フィーネの昔話
アダマンガラス城の地下には戦争をやっていた時代に使われていた地下牢がある。その頃は捕虜の自由を奪うなどのために運用されていたのだろうが、今ではほとんど使われることがない。
地下牢は鉄格子で区切られた部屋が八つあり、明かりは何本かの蝋燭によるものでやや頼りない。
そこに彼女がいた。
金髪のセミロング、左目に巻いた包帯、白一色のワンピース。以上の特徴を持った人物といえば、アダマンガラスではリーナを思い浮かべる人が多い。
しかし実際に屋上で鎧竜と戦っているリーナ・ギルバルトとは別に、それらの特徴を持った人物がそこにいた。
彼女の名はフィーネ・アルリット。リーナの専属メイドだ。リーナに似せるために金のカツラをかぶり、服装も普段のリーナのものを身につけている。左目も包帯をまいており、容姿に注視されなければほとんどの人間を黙せることだろう。
実際今まで何度か入れ替わりを経験したが、見抜かれたことは一度もない。
フィーネは両手を合わせて、祈りを捧げていた。
祈ることはただ一つ。
リーナが無事に帰ってくることだ。
こうやって入れ替わりをするのは、リーナの目的のため。祈るのも、リーナと共にまた人生を歩みたいため。全てはリーナのためだ。
地下牢に閉じ込められてまだ一時間程度しか経っていない。その時間、ずっとフィーネはリーナのために祈っていた。今のフィーネにできたのは、それだけなのだから。
「リーナ様……ご無事だといいのですが……」
あらゆる情報から遮断されたこの空間では、推測することしかできない。それ故に不安も大きかった。しかし、不安に押しつぶされてしまってはならないとも思っていた。
今の自分にできることなど何もない。それが辛かった。
正直なことを言ってしまえば、リーナにはドラゴンなどと戦ってほしくない。自殺行為でしかないし、生きて帰ってくる保証もない。
しかし、リーナが長年その打倒を胸に秘めて生きてきたのなら、自分がそれを止めるのは無粋というものだ。だから本心を押し隠し、リーナが勝利する未来を信じた。
そうすることが正しいと思った。
その時、地下牢への扉が開かれる音がした。
蝋燭の明かりだけで照らされた廊下を歩き、コツコツと足音を響かせながら、何者かがゆっくりとフィーネのいる地下牢の前に立つ。
それはリーナの義理の兄、グレイスだった。その後ろには鎧を着た兵士が一人。
グレイスは無表情だった。しかしその視線は鋭く、何者をも眼光だけで射抜くかのような迫力があった。
その眼光はギルバルト王の教育の賜物だろうと、フィーネは思った。
グレイスはその視線をフィーネに向けたままポツリとつぶやく。
「まさか……入れ替わることまでは計算に入れてなかったよ」
「なんのことですか? グレイス兄さん」
フィーネはリーナと同じ口調で答える。グレイスは軽くため息をついた。
「喋り方までこうも似せられるのか……お前のリーナへの忠誠心の高さは恐ろしいものがあるな」
互いに沈黙する。フィーネはリーナの代わりを完璧にこなそうとした。喋り方も、立ち居振る舞いも完璧に。おそらくそれはリーナも同じはずだ。だが、もう遅い。
リーナとフィーネが入れ替わったことは既にこの男は知っている。それを察した上で、フィーネはとぼけるのをやめた。
「もう……ご存知なのですね……グレイスお兄様」
「ああ。リーナは僕たちの目の前で暴れてくれたよ」
「!」
その時、フィーネは一瞬、目を見開いた。
「リーナ様は、どうなりました!?」
「それに答えてあげてもいいが、その前に僕の質問に答えて欲しい」
フィーネは無言で頷く。
「なぜこんなことをした?」
「リーナ様がそれをお望みだからです」
「国が滅びる可能性すらあったんだぞ?」
「リーナ様が戦わなければ、国が滅びない可能性が上がったのですか?」
「それは何とも言えない、が可能性を否定することもできない」
「可能性……ですか」
「そうだ。父上や僕の判断はその可能性を懸念してのことだ。なのにそれをお前は台無しにしたのだ。結局、ドラゴンとリーナは相対してしまった」
ドクンと、心臓の音が鳴る。自分の鼓膜がその音を拾いそうになるほど。
「その結果……どうなったのですか?」
その質問に答えるということは、リーナの現状を教えるということになる。
グレイスは逡巡している様子だった。教えるべきか否か考えているのだろう。
「教えてください! リーナ様は……」
「生きているよ」
フィーネの顔がパッと明るくなる。リーナが生きていた。主が生きていたという安堵が、フィーネの胸を満たしていく。
「そう、ですか……」
ほっと胸をなでおろす。その瞳には僅かに涙が浮かんでいた。
「よかった……本当にご無事で……よかった」
