邂逅 鎧竜《アーマード・ドラゴン》
ドラゴンの襲来という以上事態。その状況下で混乱する城内の自室に、アルト・ギルバルトがいた。ロングストレートの髪の毛は寝癖が立ったままであり、起きてからまともに手入れしていないのがわかる。着替えもしておらず、白い下着のような薄手の寝巻き姿だった。
彼女にはリーナのような戦闘能力はない。グレイスのように部隊を指揮するだけの力もない。
彼女らの父である、ギルバルト王は三人にそれぞれ別々の教育を施した。リーナが剣を、グレイスが部隊を動かす指揮能力を。そしてアルトに施された教育は外交だった。
アダマンガラスの外と、手紙を使い、使者を送リ、多くの人々と交流し、国を動かす力とする。それが彼女の仕事であり、能力だ。
彼女は紹介状を書いていた。リーナやグレイス、そして自分のために働いてくれた人達全員が、今起きている騒動でこの城にいられなくなってしまうかもしれない。
彼らに給料を払えなくなり、この城で雇用を継続できなくなってしまうこともあるかもしれない。そうなってしまったときの受け皿を用意するために。
アダマンガラスという国は、複数の貴族達の領地を統一した国だ。彼女達が住んでいるのはその中央の首都であり、その外側には別の貴族達がの領地がある。彼女は彼ら貴族達と交流を重ね、意見を交わし、国の政治の方針や貴族達の意見をまとめる役割を持っている。
紹介状の内容自体はすでに書き終えている。リーナが生まれた時から、こういうことが起こることは予想できていたからだ。ただ、受け入れ先については各々の貴族の領地で変化する場合があるので、ギリギリまで書いてはいなかった。つまり、この紹介状は、現状彼女が紹介しても効力のある場所に当てられて書いているのだ。
羽ペンを走らせるその姿はとても優雅に見える。しかし表情は真剣そのもので、額には汗が浮かんでいる。朝起きてからずっと書き続けているのだ。
「ふう……」
何十通目かの紹介状に名前を入れ終わった頃、アルトは軽くため息をついた。
できれば、この紹介状だけは書きたくなかった。しかし、現実は残酷だ。時間は容赦なく経過していき、握りしめても止まってくれない。彼女が望むのは平和だった。可能であれば、血生臭い戦いのことなど考えたくない。家族全員が幸せに生きられればいいのに。そう考えない日はなかった。
外を見る。黒雲が空を覆っており、太陽は見えない。
両手を胸の前で両手を組む。今アルトにできることは紹介状を書く事を除けば、一つだけ。
「リーナ……死なないで……」
ただ祈ることだけだった。
屋上は風が吹きすさんでいた。
普段は広いだけのこの場所は年に一回、各地方の精鋭が集う聖剣武大会を催すコロシアムとしての機能を備えている。
各地方での聖剣武大会で優秀な成績を収めた者達が集い、この国で最も強い剣士を決める舞台。それがこの天空コロシアムだった。観客席の数も他のコロシアムより数倍の数がある。
そのとてつもなく広い屋上の中心にそれはいた。
鎧竜。黒光りする鉛色の皮膚と、鋭角的なフォルムを持つ禍々しいドラゴンだ。やや生物感のないその姿形は、どことなく無機的な雰囲気をまとっており、それ故に不気味だった。
鎧竜は動かない。静かにこちらを見据えている。リーナとグレイスの存在に気づいているのかいないのかすら定かではない。それ故に、チャンスは今しかないように思えた。
「どうするつもりですか?」
「黙って見ていろ」
グレイスは静かに言って、右手を高らかに振り上げた。
その瞬間、観客席から大砲が出てきた。隠し扉のように何もない壁が回転し、その中から砲身が出てきたのだ。それら無数の大砲が、中心にいる鎧竜をぐるりと囲っている。それらが火を吹けば、鎧竜に逃げ場はない。
「こ、これは……!」
この舞台で行われる聖剣武大会は、もちろんリーナも参加したことがある。そして当然のように優勝し続けてきた。プライベートで利用したことはないものの、リーナには見知った屋上であり、見知った闘技場の一つでもあったのだ。
