新しいはじまり
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高く澄み渡る晴天の下、オシュレントンでは毎月恒例の昼食会が催されていた。
手伝いに駆り出されたノラとヨハンナとジノの三人は、婦人会の先輩であり少女等の監督役であるアリアナ・ギルデン(ヨーハン・ギルデンの息子、ヨハンネス・ギルデンの妻だ)の目を逃れ、お喋りに興じていた。
「また凝ったわねぇ!」
大げさに感嘆するヨハンナの腕には、ノラが端切れを接ぎ合わせて作った、ぬいぐるみのクマが抱かれていた。
「この子、パンティ履いてるわ!」
ヨハンナはわざわざスカートをめくって確認し、ノラは『そこが一番のこだわり』と、得意げに笑った。
「かわいいでしょ?うふ」
ノラがはじめて編み棒を握ってから早五年。最初は鍋敷きのようだった手袋も、今では売り物と比べてもそん色がないほどに上達した。手芸は今やノラの一番の友であり、慰めになっていた。
「先週婦人会の集まりで、ランベル夫人が褒めていたわよ。『ノラは私が教えた中でも、一番出来の良い生徒だ』って!」
「自慢の弟子ね」
ヨハンナがランベル夫人の口調を真似てみせ、ジノがそれに乗っかった。
三人が夢中でぺちゃくちゃしていると、道の向こう側から馬車がやってきた。御者台に座る男の顔を見て、ノラは思わず、「げ。」と顔をしかめた。
「私はいないって言って!」
友人達に後をまかせて、ノラは素早く近くの茂みに隠れた。ゆっくりとした速度で走ってきた馬車は、やがてヨハンナとジノの前で停まった。
「こんにちはヒューゴ」
ヨハンナが率先して挨拶すると、ヒューゴ・キャンピオンは紳士然りとして、帽子のつばをくいと持ち上げた。
「やあ、かわいいレディたち。俺の天使は?」
ヨハンナとジノは思わず吹き出しそうになる笑いを、お互いの太ももを抓ってかみ殺した。
「今日はきてないわよ」
「孤児院じゃない?」
ヨハンナとジノは口裏を合わせた。
「そうなの?残念だなあ。せっかくデートに誘おうと思ったのに……」
ヒューゴは口を尖らせた。
「ノラがここへ来たら伝えておいてくれよ。未来の夫が捜してたって」
ヨハンナとジノは顔を見合わせて、声をそろえて請け負った。「ええ。必ず!」
ヒューゴが行ってしまうと、ヨハンナとジノは堪えきれずに、腹を抱えて笑い出した。二人の無遠慮な笑い声を合図に、ノラはそろそろと茂みの中から顔を出した。
「ヒューゴったら、あなたに首ったけね!」
「もう逃げられないんじゃない?諦めてお嫁に行ったら?」
「からかわないでよ。最近じゃ家にまで押し掛けてくるのよ。もううんざり」
ノラはげんなりと肩を落として愚痴った。
「でも、ヒューゴの気持ちわかるわ。あなた最近ぐんと大人っぽくなったもの。それに、綺麗になったわ」
「……そりゃどうも。そんならジノが私をお嫁にもらってよ」
「いやね。冗談ばっかり」
「この子はだめよ。決まったお相手がいるでしょ」
ヨハンナがすかさず割って入って、ジノは気恥ずかしそうに頬を染めた。
「そうでした。ジノにはクリフォードがいるもんね」
「そうよ。お嫁にくるなら、うちにいらっしゃい」
「ヨハンナ~」
ノラは甘えた声を出して、ヨハンナに抱き付いた。ヨハンナはノラの頭を大きく撫で回した。「おお、よしよし」
「噂をすれば、クリフォードよ」
「えっ!」
ヨハンナが道の先にクリフォードの馬車を発見すると、ジノは慌てて居住まいを正した。ジノのドキドキが伝わってきたようで、ヨハンナもノラも、気持ち背筋を伸ばした。
クリフォードは真っ直ぐこちらに向かってきて、三人の前で馬車を停めた。
「今ここに、ヒューゴが来なかったか?」
「来たわよ。もう行ってしまったけど……」
クリフォードの質問に、ジノが余所行きの声で答えた。その後をヨハンナが引き継いだ。
「行き先はたぶん、孤児院よ」
「孤児院?なにしに?」
「未来の妻を捜しによ」
ヨハンナはノラの方をちらりと見て、意味深長に言った。釣られてクリフォードの視線が流れてくると、ノラは赤面して俯いた。『ヨハンナ!余計なことを!』
「……行ってみるよ。ありがとう」
「待って、クリフォード」
去って行こうとするクリフォードを、ジノが引き留めた。
「お父さんが、仕事の話をしたいって」
「わかった。帰りに家に寄るよ」
二人の間には独特の、親密な空気が漂っていて、ノラとヨハンナはたちまち居心地が悪くなった。「どうも、お邪魔みたいね」
クリフォードが去って行くと、ノラはヨハンナをじろりとやった。
「意地悪ね。言いふらさなくっても良いじゃない」