涙を拭う。それを見てから、グレイスが口を開いた。
「だが、これからどうなるかは検討がつかない」
「これから? どういうことですか?」
何とも言えない不穏な臭いを感じた。
「先が不透明過ぎるんだ。言い伝えにばかり固執するわけではないが、やはり可能性は潰さなければならないからな。父上とアダマンガラスを取り巻く貴族達、王都に駐在する各長官達を集め、話し合うんだ。リーナをどうするのかを」
「それは、リーナ様自身が決めるべきことではないでしょうか?」
グレイスの目を正面から見据える。他人の人生を好き勝手にしても許される人間などいない。そう思うが故に反論したのだが。
「それは普通の子である場合だ。普通の人間と、特別な状況にさらされているリーナを一緒にするな」
「それは……」
確かにリーナは特別な人間だ。この国の王位継承者であることも、灰色の瞳を持つことも。
だがそれはフィーネには関係ないことだ。フィーネにとってリーナが特別である理由は、リーナが敬愛する主であるという一点のみだ。しかし、それだけでグレイスが納得するはずもない。グレイスは個人と国とでは国の方を優先する人物だ。
その考え方自体は決して間違っていない。間違ってはいないが、だから納得しろと言われても素直に首を縦には振れない。
「フィーネ。お前がリーナを敬愛していることはわかる。だが個人的な感情を控えろ。王族の立場たるもの、国の未来を優先して考えなければならないんだ」
「……はい……わかっております」
グレイスは淡々と言葉を紡ぐ。
「リーナが今後どうなるのかは、わからない。少なくとも今決められることではない。僕からはお前に対して処罰する気はないが、リーナの今後の行く末が気になるのなら、黙って見ているんだ。その上で、お前自身がどう行動するかを決めればいい」
何を見ていればいいというのだろう?
もしかして、リーナを殺すべきかどうか、という話し合いだろうか? あくまで想像でしかないが、グレイスの口ぶりからするに多分そうなのだろうと、フィーネはそう解釈した。
――ん?
「私にはなんの処罰もないのですか?」
グレイスは今確かに、『お前に対する処分はしない』と言った。リーナをドラゴンと相対させまいとするグレイスやギルバルト王の意向に逆らい、真逆のことをしたのだ。どのような処罰が下されても文句を言えないし、その覚悟もしていた。だから、処罰をしないというのは以外だった。
「あくまで僕からは、な。仮にお前を拷問にかけるような真似をしたら、リーナに殺されかねないからな」
「リーナ様はそのようなことはしません」
「単なる比喩だよ。気にするな。君、牢の鍵を」
「ハッ!」
グレイスは後ろに控えている兵士に命じて、鉄格子の扉を開けるよう支持する。
扉が開かれる時、金属同士が擦れる音が地下牢内で反響した。
「あとの行動は自由にしろ」
グレイスは最後にそう言い残して、その場から足を運びはじめる。これ以上話すことはないと態度で語っていた。
「グレイスお兄様」
フィーネは開け放たれた扉を出て、グレイスを呼び止める。
「これは私の希望的観測も含んでいますが、これだけは言わせてください」
「……言ってみろ」
カミソリのような鋭利な視線がフィーネに向けられる。普段は飄々とした優男を演じているように見えるが、こういう時の視線には迫力があった。
「私はリーナ様が、この世界を破滅に導く存在などではないと思います。私はその可能性を信じます」
「そう思うのは勝手だが、今日のリーナの戦いぶりを見ていたら、そんな言葉は出てこないと思うよ」
フィーネが言葉に詰まる。確かにフィーネは、今日リーナがどのように戦ったのかを知らない。
恐る恐る、グレイスに問いかける。
「リーナ様がどちらにいるのか……教えていただくことはできませんか?」
「悪いが、それを僕の口から言うわけにはいかない」
「……畏まりました」
フィーネはいささか不服を感じながらも丁寧に頭を下げた。
地下牢から外へ出ると、青い絨毯の敷かれた大きな廊下に出た。
廊下には窓ガラスも設置されており、外の様子が見て取れる。
地下牢に入る前は雨雲が広がっていたが、今では大粒の雨が大地を叩いている。
「リーナ様……お風邪を召されていなければよろしいのですが……」
呟きながら、カツラを外す。その下から、栗色のショートカットが姿を現す。同時に窓ガラスに映った自分の姿を見た。
服装だけはリーナがいつも来ている白一色のワンピースだ。スカート部分と肩がフワッと膨らんでいるため、より一層お姫様といった印象を醸し出している。しかし、フィーネの幼顔と栗色のショートカットとはあまりマッチしておらず、背伸びをしているように見える。
