ノラのやけくそ
著作権は放棄しておりません。
無断転載禁止・二次創作禁止
翌日は散々だった。ノラがキッチンで一人、ジャムの見張りをしていた時のことだ。
「リッピー!何をやっている!」
「え?……きゃあっ!」
いつの間にか鍋をかき混ぜる手を止めてぼーっとしていたノラは、ジョージの鋭い声で中身のジャムに火が付いていることに気付き、悲鳴を上げた。
「鍋を上げろ!早く!」
「は、はいっ……熱っ……!」
ノラは真っ赤になった柄を直に触って手のひらを火傷し、火が付いたままの鍋を床に取り落した。幸い、ジョージが咄嗟の機転で小麦粉をぶちまけたので大事には至らなかったが、キッチンの床は隅々まで真っ白になった。
「何を考えているんだ!お前は!火を使っている最中に呆けるなんて、居眠りでもしていたのか!?」
その後、ノラはジョージに死にたくなるほど怒られた。騒ぎを聞き付けた同僚たちが集まってきて、ノラは泡になって消えてしまいたくなった。「なんだ?なにがあったんだ?」
「やる気のない者に仕事は任せられん!お前はもう来なくて良い!出て行け!」
平謝りも効き目はなく、ジョージに滅茶苦茶に叱罵された末、ノラは半泣きでキッチンを飛び出した。
部屋には戻らず、直ぐそこの裏口から屋敷の外へ出た。誰もかれもが、軽蔑の眼差しで睨んでいる気がして、顔が上げられなかった。(なにしろ、一歩間違えれば大火事になるところだったのだ。同情の余地はない)
ノラは花びらで埋め尽くされたレンガ道を、景色には目もくれず、夢中で歩いた。『このまま故郷に逃げ帰れたらどんなに良いだろう』などと考えながら。青空も、世界中の色を泥棒してきたような花園も、ノラの心を癒してはくれなかった。
てくてく、てくてく、歩き続けて、十五分も経った頃。
少しだけ平常心を取り戻したノラは、立ち止まって辺りを見回した。いつの間にか、先日レーチェとアメデに見咎められた場所を通り過ぎていた。更にもう一〇〇mほど歩くと、行き止まりにぶち当たった。
ノラの行く手を阻んだのは、石塀だった。高さはノラの身長ほどしかなく、長く垂れた蔦が表面を覆っていて、緑の滝のように見える。
そして、石塀の直ぐ向こう側には、南の塔があった。石塀は塔と屋敷の間を行き来できないようにするための囲いだった。
『あの塔には、クラウス様がいらっしゃるのよ』
ノラはふと、アデルの言葉を思い出した。
「…………」
今回の事件で(もっと前から)ノラの評価は地に落ちているし、このままここにいたらまた誰かに見咎められて、ジョージのもとへ逆戻りだ。
(どうせ怒られるなら、一緒よ!)
やけくそになっていたノラは、入り口を探すことに決めた。
塔へ続く入り口は、あっという間に見つかった。地面に向かって真っすぐに流れ落ちる蔦のカーテンを捲ると、背の低い、黒塗りの門が現れたのだ。格子の隙間から覗き込めば、向こう側の庭の一部を垣間見ることができた。
「…………」
こじんまりとした、かわいらしい庭だった。薔薇の傘をかぶった東屋や、がこん、がこんと音を立てながら回る水車。古めかしい、偉人を模した鋳像の数々。敷地の中心には人工的に作られた四角い池があり、鴨の親子が水浴びを楽しんでいる。それ等は全て、塔の窓から眺められるように設計されていた。
どこも人手不足なのに、庭師の数だけ多い理由を理解した。彼等は病床のクラウス様を慰めるために、破格の待遇で雇われているのだ。
ノラは身を低くして素早く中に入り込み、もと通り扉を閉めた。ガシャン!と大きな音がして肝を潰したが、誰かが駆け付けてくる気配はなかった。
はじめ、ノラは尾行中の探偵みたいに物陰から物陰へと移動していた。そして外敵がいないことがわかると、塔の壁を背にして、堂々と腰を落ち着けた。
その様子を、塔の主が頭の上から見ていようとは、夢にも思わずに。
「きゃあっ!」
ぼんやりと景色を眺めていたノラは、突然目の前に降ってきた蛇に驚き、飛び上がった。
「……?」
良く見ればそれはロープで、先には画用紙と筆記用の木炭が括り付けられていた。ロープは、塔の窓辺からやってきているようだった。ノラはどきりとした。
(クラウス様だわ!)