「恥ずかしがることないわよ。あんたは嫌がってるけど、彼、結構人気あんのよ」
「えー?」
「ヒューゴって長男でしょ?行く行くはキャンピオンの土地が、全部彼のものになるのよ」
「そうよ。顔は申し分ないし、綱引き相撲の五年連続優勝者よ。こんな優良物件はないと思うけど」
「二人とも、人ごとだと思って!」
ジノまでヨハンナに加勢したので、ノラはむくれた。
ノラが臍を曲げるのを見て、ジノは「それより……」と話題を変えた。
「ノラあなた、最近クリフォードに冷たいんじゃない?」
ジノに指摘されたノラは「そうかなあ?」と首をすくめた。
「もし私のことを気にしてるんだったら、良いのよべつに。二人は友達なんだもの」
「そんなんじゃないってば。私とあいつは、前からこんな感じよ。毎日会ってるのに、挨拶もないわ」
数年前まで靴と靴ひものようだと揶揄されていた二人の交際は、アベルやマルキオーレが町を去ってしまうと、少しずつ疎遠になっていった。ノラには女の子の友達ができたし、クリフォードは仕事が忙しくなった。今では用事がなければ喋らないし、一日一度の挨拶も、交わさないことの方が多い。そのことを、特別寂しいと感じたことはない。たぶん、これが自然なのだ。
ノラは靴ひもの座をクリフォードの恋人であるジノに明け渡し、目下しっくり来る新しい靴を探している最中だ。名乗りを上げているのは、今のところ、お調子者のヒューゴ・キャンピオンただ一人。
「……今の、クリフォード?」
少し離れたところでバーベキューの準備を手伝っていたシルビアが、すすすと近寄ってきて尋ねた。
「そうだけど?」
「追いかければ、まだ間に合うと思うわ」
シルビアは親切にアドバイスしたジノを、鬱陶しそうに見た。
「別に良いわ。大した用事じゃないから」
シルビアの素っ気ない返答は、ヨハンナの興味を過剰にひいた。
「つれないわねぇ。昔はあんなにお熱だったのに」
「だって、クリフォードったら、大人になったらてんで普通なんだもの」
シルビアは憎まれ口を言って、ジノとヨハンナを苦笑させた。
「あんなこと言って、全然相手にされないもんだから……」
ヨハンナは大きな声でノラに耳打ちした。
五年という歳月は、悪戯好きな少女を物分かりの良い大人に変えただけでなく、少年を立派な青年へと成長させた。みずみずしい若さと活力にあふれたクリフォードは、ただそこにいるだけで人目を奪った。より凛々しく、逞しくなった彼を普通と称するのはおそらく、長い片思の末に白旗を上げた、シルビアくらいのものだ。
図星を指されたシルビアは、きっ!とヨハンナを睨んだ。
「相手にされないと言えばノラ、最近、弟くんはどう?」
ヨハンナは、豪快に話をそらした。
「どうって……相変わらずよ。先週は靴下を隠されたわ」
五年前に生まれた弟のジャンは、どういうわけか姉のノラに懐こうとしなかった。ノラの持ち物を隠したり、汚したりして、困らせてばかりいる。
「甘やかすからよ」
「そうかなあ?」
とはいえ、ノラが歳の離れた弟を溺愛しているのは、周知のことだ。傍から見れば悪魔の化身ような弟も、身内の目には天使と映るのだから、不思議なものだった。
「ノラ、そろそろ孤児院へ行く時間じゃない?」
「本当だ。それじゃ、お先に失礼するわね」
「ヒューゴに見付からないようにね」
ノラはヨハンナとジノに別れを告げて、昼食会の会場を後にした。
「きた?」
「きた!きた!」
「しー!しずかにしてよ!」
川向うのオシュレントン孤児院では、意気揚々とやってきたノラを、三人の小悪魔達が待ち構えていた。
「きゃあ―――っ!!」
玄関の前にばら撒かれた木の実でノラがすっ転ぶと、悪戯っ子のヤン・エロランタ、ロザンナ・ニコリッチ、エヴァ・コーベルの三人は弾けるような笑い声を上げた。
「こらー!」
子ども等は奇声を上げながら逃げ回り、ノラを手こずらせた。
「危ないじゃない!怪我をしたらどうするのよ!」
奮闘の末、ヤン・エロランタの首根っこを捕えたノラが喚いた。
「先生はお尻が大きいから、尻もちついたくらいじゃ平気だよ」
「まあ!憎たらしい口ね!」
「今日こそ物置に閉じ込めてやるんだから!覚悟なさい!」
ノラがヤンを物置に連行しようとしていると、玄関からお手伝いのラーラが顔を出した。
「ノラ、遅かったじゃないか。院長先生がお待ちかねだよ」
「?……院長先生が?なにかしら?」
ノラが首を傾げると、ラーラもつられて首を傾げた。「さあ、私にもわからないけど……」
「行っておいでよ。大丈夫、ヤンは私が良く叱っておくから」
ラーラが申し出ると、ヤンは『しめた!』という顔をした。子供に甘いラーラは泣き真似に騙されて、罪人を直ぐに解放してしまうのだ。