「私には、こういう服は似合いませんね。早くお洗濯して、リーナ様にお返ししなければ……」
これからどうするかを考える。そして少し逡巡してからすぐに歩き出した。
フィーネは一度自室に戻り、普段自分が着ているメイド服に着替えてから行動を開始した。
目的はリーナの居場所を知ること。とりあえず、今のリーナの状況を正確に把握しておきたいと思った。そう考えた結果、自然とそこに足を運んでいた。
王宮に存在する医療棟。怪我をしたり、病気にかかったりした場合にやってくる場所だ。グレイスは「今日のリーナの戦いぶりを見ていたら……」と口にしていた。グレイスは見ているのだ。リーナの今日の戦いぶりを。
グレイスはギルバルト王と同様、兵士を指揮する能力に長けている。ならば、グレイスのみならず、彼の指揮下にあった兵士達も、リーナの戦いを見ているはずだと思ったのだ。
最も、ただ見ていただけで、戦っていないのならこんなところで兵士が治療を受けているはずはないが。
医療棟は棟とはいうものの実質一つの部屋だった。約二十人分のベッドが整然と並べられた部屋で、普段は訓練や聖剣武大会で怪我をした人間の治療のために使われる程度の場所だ。逆に言えば怪我人なんてそういう時ぐらいしか発生せず、二十人分のベッドが常に使われることもない。
いくつかのベッドとベッドの合間を縫うように外開きの窓ガラスも設置されており、外からの明かりにも事欠かない場所だった。
そんな医療棟に入ってすぐに聞こえてきたのはどこか懐かしむような声だった。
「おやぁ? フィーネちゃん?」
一人の女性がフィーネの姿を認め話しかけてきた。
「おはようございます。クレア様」
フィーネはクレアと呼んだ女性に頭を下げる。
小さなメガネをかけた女性で、長い髪の毛をポニーテールにしている。その力強い瞳と細い体は、若々しさをたたえており、正確な年齢を容姿から察するのは難しい。服装はこの城で働くどの使用人とも違う赤い修道服だった。
この国で医者と呼べる人間は、十中八九ヘレンディア修道院の出身だ。大陸有数の鍛冶大国であるアダマンガラスは、戦いの舞台そのものとも言える。
その舞台とは戦いで傷をつくり合う場所であり、そういった文化が発達すると同時に、それを治療するための医療も必然的に発達したのだ。その医療の先端を走るのがヘレンディア修道院だった。
また、剣士は聖剣武大会での優勝経験があればそれだけで名前が知られるが、医者にはそのようなわかりやすい力の示し方が存在しない。そのため医者としての技術と力を認められた人間には赤い修道服が渡される。それが彼女だった。
「久しぶり~。フィーネちゃん。体の具合どう?」
クレアは物凄くフランクにフィーネに接してくる。まるで少年のような話し方だが、フィーネはこの馴れ馴れしさが嫌いではなかった。
「すこぶる良いです。完治して以来、痛みが再発することもなく、今は健康そのものです」
「なぁ~んだ、それは残念だなぁ……」
クレアは冗談でもなんでもなく、本当に残念そうに唇を歪めた。
「まったくもう! ドラゴンがやってくるっていうから、どれくらい針が握れるか楽しみにしていたのに……!」
「クレア様……そのようなことを残念に思わないでください……」
フィーネは、淡々とそう言った。
クレアは医者という立場ではあるが、傷口を縫う作業、すなわち縫合に対して妙な執着を持っていた。本人曰く、「腕が鈍るから」らしいのだが、明らかにそれ以外の理由が混じっている……気がする。
もちろん縫合自体は剣の国であるこのアダマンガラスでは重宝される技術だ。優れた技術があれば、患者の痛みを最小限にしながら適切な治療が行える。しかし、それを自ら望むのは違うのではないかとフィーネは思うのだ。
「だってね~。怪我人が来たと思ったら、兵士が何人かで、しかも全員軽傷ですんでいるか、死んでるかのどっちかなんだよ? 軽傷ってもいつもの訓練と同じ程度の怪我なんだから、がっかりくるってもんさ。そこのボーヤだって……」
クレアは自らボーヤと呼んだ兵士を指差した。
「ほとんど後ろで見ていて、怪我らしい怪我はほとんどないってんだからさ。わざわざ医療棟まで来るんじゃないっての!」
「アッハハハハ……。面目ないです」
兵士はポリポリと頭を掻きながら、頭を下げる。フィーネはその兵士に見覚えがあった。
「ゼイル様?」
「あれ? 君は確か……リーナ姫様の……」
ベッドの上で情けない顔で頭を下げていたのは、今朝方リーナと稽古をしたゼイル・ネルトスだった。
「知り合い?」
「はい、昨日このアダマンガラス城で働くことになった、ゼイル・ネルトス様で、リーナ様に対して恋ごこ……」
「うわ~待った! フィーネさんそんなことを話すのはやめてくれぇ!」