その戦いの舞台から、これだけの大砲が現れたのだ。驚くのも無理のない話だ。
グレイス様、これは……。そうリーナが聞こうとした時だった。
グレイスの高々と掲げられた右手が振り下ろされた。
次の瞬間、無数の大砲が順次発射された。爆音が轟き、砲声が鼓膜をノックする。
「うっ……」
あまりの音にリーナは耳を塞ぎ、目を閉じた。自分が来ている服を貫通して、震える大気が体全体に押し付けられているような気がした。しっかり踏ん張っていなければ吹き飛ばされてしまうような気がした。
砲声はすぐに収まった。大気の乱れも収まってくる。風の音が聞こえるくらいまで静かになってから、リーナはゆっくり目を開き、耳に当てていた手を放した。
大砲は人類が持ち得る破壊の兵器。その象徴たる存在だ。大砲で狙われれば、人間にはなす術はない。人間に直撃すれば骨は折れ、肉がえぐり飛び、即死させることも可能だ。人間が何年もかけて築き上げた城壁、城塞をいともたやすく破壊することもできる。
そして何より、狙われた人間に心理的ダメージを与え、気力を削ぎ落とすにも十分な役割を発揮する。
つまり大砲とは、物理的にも心理的にも優位に立てる武器であり、中遠距離での戦いを制する上で最強の兵器なのだ。それが四方八方から取り囲み、発射された。容赦がないにも程がある。
――ウソでしょ……。
リーナは愕然とした。
――これじゃ……あたしの出番なんて……ないんじゃ……。
いかに巨体であろうとも、大砲での一斉射撃だ。生物である以上、無傷でいるとは考えづらい。そもそも生きているかどうか自体疑問だ。
闘技場の中央から黒煙が立ち上り、静寂が支配する。
黒煙は風で散っていく。その最中、再びリーナは絶句した。それは恐らく、グレイス含む兵士達も例外ではなかったに違いない。
よく見ると飛び散った肉など存在しない。
よく見ると血しぶきがない。
ドラゴンが傷を負ったであろう飛散物がなにもない。
そう、黒煙しか存在しないのだ。あれだけの砲撃を行って、その爆心地にあるのは黒煙のみ。
「どうやら……敵は我々の予想以上に強大であるようだな……」
グレイスは苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
黒煙が消え去る。爆心地には無傷の鎧竜が姿を現した。
赤い眼光がこちらを見据えている。大きく開かれ展開された翼はドラゴンの全身を覆いその身を守っていたようだ。
『ゴォォォォォォ……』
鎧竜の翼が徐々に閉じられていく。次の瞬間、鎧竜は吠えた。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
リーナは再び耳を塞ぐ。グレイスはその遠吠えを無視するかのように、今度は左手を振り上げた。次の瞬間、大砲とはまた別の武器が瞬時に用意された。大砲の真横に固定されたそれは、おそらくはボウガンの類。それを兵士達が一斉に構えたのだ。
グレイスは瞬時に左手を振り下ろす。すると、今度は無数のボウガンが発射された。ボウガンで発射されたのは、鎖付きの大槍だった。人間が扱うための槍ではない、最初から発射することが前提の槍だ。
槍の尾には鎖が取り付けられていて、ボウガンと繋がっている。
それらが一斉に放たれた。しかし、放たれた槍は鎧竜本体を狙ってはいなかった。むしろ、その周囲。意図的に狙いを外して鎧竜の周囲に向かっていた。その直後、再び爆音が鳴り響いた。
その音はボウガンで発射された無数の槍に取り付けられた火薬だった。爆発そのものは小さなものだったが、それだけで十分だった。槍はドラゴンを中心にぐるりと旋回し、取り付けられた鎖がドラゴンの体に巻き付き始めた。
無数の鎖が鎧竜の体に巻き付いていき、一瞬でその動きを封じ込めてしまった。
『ゴオオオオオオオオオオ!!』
二本足で立っていたドラゴンは足をすくわれバランスを崩した。そして、ズシンと音を立てて倒れる。