「言っておきますけどね、ヤン。時間を置いたからって、罪が軽くなるわけじゃないのよ。院長室から戻ったら、たっぷりお説教してあげるから」
ノラはヤンをラーラに預け、急ぎ足で二階の院長室に向かった。
「お呼びですか?院長先生」
「ああ、ノラ……来たわね。そうよ、あなたを待っていたの」
院長先生はノラを、応接セットのソファに座らせた。
タリスン院長先生の彫刻みたいな(つまり、ぴくりともしないという意味で)顔を窺いながら、ノラは考え込んだ。話ってなんだろう?またなにか失敗をしたっけ?子ども達と追いかけっこしていて壊した置き時計はこっそり修理に出したし、うっかり付けてしまった院長室のテーブルクロスのろうそく染みは、上に大きな花瓶を置いて隠した。あれ以来花瓶は動いていないので、まだばれてはいないはず……。
あれでもない、これでもないと考えていたノラは、最近仕出かした大きな失敗を思い出し、あちゃあ!と顔をしかめた。
「院長先生、違うんです」
先週の水曜日のことだ。子ども達が悪戯で持ち出した、院長先生のぶどう酒。発見したその時直ぐに戻させれば良かったのに、子ども達に乗せられたノラは、つい御相伴にあずかってしまった。
「あれには、深い事情があるんです。とても込み入った、ややっこしい事情が……」
一杯だけのつもりが、一滴残らず飲み干してしまったのはまずかった。昨夜ブドウ酒を飲もうとした院長先生は、瓶に入っているのが実は床磨き油だと知ったのだろう。その仮面みたいな澄まし顔からは、底知れない怒りが感じられた。
「とても反省しています。本当は、直ぐに打ち明けようと思ったんです。でも忙しくて、つい忘れてしまって……」
本当に申し訳ありません。大人しぶって謝罪するノラに、院長先生は目を瞬いた。
「一体なんの話です?」
「え?用事って、お説教じゃないんですか?」
ノラが聞き返すと、タリスン院長先生は落ち着いた口調で切り出した。
「私があなたを呼んだのは、進路の件よ」
「!?……返事がきたんですか!?」
ノラは思わずソファから身を乗り出し、タリスン院長先生をぎょっとさせた。
「……ええ。理事会はあなたさえ良ければ、今後は正規の職員として働いて欲しいって。お給料も上げてくださるそうよ」
ノラは興奮のあまり、院長先生から受け取った手紙をくしゃくしゃにした。「どうしよう!私、鼻血が出そう!」
「孤児院はいつでも人手不足だし、あなたが手伝ってくれるというなら、ありがたいわ。でもね……あなたは成績も良いのだし、就職は上の学校を卒業してからでも遅くないと思うのよ。それに、お母様が賛成しないんじゃないかしら」
タリスン院長先生は舞い上がるノラを諌めるように、淡々とした口調で述べた。彼女の言うことは尤もで、特に母は、ノラが孤児院で働くことにしつこく反対し続けていた。今度もきっと大喧嘩になるだろう。
「この五年間、あなたは本当に良く尽くしてくれました。後悔はしてほしくないのよ」
「後悔なんて……」
「あなたの気持ちは、わかっているつもりよ。でも、あなたはまだ若い。選択肢は無限にあるわ。とにかく、もう少し考えてみて」
ノラは素直に頷いたが、心は決まっていた。
「そうそう、そう言えば、キッチンの棚の中のブドウ酒だけどね」
部屋を出ようとしたノラに、院長先生が切り出した。
「ぎくっ」
「次は、せめて飲める物を入れておいて欲しいものね。床磨き油なんかじゃなくて」
「はい……どうもすみません……」
ノラが肩を落として院長室を出ると、ラーラが階段を上ってくるところだった。ラーラはノラの姿を見つけるなり言った。
「食堂へ行って勉強を見てやってよ。あの子等ときたら、五分もじっとしていられないんだから」
ノラが駆け付けた時には、食堂は大騒ぎになっていた。ノラは泣いたり、喚いたり、歌ったりしている子供達の中に入って行って、パンパン!と両手を打ち鳴らした。
「さあ、さあ、みんな席について。楽しいお勉強の時間よ!」
「勉強なんかしたくない!」
ベアトリス・クレマンが、みんなの意見を代表して言った。
「ありがたく思いなさいよ、あんた達。あんたたちほど幸せな子供は、世界中どこを探したっていないわよ。なんたって……」
「「「「この私に勉強を教えてもらえるんだから!」」」」
続きを先に言われてしまったノラは、いかにも!と胸を反らした「そういうこと!」
ノラも大人になり、ようやく、恋愛シーンが書けるとわくわくしています。御贔屓様も、はじめまして様も、どうぞよろしくお願いします。(気に入ったら、是非1から見てね)
また長くなると思うけど、広めの心と長めの目で、お付き合いくださいませ。