ゼイルは肯定も否定もしない微妙な言い回しでフィーネを静止した。
「え? ですが、今朝方ご自身でおっしゃられてましたよね?」
フィーネは無垢という言葉が似合う表情でゼイルに問う。
「他の人に堂々と言ってもいいことじゃないでしょう!」
「そういうものなの……でしょうか?」
よくわからない。と言った感じでフィーネは言った。
「申し訳ありません。男性の気持ちの機微は、私には理解しかねる部分が多分にありますので……」
それはフィーネが常にリーナのことを考えているが故のことなのだろう。フィーネが男性と話をする機会など、グレイスやギルバルト王ぐらいのものだ。それ以外に話をする人物は使用人やリーナ含めほとんど女性ばかりなのだから男性の気持ちがわからなくても別に不思議でもなんでもない。
フィーネとゼイルのやり取りが収まる一瞬の隙に、クレアが言葉を挟んだ。
「込み入った話があるのなら、私は席を外すけど?」
「いえいえ、クレア様は何も気にすることはございません。リーナ様の恋路は、私が責任をもって見届けますので……」
「いや、だからそんなんじゃないって!」
「アッハハハハハ」
クレアは屈託なくカラカラと笑う。ひとしきり笑ってから、穏やかな笑顔を浮かべた。
「フィーネちゃん、本当に元気になったね」
「クレア様?」
「君が初めてここに来たとき、私は君を殺す覚悟をしなければならなかった。例え殺すには至らなくても、凄まじい苦しみを結果的に与えることになってしまった」
クレアの目は懐かしむような遠い瞳をしていた。
「フィーネちゃん。今更こんなこというのは変かも知れないけど、私のこと……恨んでないかい?」
「私がクレア様のことをですか?」
クレアは静かに頷く。その顔は真顔だった。それに対し、フィーネは笑顔で接した。
「とんでもありません」
そして首を左右にゆっくりと振る。
「クレア様のおかげで、今の私があるのです。感謝こそすれ、恨みなどありません」
「そっか、よかった」
クレアの表情は緊張が解けたように笑顔になった。
「ところで、今日はこっちに何の用なんだい? 私に健康体を見せに来たわけではないんだろ?」
「あ、そうでした。もちろん、目的があってきたのです」
フィーネは当初の目的を思いだし、ゼイルのベッドの前に立つ。
「ゼイル様。少し、お話を伺いたいのですが?」
「それは、リーナ姫様とドラゴンに関することですことか?」
「お察しが良くて助かります」
「なんとなく、ね。そういう君は、今までどうしていたんだい?」
「リーナ様が戦っている頃、私は地下牢に幽閉されていました。リーナ様と入れ替わった状態でですが」
「なるほど、そういうことか」
「何が、そういうことなのですか?」
「リーナ姫様は、君に扮してグレイス様を欺いていたってことさ」
「そうでもしなければ、リーナ様はドラゴンと相対することはできなかったでしょうから」
そこまで聞いて、グレイスの口角が釣り上がる。
「……凄いね」
「? 何がですか?」
フィーネの頭に疑問符を浮かべながら問いかけた。しかし、その言葉が純粋であるからこそ、ゼイルはフィーネを凄いと称したのだろう。
「だって君は、地下牢に幽閉されることを承諾したってことだろう? 普通だったら、自分以外のためにそこまでできないよ」
「私は、リーナ様が幸せになっていただけるなら、入れ替わりでもなんでもします」
「その結果、国王陛下からどのような処罰を受けることになってもかい?」
フィーネは力強く頷いた。
「それこそが、私にできるリーナ様への恩返し」
「恩返し?」
フィーネは首を横に振る。
「忘れてください。それより、私から質問したいことがあるのですが、」
ゼイルは何かを言いたそうだったが、とりあえずはフィーネの質問に答えることにした。
「何を聞きたいんだい? 言っておくけど、あまり期待に添えられないかもしれないよ?」
「構いません。では問います。リーナ様は今どこにおられるのですか」
ゼイルはしばし沈黙した。どう伝えるべきなのか、迷っているようだった。
「それについては答えられない」
「? どういうことですか?」
自然と声に怒気がこもる。しかし、ゼイルは真顔を崩さない。
「それについては純粋に知らないから、としか言いようがない」
「しかし、リーナ様がドラゴンと一戦交えたのならば、その後のリーナ様の行動もご存じのはず」
そこでゼイルは首を横に振る。
「それなんだけど、リーナ姫様は戦いを終えると同時に気を失われたんだ」
「気絶されたということですか?」
「ああ、その直前まで、リーナ姫様は鬼神の如き戦いを僕達に見せつけてくれた」
ゼイルはリーナがどのような経緯でドラゴンを倒したのかをフィーネに説明した。
