ノラの錯乱
著作権は放棄しておりません。
無断転載禁止・二次創作禁止
そうして、ノラがすっかりオシュレントン行きを諦めた頃。
「犯人を捜して、今すぐ書斎に連れてきなさい!!」
出発まで残り二日と迫っていた。厄介なドレスのアイロン掛けを終えてノラが洗濯室から戻ってみると、男爵夫人がジョージに向かって、大声で怒鳴り散らしていた。
「なにかあったんですか?」
ノラは扉の陰から様子をうかがっていたアデルに近付いて、小声で尋ねた。
「誰かが、奥様のオルゴールを壊したらしいの」
「?……オルゴール?」
「そうよ。クラウス様の物と対になっていて、奥様はそりゃあ大事にされていたのよ。寝室の棚の中にしまってあったのに、外出から戻ってみたら床に転がっていたんですって」
ノラにはオルゴールが何だかわからなかったが、一大事だということは、男爵夫人の激昂ぶりから理解した。
「犯人が名乗り出なければ、全員減俸よ!」
言い捨てて男爵夫人が去って行くと、直ぐに聴取が行われた。
ジョージは使用人全員を食堂に集め、今日の午前中、どこで何をしていたかを訊ねた。
「その時間、私は洗濯室にいました。ノラも一緒です」
幸い、ノラのアリバイはアデルが証明してくれた。ノラは心底ほっとした。このところトラブル続きなので、真っ先に疑われるのは目に見えていた。
食堂の壁を背にして並ぶ使用人達が順番に答えていき、怪しい人物を見出すことができずに、とうとう最後の一人になった。
最後の一人は、遅れて食堂に入ってきた、シルビアだった。
「シルビア、君は午前中、どこで何をしていた?」
「わ、私は……」
シルビアはジョージの質問に即座に答えられず、口ごもった。ジョージは視線を険しくした。
「答えられないのか?」
「……部屋で臥せっていました。体調が悪くて……」
シルビアが弱弱しい声で答えて、皆は隣り合った者と顔を見合わせた。ざわめきを遮るように、ジョージは続けた。「それを証明できる者はいるか?」
「いません……」
「……すると君は、具合が悪いことを誰にも告げず、誰の許しもなく、勝手に部屋に引き上げ仕事を怠けていたわけだな?」
改めて確認されると、シルビアは真っ青になって俯いた。唇を噛み締め、今にも泣きだしそうな彼女を、ノラは向かい側の壁際から、ハラハラしながら見守った。
「……まあ、いい。そうなると、アリバイがないのは君だけだ。他の者は皆、それぞれの持ち場にいて、身の証を立てることが出来る」
「…………」
「正直に言いたまえ。恥知らずにも主人の寝室に無断で入り込み、オルゴールを弄ったのは君だな?」
皆の視線がいっせいに注がれ、シルビアは恐怖した。誰もが彼女の返答を聞き漏らすまいと息を詰めたので、室内はしんと静まり返った。
「私じゃありません……私じゃ……」
シルビアは囁くような声で否定した。行状の悪い彼女の言葉を信じる者は、誰一人いなかった。
「申し開きは奥様にするんだな。今時珍しい、礼儀正しい娘だと思っていたのに……君にはがっかりだ」
ジョージは冷たく言い放った。シルビアの目からついに涙がこぼれ落ち、ノラは激しく動揺した。あの意地っ張りのシルビアが、人前で泣くなんて……!
「お呼びがかかるまで、部屋に戻っていろ」
堪らず食堂を飛び出すシルビアを、彼女の元教育係のアデルは侮蔑の目で見送った。「ついに化けの皮がはがれたわね。ざまみろ!」
「……私、ちょっと様子を見てきます!」
ノラは居ても立ってもいられず、シルビアの後を追いかけた。どうしても、彼女の口から真相を聞き出さなければ気が済まない。
『ママ……!』
問い詰めるつもりで、鼻息も荒く彼女の部屋の前に立ったノラだったが、ふと耳に飛び込んできた言葉に固まった。
「…………」
扉の隙間から絶え間なく響いてくる嗚咽。彼女の態度は、どんな証拠よりも真実を物語っていた。
(……自業自得よ……)
ノラはノックをしようと握り込んだ拳を下ろし、足音を殺して、持ち場へ引き返した。
出発の前日、男爵夫人はノラとシルビアを書斎に呼んだ。
「さて……二人とも、なにか私に言うことはあるかしら?」
ノラは横目でちらりとシルビアを見た。男爵夫人の鋭い視線に射竦められ、彼女は可哀そうなくらい怯えていた。
「特に、シルビア。悪いと思う気持ちがあるのなら、正直に告白なさい」
シルビアとは長いことライバルをやっているが、彼女のこんな様子ははじめてだった。
思えば、彼女は昔から大人に媚びるのが上手く、先生に怒られたことなど数える程しかない。それに、シルビアは美しく上品な男爵夫人に憧れていた。尊敬する人の信頼を失う恐怖というのは、口では言えないものがある。
もしこれがノラだったら、叱られるのも謝るのも慣れっ子だし、男爵夫人に嫌われようが、ジョージに嫌味を言われようが、屁の河童だ。そう、もしノラだったら……
「あのぉ……」
「?……なんです?ノラ」
「オ、オルゴールのことで……」
その時のことは、後になって思い出してみても、おかしな魔法に掛けられていたとしか思えない。それか、頭がおかしくなったか……とにかく、どうかしていた。
「私なんです……壊したの……」
得体の知れない力に突き動かされたノラがおずおずと告白すると、シルビアはぎょっとして、男爵夫人は顔色を変えた。「なんですって!?あなたが……!?」
「本当なの!?ノラ!」
「はい……掃除をしようと思って取り出したら、うっかり落としてしまったんです……申し訳ありませんでした……」
男爵夫人の顔がみるみる赤くなり、ノラは怒鳴られることを予想して身構えた。しかし、鼓膜に届いたのは彼女の声ではなかった。
「そ、そうなんです!エリザベータ様!」
発言したのはシルビアだった。先ほどとは打って変わって、彼女のバラ色に紅潮した頬を見て、ノラはぎくりとした。
「私、確かに見ました!ノラが男爵夫人のお部屋から出てくるところ!でもお話するべきかどうか迷って……」
シルビアが嘘っぱちを言い出して、ノラは信じられない気持ちで彼女の顔を見た。シルビアはノラに恩を感じるどころか、これ幸いと全ての罪をなすり付けるつもりなのだ!
「それで具合を悪くして、部屋で臥せっていたというわけね。おお、可哀そうに……!」
シルビアはその後も、男爵夫人に、ノラがいかにがさつで粗忽者かを説いて聞かせた。
(なんてやつ……っ!)
ノラは憤慨し、シルビアなんかを庇ったことを激しく後悔したが、一度口に出したことを引っ込めることは、二度とできなかった。
「今回の出張には、シルビアを連れて行くことにします。これに懲りたら彼女を見習って、今後は淑女らしくふるまうことね!」
男爵夫人は、ノラを冷たい目で見て忠告した。こうして、ノラはオルゴール事件の犯人となり、居残りが決定した。
「あなたには屋敷の仕事は任せられません。別の仕事を与えるので、付いていらっしゃい」




