夏のお屋敷
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ヴォロニエを出発して四日目の夜。馬を代えるために立ち寄った宿駅の食堂で、御者を買って出てくれたデムター・オシュレントン氏と共に、夕食をとっていた時のことだ。
「ところで、シルビアは?」
「部屋で寝てます。食欲がないって」
デムターさんはグレービーソースが付いた口ひげを布巾で拭いながらたずね、ノラは相棒の様子を報告した。
「慣れない旅で、相当参っているようだな。だが、君は平気そうだ」
「とんでもない!もうへとへとです。手足がばらばらになりそう」
ノラはオーバーな物言いをして、デムターさんを苦笑させた。
ノラにとっては人生で二度目となる馬車の旅は、快適とは言い辛かった。狭い幌の中に天敵と二人きり。やることと言えば外を眺めるくらいしかないのに、出発して半日も経たないうちに、景色を楽しむどころではなくなった。
車輪が小石を踏むたび、段差を乗り越えるたびに腰が跳ねる。このまま十日も乗り続けていれば、お尻の皮膚は栗の渋皮みたいに分厚く、頑丈になるだろう。加えて、絶え間ない揺れに、息が詰まりそうな熱気。シルビアはここまでの道程で三度も吐いてしまい(ノラだって二回吐いた)いつもの憎まれ口が叩けないほどに弱ってしまった。
「あと三日も馬車に乗らなくちゃならないのかあ……」
思えば、五年前サリエリと共に旅をした時は極度の緊張状態にあり、具合が悪いなんて言っていられなかった。大人になって改めて経験してみると過酷なものがあり、一日中御者台に座り続けても涼しい顔をしているデムターさんには、尊敬の念を禁じ得ない。
「この辺りはまだましな方さ。ヴォロニエまでの街道は、商人が行き来しやすいように整備されているからな」
これで!?と聞き返したそうなノラを無視して、デムターさんは続けた。
「もしこれがトラブキアやジプシアナなら、用心棒も付けずに七日間も旅をするなんて不可能さ。女と老人の三人連れなんて、盗賊や野生動物の恰好の餌食だからな」
デムターさんが説明して、ノラはふと思い出した。
ハンノニアでは旅人は死を覚悟せよと言われていて、旅に出る前には遺書を書く。そう教えてくれたのは、果たして誰だったか……
「見てごらん。あっちの長髪の男は両替商のフンケ氏。彼と話している帽子の男は、宝石商のアラディン氏だ。そこのテーブルに座っているのは自称物書きのアンシュッツ氏。実態はただの高利貸だがね。みんなそれぞれに目的があって、ヴォロニエを目指してる」
ノラはデムターさんの言葉に従い、振り向いてロビーに座る三人の男達を見た。顔立ちや体系は様々だが皆、小慣れた旅装束に身を包み、丈夫な乗馬用のブーツを履いている。
ノラが見つめていると、両替商と紹介されたフンケ氏が、デムターさんに向かって軽く片手を挙げて見せた。デムターさんは右手のゴブレットを持ち上げて返事した。
「このヴォロニエ領は、帝国内で最も商売がしやすい領と言われているんだ。理由は幾つかあるが、一番はこのヴォロニエが、エドゥアルドゥ・ムルシア侯爵様の治める土地だからさ」
デムターさんが赤らんだ顔に誇らし気な色を滲ませて言い、ノラをはっとさせた。
ノラはナイフとフォークを静かに皿の上に置き、深刻そうな顔を作った。「?……ノラ?どうかしたかい?」
ノラは五秒間ほど逡巡した後、口を開いた。
「……サインツ先生は……」
本名をサルバドール・ムルシアという、ノラの恩師は先月、危険武器等開発の罪で憲兵に捕えられてしまった。彼の目付け役であるダミアン・マスグレイヴが町を去ってしまった今、彼が今どこにいるのか、無事でいるのかどうか、知る術はない。改めて分かったことだが、ノラはエステバン・サインツ教授のことを、何一つ知らないのだ。
「ノラ、何度も言うが……」
「わかってます。もう口にしてはいけないと言うんでしょう?」
「そうだ。あの方は、こういう日が来ることを覚悟していらした。だが君がトラブルに巻き込まれるようなことがあれば、後悔するだろう」
吐き出されたため息には酒気が混じった。納得が行かないという顔をするノラに、デムターさんは念を押した。「君が出会ったのは、ただの頑固で変わり者の老人だ。家族が迎えに来て、彼は町を出て行った。……良いね?」
ノラが食事を終えて部屋に戻ってみると、相棒はとっくに夢の中にいた。ノラは扉にかんぬきをかけ、自分もベッドに横になった。
天井を見つめ続けて半時ほどしても、一向に眠りは訪れなかった。
オシュレントンを出てからというもの、毎晩この調子だ。身体はくたくたに疲れているのに、夜になると眼が冴えてしまう。新しい環境に対する期待や不安。憲兵に連れ去られた恩師。町に残してきた母や弟のこと。様々な事柄が綯交ぜになってノラの心を苛む。どれもこれも、考えたって仕方のないことばかりだ。
(どうして……?)