最初こそリーナの優勢に見えたが、瞬時に状況を覆され追い詰められたこと。そこからなぜか傷を大きく回復して立ち上がり、一方的にドラゴンを倒したことなど。
「姫様が気絶なされた直後、グレイス様は人払いをしたんだ」
「人払い? グレイス様は、一体何を?」
「おそらく、グレイス様が信頼できる人間に姫様を運ばせたんだと思う」
「兵士の皆さんでは、口を割ってしまうと判断された……ということですか?」
グレイスは苦笑いを浮かべた。
「悔しいけどね」
グレイスはギルバルト王から、直接教育を施された人間だ。リーナが生まれる前までは彼に王位を継がせることも考えられていたという。そんな立場の人間だ。
誰を信用し、誰を信用しないかに注意を払うのはある意味当然のことだったのかもしれない。
「そうですか……」
信用されない。フィーネにとってそれはもっとも辛いことだった。
もし自分の主たるリーナが自分のことを信用できない、などと言い出したら、きっと胸が締め付けられるような思いで一杯になってしまうだろう。
「ところで、僕も聞きたいことがあるんだけどいいかい?」
「ゼイル様が私にですか?」
コクンと頷くゼイル。フィーネはどんな質問が飛んでくるのかと身構えた。
「ただの興味本位でしかないんだけど、フィーネさんは、なぜそこまで姫様のために行動できるんだ?」
「?」
フィーネはゼイルが何を言っているのかわからなかった。なぜそんなことを聞くんだ? と目で語っている。しばし逡巡してから、一つずつ言葉をつなぐ。
「え~っと、リーナ様が私の主だから……ですね」
さも当然といった言い方だ。同時に、ゼイルの問に対する答えとして適切であるかどうかわからないがために、自信なさげな言い方でもある。
「あ~いや、そういう意味じゃなくてさ」
「? それでは、どう言う意味なのですか?」
「そうだね、言い方を変えよう。君自身が姫様に対してそれだけの忠誠を尽くすのはどうしてなのか? っていう意味さ。確かに僕達兵士もここに仕えるメイド達も、使用人として働いているが、君はそういう立場を超えて、姫様と接しているように見えるからね」
「なるほど、そういうことですか」
フィーネはまたも考える。
「そうですね。ゼイル様には先ほど質問に答えていただきましたし、たまには昔話をするのも悪くないかもしれませんね」
ゼイルのとなりのベッドに腰掛ける。そして、フィーネは淡々と語り始めた。
「私は、元々王宮に仕えるメイドなんかじゃありませんでした。この王都に生まれた、本来ならどこにでもいる町娘の一人に過ぎなかったんです」
「本来なら?」
「はい、本来ならです。ですが、私は違いました。私は生まれつき体に異常があったんです」
そういうと、フィーネは立ち上がり、ゼイルに背を向けた。同時にエプロンを脱ぎ、メイド服のボタンを外し始める。そして自らの背中をゼイルに見せた。
「その異常というのがこれです」
言われ、ゼイルはフィーネの背中を見た。
「うわっ……」
思わずゼイルがそう声を漏らす。フィーネの背中はピンク色だった。それも臓物を彷彿とさせる、赤に近いピンク色。本来なら肌色であるはずの背中全体がそんな色になっている。フィーネがその直後に口にした単語は、意外なものだった。
「今でこそ普通に活動することができますが、私が生まれた当初、ここに大きなほくろがあったんですよ」
「ほ、ほくろ!?」
「はい、ほくろです。人間なら誰でもどこかしらに持っている、あの黒いほくろです。物心ついた頃からどんどん大きくなっていって、仰向けにねることすらできなかったくらいです。仰向けに寝たら、ほくろを下敷きにしてしまう形になり、痛かったので」
そこまで言ってから、フィーネは肌を隠し、メイド服を着なおす。
「私の父と母は、私の背中を普通の子供と同じような背中になるよう治療の糸口を探してアダマンガラス中を駆け巡っていました。だから、必然的に私は一人家で過ごすことが多かったのです」
「そうなんだ。でもいいお父さんとお母さんだったんだね。娘の背中を治すために駆けずり回ってくれてたんだから」
フィーネの表情が曇った。そしてゆっくりと顔を横に振った。
「私のためっていうことはなかったと思います」
「どういうことだい?」
「ゼイル様。よく考えてみてください。日に日に肥大するほくろ、そんな娘を持った両親の気持ちを」
言われてゼイルは顎に手を当てて思考し始める。その最中、フィーネはさらに言葉を紡いだ。
「私は当時の両親の家で寝そべっていただけでしたが、外からはよく聞こえてたんですよ。私の背中を呪いだとか、気色悪いとかいう声が。きっと私の両親も、そういうそしりを周りから受けていたんでしょうね」