ノラはいそいそと画用紙を広げ、中の文面を確認した。
『君は誰?ここへきてはいけないよ』
ノラは少し迷って画用紙に、しばらくここに居させて欲しい旨や、仕事でミスして他に居場所がないことなどを書いて、ロープの先に括り直した。
しばらくしてロープが引き上げられると、返事の代わりに、か細い、グラスを弾くような音色が聞こえてきた。田舎者のノラには、それが何の楽器か分からなかったが、美しいメロディーは落ち込んでいる彼女のために、クラウス様が奏でてくれているに違いなかった。
庭全体が赤い光に包まれた頃、ノラは涙を拭いて重い腰を持ち上げた。
「また来ます」
帰り際、塔の窓辺に向かって声をかけると、絶え間なく流れていた音楽がぴたりと止んだ。
「今度は降りてきて、お喋りしましょう」
翌日から仕事に復帰することを許されたノラだったが、はじめの頃のような情熱は戻って来なかった。理由は幾つかあるが、一番は競争相手が勝ち上がってしまったことにあった。ノラの心にはずっと、『シルビアの昇進』が引っかかっていた。
「はあ……」
彼女には彼女の良いところがあって、そこが男爵夫人の目に留まったのだろう。そしてそれは、ノラには真似できないようなことなんだろう。わかっているのに、正当な評価がなされなかったという思いが頭を離れない。だって、ノラの方が何倍も頑張っているし、それは教育係のアデルも認めているところだ。シルビアが失敗しないのは、出来ることしかしないからだ。
もうどうやってもあの子には敵わない。頑張ったって仕方ない。卑屈な気持ちは徐々にノラの心を蝕んでいき、ある雨の夜、懐郷病という形になって現れた。
仕事に忙殺され、食後のお茶を飲む余裕さえない毎日。孤児院に勤めていた頃のように、『誰かに頼られている』『社会に貢献している』という実感もない。
(帰りたいっ……)
母の、父の、ジャンの顔が見たい。声が聴きたい。独りぼっちの夜は寂しくて、心細くてたまらない。友人のヨハンナは、ジノは、クリフォードはどうしているだろう?孤児院の子ども達は?ロザンナはちゃんと授業に出ているか?ヤンは寝坊して、タリスン院長先生に怒られてやしないか?グリシャの奥歯は、無事に生えてきただろうか?
毎晩ベッドの中で考えるのは、懐かしい故郷の思い出ばかり。男爵家に来て、まだふた月程しか経っていないというのに、もう何十年も帰っていない気がする。
ある暗い夜のことだった。繰り返される単調な日々の中で、少しずつ膨らんでいった望郷の思いは、前触れなく爆発した。
ノラは旅行鞄にすべての荷物を詰め込むと、家から持ってきた本の一ページを破き、書付をした。『急用ができたのでオシュレントンに帰ります。お世話になりました』
時刻は深夜0時を過ぎていた。ノラは来た時と同様、ぱんぱんに膨らんだ旅行鞄を抱えて部屋を出た。
黒雲が夜空を多い隠し、霧のように細かい雨が、窓ガラスの埃を洗い流していた。
湿っぽくて真っ暗な廊下を、息を殺して、手探りで進み、食品保管室の前を通りかかった時だ。扉の内側から明かりが漏れていることに気付き、ノラは歩みを止めた。
耳を澄ませば、物音が聞こえてくる。がさがさ。ごそごそ。
(誰かいる……?)
でも、こんな真夜中にいったい誰が……?ノラは少し迷って、こっそり中を覗いてみることにした。
「…………」
部屋の隅に蹲って、一心不乱にジャーキーやチーズを貪っている人物。ろうそくの仄かな明かりに浮かび上がった横顔に、ノラは目を瞬いた。
(?シルビア……?)
プディング・ソースで口の周りをべたべたにした彼女は、手近な瓶の蓋を開けると、中身のピクルスをひとかじりして元に戻した。ソーセージや魚の燻製も同じように、少しずつ口を付けては元の場所に戻す。今夜がはじめてではないようで、実に鮮やかなやり口だった。事実シルビアは、もう何度も食料保管室に忍び込み、盗み食いを働いているのだ。
「…………」
ノラはそっと扉を閉めると、足音を忍ばせて部屋に引き返した。つい五分前までが嘘のように、脱走する気はすっかり失せていた。ばかばかしい書付は、ろうそくの火で燃やした。
次の日。ノラがキッチンの水場で、スープ用の鶏の骨の汚れを洗っている時だった。
「もうすぐ男爵夫人が帰っていらっしゃるから、お茶の用意をしてちょうだい」
シルビアは真っ直ぐノラの傍までやって来ると、高慢ちきに命令した。これには他の使用人たちも驚き、特にアデルは目を三角にした。
「ちょっと。それはあんたの仕事でしょ」
「良いんですよ、アデルさん。私がやりますから」
ノラはシルビアに食って掛かるアデルを穏やかに制止して請負った。ノラの好々爺みたいな顔を、シルビアは気味悪がった。
「ついでに食品保管室へ行って、ねずみがいないかチェックしてくるわ。この間糞を見付けたの」
「ねずみですって?そんなもの、この屋敷には一匹だっていやしないわよ」
「いいえ、確かよ。ねぇシルビア?あなたも見たわよね?」
たずねながら、ノラは唇を引き延ばしてにっこりした。シルビアはノラの余裕の理由を知り、顔色を失くした。
「え、ええ……見たわ……」
「ほらね。じゃあ、私は食品保管室へ……」
「待って!……やっぱり良いわ。お茶の準備は私がやるから」
「そう?そんなら、お願いね。あんた最近太ったから、少し運動した方が良いわ」
シルビアがそそくさとキッチンを出て行き、ノラは久々の勝利の味を噛みしめた。『こうでなくっちゃ!』
「アメデもベルモンドさんもどうかしてるわ!あんなずく無しを奥様のお世話係に取り立てるなんて!」
あなたもそう思うでしょ!?と、アデルはノラに同意を求めた。
「彼女、昔から不器用だから」
ノラがシルビアを擁護すると、アデルは呆れた。「人が良いのね、あなたって」




