない罪を被り、着る必要のない汚名を着て、助けたつもりがまんまと利用され、挙句に感謝されなかったからって、それを後悔しているなんて……!
「……今回のことで、私は自分ってものに、ほとほと愛想が尽きたんです……」
話している内にどんどん情けなくなって、ノラはしおしおと背中を丸めた。
クラウスは慰めを言う代わりに、枕元に飾られた小箱の蓋を開けた。室内が美しい旋律で満たされ、ノラは少しの間、憂鬱を忘れることが出来た。
「……綺麗な音色ですね。なんという楽器なんですか?」
一曲終わるのを待ってノラが尋ねると、クラウスはくすくすと笑った。
「オルゴールだよ」
「え!これが!?」
ノラは小箱中を覗きこんだ。触れてもいないのに、中の仕掛けが動いている。サインツの研究室に並べてあったおもちゃみたいだ。尤も、彼のコレクションの中にこんな洒落た物はなかったが……
「これを持って行って、壊れた物と取り換えておいで」
クラウスの思いがけない提案に、ノラははっとした。見れば、クラウスは春の日のような、温かな微笑みを湛えていた。
「修理したことにすれば良い。母上はきっと君を許して、一緒に連れて行ってくれるはずだ。……故郷へ帰りたいんだろう?」
「坊ちゃま……」
「さあ、早く行って。急いで追いかければ、まだ間に合う」
クラウスの心遣いは、諦めきれずにぐずぐずと暴れていた気持ちを、瞬く間に大人しくさせた。ノラは滲み出した涙を拭って顔を上げた。
「ありがとうございます、坊ちゃま。でも、もう良いんです。おかげで、こうして坊ちゃまにお会いすることが出来たんですから」
ノラは心からの笑顔を浮かべて言った。
「それに、良く考えれば私、見合い話を蹴って町を出てきたんです。帰ったら、今度こそ結婚させられます」
「しかし、ここにいては……」
「病気のことなら、ご心配には及びません。我が家は丈夫な家系なんです。男爵夫人も、きっと私のそこを見込んで下さったんです」
ノラは胸を叩いて保証したが、クラウスは納得せず、険しい顔をした。
「ノラと言ったね……良く聞いて。私の病気は、君が思っているより、ずっと恐ろしいものなんだ。私に関わったメイドや庭師が、もう三人も命を落としているんだよ」
「知ってます。逃げ出した人も少なくないって」
「だったら!……わかるだろう?私のせいで誰かが悲しむのを見たくないんだ。……お金をあげるから、これで故郷へ帰りなさい」
クラウスは、ノラにアウィス金貨を一枚握らせた。ノラはまなじりを裂いた。「受け取れません!こんなもの!」
「まさか、新しい世話係が来るたびに、お金を渡して逃がしていたんですか?」
「……全員ではないよ」
つまり、自ら逃げ出した人もいるということだ。事情を知ったノラは、ますます鼻息を荒くした。
「私を追い出しても、また別の者が来るだけですよ。それに、もう手遅れです」
ノラはクラウスの骨の浮いた手を、両手でそっと包み込んだ。クラウスは狼狽し、頬を赤らめた。「なにをっ……」
「病の神様はたった今、坊ちゃまの肌を通じて、私の身体の中に入ってしまいました。この上は一日も早く、打ち倒して頂くより他ありません」
クラウスは素早く手を引っ込め、暗い瞳でノラを睨んだ。「……同情かい?私はそんなに可哀そうに見えるか?」
「いいえ、坊ちゃま。坊ちゃまはお美しくて、私には救いの天使に見えます」
ノラは首を左右に振って、大真面目に答えた。
それが思いもよらない答えだったので、クラウスはきょとんとした。「?……なんだって?天使?」
「クラウス坊ちゃま、後生ですから、私をお傍に置いて下さい」
ノラは切々と訴えた。雇用主には軽蔑され、上司には恥ずかしい異名を付けられ、ライバルには見下され……この上、同僚たちの白い眼に晒されながら働き続けるくらいなら、例え病気になったって、優しいクラウスの傍の方がずっと良い。
「なにがあったか知らないが、自棄になっちゃいけないよ」
「でも、私はお屋敷の仕事をクビになったから、ここにいるんです。追い出されたら、他に行き場がありません」
追い縋られたクラウスは困り果てた。もう一息!と、ノラはわざとらしく悲しい顔を作って見せた。
「ねぇ坊ちゃま。坊ちゃまは、まさか私を追い出したりなさらないでしょう?」
「しかし……」
「きっとお役に立ってみせますから」
ノラの泣き落としは、てき面に効いた。クラウスは渋々了承した。「困った子だなあ。後悔しても知らないよ」




