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出発の朝に

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

 ノラは出発までの日々を、恙なく、静かに過ごした。

 家にいる間はいつも以上に母の手伝いをし、出来る限りジャンの傍にいるよう心がけた。小さなジャンは、別れの意味は分からないものの、暇さえあれば構おうとするノラを、訝っているようだった。

 孤児院の子ども達は、ノラが奉公に出ることを大層喜び、餞別に『これまでに犯した一番悪辣な罪』を告白した。やがてノラが町を出る日になると、駄々をこねてノラを喜ばせた。『行かないで!行ったら先生の家に火をつける!』

 出発の朝、ノラはシルビアやデムター・オシュレントン氏と共に、町の入り口に立っていた。

「子ども達のことは私に任せて、頑張っていらっしゃい。身体に気を付けてね」

「はい、院長先生」

 一通りみんなと別れを済ませたノラは、きょろきょろと辺りを見回してため息を吐いた。

 お馴染みの顔ぶれの中に―――孤児院のタリスン院長先生、友人のヨハンナ・カレーラス、お隣のカシマ・カルカーニ、手芸の師匠ランベル夫人、ガブリエラ、その他クラスメート達―――ロイ・アリンガムと、ジノ・シャルディニの姿はなかった。(アリンガムの家には何度か挨拶に行ったが、ロイは会ってくれなかった。ジノはわからない)

「私って、人望ないのね……」自嘲して、ノラはふと、見送りに来ていない人物がもう一人いることに気付いた。

「ねぇ、ヒューゴ。クリフォードは……」

「うん?なんだ?」

 尋ねかけて、ノラはのど元まで出かかった続きの言葉を飲み込んだ。

「……なんでもない。早く良い奥さんを見付けてね」

「俺が心変わりすると思って、不安なんだ?馬鹿だなあ。一年くらい、待っててやるよ」

 ヒューゴは恩着せがましく自信たっぷりに言って、ノラを苦笑させた。「私、あんたのそういうところ、結構好きよ」

 出発の時間が迫り、ノラは家族と最後の別れ言をかわした。

「気を付けて行くのよ。男爵夫人によろしくね」

「はい。お母さんも無理はしないで」

 母は曖昧に頷いた後、直ぐに不安を吐露した。

「……心配だわ。あなたがいなくなった後、どうやってあの子と向き合えば良いのか……」

 母は少し離れた場所に立つジャンを一瞥して言った。

 ジャンは日増しに力が強くなっていて、母の細腕では、もうお尻を叩いて言うことを聞かせることも、納戸に閉じ込めることも出来ない。今まではノラがいたからなんとかやって来れたが、これからはあの狭い家に、二人きりになる。(父は帰りが遅いので、頼りにならない)

 母の不安を察し、ノラはジャンに向き合った。

 ノラはジャンの腕を取り、自分の腕にはめていた二つの腕輪の内の一つ、金で出来た方をはめてやった。

「サリエリがお前をを守ってくれるわ。大事にするのよ」

 彼がサリエリのように、優しく、勇ましくなってくれますように。願いの込められた腕輪は、しっくりとジャンの腕に馴染んだ。ジャンは目をぱちぱちさせた。

「良く聞いてジャン。お姉ちゃんは、お前のことがとっても心配よ。お前は不器用だし、無愛想だから、いつも人に誤解されてしまう」

「…………」

「どうか、これだけは知っておいてちょうだい。お姉ちゃんはお前のことが大好きだし、お前が弟で本当に良かったと思ってる。遠く離れていても、心はいつも一緒よ」

 次の瞬間、ノラはジャンをしっかりと胸に抱き締めた。ジャンは驚愕して、頭のてっぺんから爪先まで真っ赤にした。

「愛してるわジャン」

 ジャンは炎天下に晒された雑巾みたいにかちんこちんに固まってしまって、逃げ出すどころか、指一本動かすことができなかった。ノラの胸は、久しぶりに弟を腕に抱くことができた喜びで満たされた。

「ノラ、そろそろ」

 デムターさんに促され、ノラが馬車に乗り込もうとしたその時だ。人垣の向こう側が騒がしくなり、何だろうと思ってそちらを振り向くと、直ぐ目の前にクリフォードが躍り出てきた。

「クリフォード、遅かったじゃないか。お別れを言うなら急いでくれよ」

 走ってきたために、彼の首筋からは滝のような汗が流れ、シャツの襟ぐりをびっしょりと濡らしていた。言葉を紡ぐのも辛そうだったので、デムターさんは苦情を一言で済ませた。

「クリフ……」

 人々が息を凝らして見守る中、ノラとクリフォードは黙って見つめ合った。

 少々の後ろめたさを感じながら、もうこれで見納めだろうからと心中で言い訳して、ノラはまじまじとクリフォードの姿を……畑仕事でこんがりと日に焼けた肌や、唾を飲み込むたび上下する喉や、粘土のようになめらかな肩を、しっかりと目に焼き付けた。

 一方のクリフォードも、理性や道徳意識を一目で焼き尽くせそうな瞳で、ノラを見詰めた。

「…………」

 彼の視線はノラの眉からはじまり、鼻筋を通って、唇へと下りていった。そのまま柔らかな顎の曲線を通り過ぎ、ほっそりとした首筋へ。やがてその下の大きく張り出した膨らみに注がれると、ノラは赤面した。

「その……会えて良かった。私、あなたは来てくれないかと……」

 思った。そう続くはずだったノラの言葉は、クリフォードの唇に吸い込まれた。

「!!!」

 クリフォードの長いまつげが肌をくすぐり、冷たい鼻先が頬を滑る。ノラは最初、自分の身に何が起きたのか、理解することが出来なかった。

「っ……」

 髪の中に差し込まれた硬い指先が、地肌を擦る。身体の隅々まで張り巡らされた血管が膨らみ、その中を流れる血液が、猛スピードで全身を駆け巡る。そして彼の唇がノラの下唇をきゅっと挟むと、意識は眩い光の渦の中に投げ出された。

 突然の抱擁、突然の口付けに驚いたのは、唇を奪われた本人だけではなかった。母は鼻に虫が飛び込んだような顔をし、ヒューゴは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。カレンやアガタに至っては、お化けでも見たみたいだった。先に馬車に乗っていたシルビアだけは、やってられない!と、ぐるりと目玉を回した。

「…………」

 永遠のように感じられたが、実際は十秒にも満たない、わずかな時間だった。

「きゃっ……」

 事が済むと、クリフォードは何を言うでもなく、茫然自失といった様子のノラを素早く抱き上げた。そして重さを感じさせない動作で、馬車の荷台に積み込んだ。

 クリフォードはノラの顔を一度も見ないまま、逃げるように走り去った。荷台に座り込んで放心するノラの耳に、どこからともなく、ぱらぱらと、まばらな拍手が聞こえてきた。

 別れの涙も感慨も全て吹き飛んでしまい、一行は混乱の内にヴォロニエへ向けて出発した。途中、荷物の中に孤児院のロザンナ・ニコリッチを発見し、引き返すというハプニングが起きたが、とにかく、出発した。



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