『ねぇねぇ知ってる? ここの家の子がずっと外に出てこない秘密」
『え~? 何それ?』
『背中に悪魔が取り付いてるんだって。怖いよねぇ。この家に近づいたら呪われるんじゃないかしら』
フィーネは思い出す。
自分が幼い頃、窓越しに外から聞こえていた、悪意ある子供たちの声を。
無邪気故の残酷さというものを……。
「ひどいな……」
ゼイルは顔をしかめた。フィーネはゼイルのセリフを聞いていなかったかのように続ける。
「私の両親は、私の背中を治したかったのだとは思いますけど、それは私のことを案じてのことではなくて、そういう風評をなくすためだったんです。呪いの子だとか、気色悪いといった風評を。だから、私の両親は望んだのです。私の背中を普通の子と同じような肌色の背中にすることを」
「肌色の背中? だけど、今見せてくれた背中は……」
「はい、ピンク色でしたね。元々無理な話だったのですよ。普通の子と同じ背中に戻すのなんて。だって、元の肌自体がほくろなのですから。私の両親はそのことを知り心底絶望したのです。元に戻せないこと、例え医術で取り除いても、あんな風に痕が残ってしまう。それでは周りから気味悪がられる事実は変わりがない。だから、私の両親は次第に私のことを無視し始めるようになりました。死なない程度に最低限の食事は与えられても、会話はなく冷め切った時間だけが流れる毎日でした」
フィーネは軽くため息をついた。
「君は……どう思っていたんだい?」
「そう、ですね。とても悲しかったことと、友達が欲しい……と願っていたことだけは覚えています。物心ついた頃からベッドの上でしたから。気軽に話ができる友達が欲しいって、毎日思ってましたね。そんな折に、出会ったんです。リーナ様に」
フィーネの表情に笑顔が宿る。思い出への懐かしさ、主への思い、その両方が彼女の表情から見て取れた。
「当時どんどん重くなってくるほくろは、重さと同時に痛みも生んでいました。だから痛い痛いとずっと声を出し続けていたのです。その声を聞いたリーナ様が、窓から突然現れたんです」
「それが姫様と、君との出会い」
フィーネは軽く肩をすくめた。
「はい、そうです。今だって、昨日のことのように思い出せる。リーナ様は私が痛い痛いと声をあげて苦しんでいる声を聞いて、木を伝って私の部屋にやってきたんです。それから、毎日私の部屋にやってきて、私の背中に薬を塗ってくれるようになったんです」
「毎日王宮を抜け出して、会いに来てくれたっていうことかい?」
「抜け出していたのかはわかりませんが、きっとそうなんでしょうね。私も、なんで毎日会いに来てくれるのか、当時はわかりませんでした」
フィーネはベッドから立ち上がる。ゼイルに背を向けて、窓ガラスの前まで歩く。
「今はわかるのかい?」
背を向けたまま「はい」と頷きで返す。
「リーナ様も私と同じように、友達と呼べる人はいませんでしたから」
フィーネはガラスに映る自分の笑顔を見た。
リーナは王族であるが故に、同年代の友達と呼べる人間がいなかった。さらに、特殊な色の瞳であることが災いして、使用人の間でも腫れ物扱いされていたため、孤独だったのだ。
「夢のような時間でした。リーナ様は、私と友達になろうって、言ってくれたんです。それがたまらなく嬉しかった。背中は痛かったけど、リーナ様とおしゃべりしているだけで、痛みを忘れることができた。たまにリーナ様が自分で作ったっていうお菓子を持ってきてくれるのも嬉しかった」
フィーネは嬉々としてリーナとの思い出を振り返る。ゼイルはそれを黙って聞いていた。
「本当に、幸せな時間だったんだね」
「はい。ですが……両親とは会話がなくなっていく一方でした。私はリーナ様とおしゃべりし、両親とは口を聞かなくなっていったんです。そんな生活が一ヶ月くらい続いた頃でしょうか。リーナ様が聖剣武大会に出場するために、一時的にアダマンガラスを離れることになったんです。その間に、私の両、親は……」
そこで、フィーネの言葉が途切れる。
フィーネの表情は苦悶に歪んでいた。両手の平を胸の前で握りしめる。
その直後、不意にフィーネの瞳から涙が溢れでた。
「フィ、フィーネさん!?」
「ああ、すみません……」
静かにポケットからハンカチを取り出して涙を拭い、フィーネは続ける。
「私の両親は……私を家に置き去りにして去っていってしまったんです」
ゼイルは目を見張った。
「そ、そんなことを、僕に話していいんですか?」
「え?」
フィーネはキョトンとした。なぜそんなことを聞くのかと、目で問いかける。
「別に構いませんよ。もう、終わったことですから……」
――私自身、まだトラウマになっているということ?