しかし、寝付けない一番の理由は、幼馴染の少年が出発間際に仕掛けた悪戯にあった。
(どうしてキスなんか……クリフォード……!)
彼とは大きいのも小さいのも、数限りない悪戯をしてきたが、今回のは今までで一番性質が悪い。ジノという恋人がありながら、何故ノラにあんな真似をしたのか。問い質そうにも、彼は遠い空の下だ。
「…………」
今度クリフォードに会ったら、その頬を思いきり引っ叩いてやろう。……いや、唯一無二の幼馴染としては、寛容なところを見せるべきかもしれない。どちらにせよ、毅然とした態度で臨むことだ。
毎夜決意を新たにし、三日後の正午。三人を乗せた馬車は、マントウィック男爵の夏のお屋敷に到着した。
「わーっ……」
お屋敷は、オシュレントン邸を横に二つくっ付けたような、立派な建物だった。全体に白い塗装が施された石の壁に、群青の屋根。鷲や熊の彫刻が、招かれざる者の侵入を拒むように、鋭い眼で見下ろしている。
「…………」
そして屋敷の周りに広がるのは、腕利きの庭師達の手によって隅々まで整えられた庭園だ。百合や、鮮やかなブルーが美しいヤグルマギク、ムレナデシコ、アキレア、キンギョソウ、クレマチスにマーガレット。中でも一番見事なのはバラで、色も形も様々なものが―――大輪のものや、一重咲きの小さなもの、つる性のものなど―――強烈な日差しの下でいっせいに、狂ったように咲き誇っている。
「この道を真っ直ぐ行けば街に出られる。そうだな……馬車で一時間くらいか?」
錬鉄の門の前で瞬きするのも忘れていたノラとシルビアは、デムターさんの声で我に返った。屋敷の前の広い道は森の中に続いていて、森の向こうには緑のまき場が、まき場の向こうには畑があり、畑の向こうに街の影が見えた。
三人を乗せた馬車は、槍を構えた門番の許可を得て、そろそろと敷地内に進入した。
「ずいぶん厳重なのね……」
シルビアの呟きは尤もだった。厳重なのは、門の前にいた警備だけではない。高い城壁や、八方に聳える物見の塔が、この城が有事に備えて造られた建物だと教えてくれる。
「なにかと物騒な世の中だからな。用心するに越したことはないんだろう」
デムターさんは、当たり障りのない推察をした。
馬車は庭園を南北に分断するレンガ道をゆっくりと進み、ノラとシルビアの目を大いに楽しませた。
庭園に見惚れていると、ふいに、目の中に光が飛び込んできた。なんだろう?と思って視線を上げると、敷地の南に屋敷とは別の建物が……とんがり屋根の塔が建っていることに気付いた。
(また光った……!)
どうやら光は、塔からきているようだった。きら!少ししてまた、きら!。ノラは光の正体を突き止めたいと思ったが、塔はほんの十秒ほどで、屋敷の陰に隠れて見えなくなってしまった。
五分ほど走って、やがて馬車が玄関の近くまで来ると、ノラは屋敷を見上げて感嘆した。(なんて素敵な窓だろう……!)