自問する。もう、終わったこと。自分は本当にそれで納得しているのだろうか?
「とんでもない両親だと思いますか?」
くるりと、フィーネがゼイルに向き直る。悲惨な話をしているというのに、フィーネは笑顔のままだった。逆にゼイルの方が苛立ちにも似た感情をにじませている。
「出て行くときは、出かけるとだけ告げていったのですけどね」
再び、フィーネはゼイルに背を向けて外に視線を向けた。
「三日くらい経って、始めて自分が捨てられたんだ、と実感しました。我ながら鈍かったんでしょうね。流石に目の前が真っ暗になりました。どうしていいのか分からなかったし、背中の痛みが安らぐこともなかった。苦しくて、辛かったから雨の日だというのに、外に飛び出したんです」
「外に飛び出して、何をするつもりだったんだい?」
「今となってはよく覚えてません。でも、きっと助けて欲しかったんだと思います。背中の痛みと、孤独から……」
外の降雨は激しさを増しているようだった。雨粒は大地も草木も、どこにでも転がっている石ころにも容赦なく叩きつけられていく。
そういったものたちに、フィーネはなんとなく自分を重ねていた。
「そう、こんな雨の日でした。お店だって閉じているところばかりで、王都でさえ人通りが少なかった。私は、まるで亀のようにこんな雨の中を体を縮めて歩いていたんです。すぐに限界が来て、倒れちゃいましたけど。そして、倒れた私を介抱してくれたのは、リーナ様でした」
「その時に、聖剣武大会を終えて、姫様も王都に戻ってきたんだね」
コクリとフィーネが頷く。
「私の家に行っても誰もいないから、王都中を走り回ったそうですよ。リーナ様は誰もいない私の家を見て、胸騒ぎがしたのだそうです。ほとんど動けなくなった私をつれて、このお城に戻りました。そして、この医療棟で……」
フィーネはクレアを見る。
「クレア様に、背中のホクロを切り取って頂いたのです」
「切り取るって……」
ゼイルの表情が青くなる。フィーネの背中を見た今となっては、その病巣の大きさなど想像がつかない。薬草による麻酔を使っても、それが麻酔として機能しないのではないかというぐらい深かったのではないかと勘ぐってしまう。
――まあ、そういう反応になりますよね……。
それはフィーネにとって嫌な思い出でもあり、愛おしい思い出でもある。
リーナはフィーネの背中を、すぐにクレアに見せた。
クレアはあまりにも巨大な黒い塊が幼いフィーネに覆い被さっている状況に酷く戦慄しているようだった。
そして恐る恐るクレアは告げたのだ。フィーネの背中のほくろを切り取ると。
自分の体に刃物を入れられる。幼い少女にとって、それは恐ろしいことだった。
手術は大量の薬草で麻酔をかけた上で行われた。声がでないように、口に布を詰められたりもした。それでも痛みはあった。そしてその痛みが発生するごとにフィーネは泣き叫びたい衝動に駆られた。
「でも、どれだけ痛くても、リーナ様の声が聞こえていたから……」
『フィーネ! 頑張って! あたしが側にいるから。これが終わったら、一緒に暮らそ! あたしがお父様に言って、ここで暮らせるようにお願いするから! だから、だから負けないで!』
「私は、痛みに耐えられた」
痛いのは嫌だけど、リーナの声だけは愛おしい。だから、フィーネは、そのとき自分を襲った痛みを忌み嫌うことなどできない。
「それからですね。リーナ様がお父様……ギルバルト国王陛下に懇願して、私を使用人としてここに迎え入れてくれたのは。リーナ様と行動を共にするようになったのも、それからです」
「……」
ゼイルは言葉を失っていた。どう声をかけていいかわからないといった体で、フィーネを見ている。
「私のお話は、ここまでですね」
フィーネは一旦会話を切る。ゼイルはどう声をかけていいのかわからないのか、無言のままだった。
そんな無言が数秒続き、ゼイルは言葉を絞り出した。
「フィーネさん……その話は、僕が聞いて良かったのかい?」
恐る恐る問いかけてくるゼイルに、フィーネは微笑みかけた。
「ゼイル様。このお話は私がしたくてしただけです。別に私の心の奥底にしまっておくような記憶ではありませんし、誰かに知られて困るお話ではありません」
それに、と前置きしてから、フィーネはさらに続ける。
「たまには吐き出したかったのですよ。子供の頃の鬱憤を。ゼイル様は私の話を遮らず、最後まで聞いてくださいました。だから……」
ぺこりと、フィーネはゼイルに頭を下げた。
「ありがとうございます」
一瞬、ゼイルの目が点になった。
「頭を下げられるようなことは、していないよ? 僕は」
「そんなことはありません。女性のお話を最後まで聞けるのは、立派なスキルですよ」
褒められて照れているのか、ゼイルは頬をポリポリと掻いた。
「フィーネさんは、本当にリーナ様のことが好きなんだな」
「はい。リーナ様は私のために行動し、祈り、常に側にいてくれた唯一の人。あの人がいなければ、私は雨に打たれて衰弱死するのを、待つことしかできなかったでしょう。だから私の人生は、あの人に捧げるんです。身も心も人生も、全てはリーナ様のために……」
「参ったな、僕が入り込める余地がないや」
「いいえ」
フィーネは首を横に振る。
「ゼイル様がリーナ様に相応しい方なら、私は喜んで恋の天使になりますよ」
「そうなれるように、せいぜい頑張るよ」
「はい」
スカートをつまみ、軽く会釈する。それは、ゼイルへの敬意の表れ。
「そうなるよう、お願いいたします」
お互い笑顔になり、軽く笑いあった。
そんな様子を見ていたクレアもどこかうれしそうだった。
フィーネは懐から懐中時計を取り出して時間を見る。
「もう、こんな時間ですか。長居してしまいましたね」
言い終わると同時に声が聞こえた。
「フィーネ・アルリット!」
フィーネの肩が一瞬ビクッっと震える。同時に懐中時計から医療棟の入り口に視線を走らせた。
「! メ、メイド長」
そう、そこにいたのは女性使用人、即ちメイドの長たる存在、メイド長だった。
眼鏡をかけた細身の女性で、鋭い目付きをしている。指先で眼鏡のフレームを何度も持ち上げている。教育にうるさそうな母親を彷彿とさせる人物だった。
フィーネはこのメイド長という人物が苦手だった。
何かあればその度に小言が口から飛び出る上に、説教も厳しい。その小言が苦手で、メイド長そのものも苦手に感じてしまっているのだ
「まったく、あなたと言う人は……」
メイド長は軽くため息をついた。同時に額に軽く手の甲を当てる。
「流石に今回のような行動は予想外でした」
メイド長はやや大げさに呆れたと言わんばかりの仕草をした。
フィーネは普段からリーナと共に行動している。専属メイドだから当たり前といえば当たり前だが、フィーネの場合それが度を越している。メイドとしての領分をはみ出していると叱責されるほどだった。
メイド長のいう予想外の行動とは、その中でも特に度を越していたということなのだろう。
「本来ならこってり叱って差し上げるところですが……今回は例外です。フィーネ。国王陛下があなたに直接お話があるそうですから」
「陛下が……私に?」
「どういう理由であなたが呼ばれているのか、わからないとは言わせませんよ」
言われ、フィーネは無言になる。確かに覚えがある。というよりはっきりわかっている。
「今すぐ謁見の間に行きなさい。私の小言はその後にでもきいてもらいましょう」
「畏まりました」
そう答え、フィーネは背を向けた。
「それではお二人ともごきげんよう 」
そして最後に、それだけで言い残して、メイド長ともども医療棟から退出した。
クレアとゼイルは取り残される形になった。
「なぁ、ボーヤ」
「はい?」
ゼイルはベッドの上でクレアを見る。
「フィーネちゃんとお姫様。あんたが支えてやんな」
「ボクが、ですか?」
「ああ、そうさ。あの二人はお互いに依存しあってる。だけど、二人とも女の子だ。女ってのはね、男より現実的な分、悲観的になりやすいのさ。そういう時、そばで支えてやれる男が一人でもいれば、絶望的な状況に立たされても立ち上がれる」
「で、ですが、なぜボクなんですか?」
「だってあんた、あの二人に気に入られてるみたいだったからさ。国王陛下も兄上様も、あの子達を支える身近な男じゃないからね。だからさ……がんばれよ、色男」
ゼイルは照れながらも、小さく頷いた。