横板をただ張り合わせただけの一般的な窓とは違い、高さのあるアーチ形の窓にはガラスがはめ込まれ、曇り一つなく磨き上げられている。室外に張り出したバルコニーは曲線的で、一つ一つデザインが違う。まるで神様のお城から盗んできたような完璧な形は、ノラに大きな衝撃を与えた。
こんなところで働ける自分は、大陸一の幸せ者だ!横顔を見る限り、シルビアも同じことを考えているに違いなかった。
「……きょろきょろしないで頂戴。私まで田舎者に思われるじゃない」
ノラがじっと見つめていると、シルビアは都会人ぶって彼女の気分を害した。
内装も外側に負けないくらい華やかで、見事だった。
真っ直ぐな長い廊下には、その道四十年の職人が五年も費やしたであろう、草木柄のカーペットが敷かれ、天井のフレスコ画には神話の世界が描かれていた。それだけでは飽き足らないと、壁一面に絵画が飾られ、その隙間を埋めるように、壺や仕掛け時計が静かに佇んでいる。
ふと、シャンデリアの煌めきに釣られて顎を持ち上げると、黄金に塗られた欄干が目に飛び込んできた。そのあまりの輝きに、ノラは眩暈がした。
昔、オシュレントン邸の図書室で借りた小説に貴族の館の描写があったが、いやはや、これほどとは……
ノラは自らの想像力の乏しさと、世界の広さを知った。
ノラとシルビアはデムターさんに連れられ、建物の奥に隠された従業員用の通路へ入った。こちらは打って変わって質素な作りで、息をするのも忘れていたノラとシルビアは、漸く全身の緊張を解くことができた。
「私はこの男爵家で執事を務める、ジョージ・ベルモンドだ」
螺旋階段をぐるぐる回ってたどり着いた部屋で待っていたのは、五十代半ば程の紳士だった。四角くて大きな顔に、猫みたいに丸く吊り上った目。太眉、わし鼻、おちょぼ口、太く黒々した髪は真ん中で分けられ、ぺったりとオイルで撫で付けられている。
装いは、まず新雪みたいに真っ白で滑らかなシャツ。そして飾り気のない黒の上下に、ベスト。足元の革靴は天井が映り込むほどピカピカに磨き上げられている。
ノラは内心で、こんな格好をしている人が、おっかなくないわけがないなどと思った。その考えは、九割九分正解だった。
デムターさんは二人をジョージに預けると、軽く激励して帰って行った。
「仕事は明日から覚えてもらうとして、まずは屋敷を案内する。遅れず付いてくるように」
ジョージは不安そうに顔を見合わせるノラとシルビアに、てきぱきと指示した。
「メイドの起床は朝五時。人手が足りないので、なんでもやってもらうことになる。わからないことは先輩のハウスメイドに聞くと良い。後で紹介しよう」
それから二人はジョージについて、主に壁の内側の部屋を見て回った。
キッチン、洗い場、グラスや金属器を管理するパントリー、ナイフ・ルーム、貯蔵庫、リネン室、陶磁器の収納庫、ワインの貯蔵庫、使用人の食堂など。壁の内側には、覚えきれないほどたくさんの部屋があり、ノラとシルビアは目を回した。
「ここが酪農室、隣がセラーだ。朝起きたら家中の暖炉とオーブンに火を入れること。
パントリーやナイフルーム、貴重品の保管庫には入らないように。必要なものがある時は私か、ハウスメイドに確認を取れ。それから、今君達が立っている階段は男性用階段だ。今後は女性用階段を使用するように」
ジョージの聊か不親切な(とにかく早口なのだ)説明は、二人をドキドキさせた。
「食事は使用人用の食堂で、朝八時、夜八時半だ。遅れると食いっぱぐれるので、注意すること。後で制服を支給するが、身だしなみにはくれぐれも気を付けるように。『靴の裏まで清潔に』これが基本だ」
少し話が途切れたところを見計らって、ノラはおずおずと挙手した。
「なんだね?質問かね?」
「その……敷地の南側に建っている塔のことで……あちらには、誰かお住まいになっていらっしゃるのですか?」
ノラが切り出すと、ジョージはその太い眉毛を器用に片方だけ持ち上げた。「お前達が知る必要はない」
「南の庭には、決して近付かないように。わかったな」
「は、はい」
ジョージが厳命し、ノラはシルビアに睨まれた。
「この靴に履き替えて、付いてきなさい」
屋敷の見学が一通り終わると、ノラとシルビアは、男爵夫人の書斎に案内された。
「エリザベータ様はお優しい方だが、礼儀作法に厳しい方でもある。粗相のないように」
重厚感のある黒檀色の扉の前で、ジョージはくれぐれも言って聞かせた。
「奥様。新しいメイドが到着致しました」
マントウィック男爵夫人は、五年前と変わらぬ美貌で二人を出迎えた。
「よく来たわねシルビア。それにノラ……だったかしら?」
デスクで事務作業をしていた男爵夫人は、金縁の眼鏡を外して確認した。
「お久しぶりでございます。マントウィック男爵夫人」
シルビアがはきはきと挨拶して、男爵夫人のご機嫌を取った。ノラは出遅れた。
「今日から一年間、私があなた達の親代わりよ。一日も早く、男爵家の使用人として恥ずかしくない立ち居振る舞いを身に付けるように。……特にあなた」
男爵夫人はノラに注目した。
「ここがどこだか、分かっていますね?」
「由緒あるマントウィック男爵家の夏のお屋敷です」
ノラは背筋を伸ばし、素直を演じて答えた。
「結構です。ご両親からお預かりした以上、私にはあなた方を立派な淑女に育て上げる責任があります。一年間、しっかりと行儀作法を学び、帰郷する頃にはどこに出しても恥ずかしくないレディになっていることを望みます」
男爵夫人はにっこりとほほ笑んで告げ、シルビアの鼻息が荒くなった。
「それでは、あなた方の働きに期待します。下がってよろしい」