その隙を逃すまいと、グレイスが指示を飛ばした。
「今だ! 奴が立ち上がる前に、目を破壊しろ!」
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』
兵士達が一斉に鎧竜に向かっていく。確かに目を破壊すれば、大きなアドバンテージだ。
ここまでは完全にグレイスの作戦通りなのだろう。大砲、ボウガン、特殊な槍。全てがこの日のために用意されたとしか思えない周到さだ。
否、そうなのだろう。恐らくはこの闘技場さえドラゴンを迎え撃つために存在するのかもしれない。
「ハァ……」
リーナは軽くため息をついた。
――こんなに簡単に……終わってしまうのね……。
ドラゴンを打倒する。それがリーナの目的だった。彼女自身がドラゴンを排除すれば、自分がこの国に災いをもたらす存在ではないと証明させられる。そう思っていた。そのために彼女は体を鍛えぬき、剣術に磨きをかけてきた。
彼女が長年思い描いてきたドラゴン打倒という目的は、彼女の代わりに知略、戦略に長けたグレイスと、彼に従う兵士達の手によって遂行される。彼女自身が望まない形で。
――いや……。
リーナは顔を上げた。グレイスの作戦がドラゴンを退治できたのなら、それを喜ぶべきだと思った。作り笑顔でもいいから笑おう。この国がドラゴンに蹂躙されることなく、事なきを得るならそれに越したことはない。
その時……ほんのわずかばかり、リーナと鎧竜の視線が合った。
兵士達は各々に攻撃を始めようとしていた。ある者は目を、ある者は皮膚を、ある者は関節の隙間から剣を突き刺そうとし、少しでもドラゴンから力を奪うために。
リーナはなぜか、この一瞬だけ絡み合ったドラゴンの視線を見て思った。
ドラゴンは笑っている。
寒気がした。ドラゴンは危機を感じていない。
動きを封じたのではない。あれはただ転んだだけだ。
ドラゴンは動きを封じられてなどいない。
ドラゴンはまだ何もしていない。
何もしていないというのは、力を使っていないということだ。
未知の力をドラゴンはまだ隠し持っている。
リーナは気づいてしまった。
あのドラゴンは遊んでいるだけだと。
兵士達が確実に殺される。今のままでは絶対に……
――マズイマズイマズイマズイ……!!
リーナはグレイスを見た。グレイスの表情はさっきから変わっていない。まだ勝利を確信した表情ではない。だが、リーナが感じているような危機感までは感じていないようだった。
彼女は今の自分の状況を忘れ、思わず叫んだ。
「兄さん! 兵を撤退させて!」
「何!? どういうことだ!?」
その表情には二つの困惑が見て取れた。メイドだと思っていた人間にいきなり兄と呼ばれたことと、そのメイドが突如兵を撤退させろと言い出したことだ。
「早く! 奴は……」
『ガアアアアアアアアアアアアアアア!!』
『!?』
鎧竜の雄叫びが響き渡る。途端、鎧竜の尻尾がうねり始めた。鋭い刃のような尻尾の先端が、今まさに襲いかかろうとしていた兵士の腹部を差し貫いた。
無慈悲に響き渡る鈍い音。骨と肉が裂けた音だ。
兵士達の顔色が青ざめた。同時に隙が生まれた。その隙をついて、鎧竜はもう一人兵士を刺し殺した。地面に血と臓物が滴り落ちる。
そして鎧竜の刃は、地面に立っていた数人の兵士達を瞬時に斬り払った。鎧は紙切れのように切断された上にそのまま胴体を分断する。彼らの体に流れていた赤い迸りが、飛沫となって地面を汚す。分かたれた胴体は物言わぬ肉塊と化した。
「う、ううっ……」
リーナは口を押さえてその場にへたり込んだ。
いくら戦いなれているとはいえ、人の血と臓物を見せ付けられるのは初めてだったから。
「ひ、ひどい……」
涙交じりにリーナは言う。
体が震えて硬直する。胸の奥からこみ上げてくるモノを押さえつけるので精一杯だった。
あまりにもむごたらしい光景に目を逸らしたくなる。
それは兵士達も同じだった。
彼らが見ている光景は、士気高揚していた兵士達を戦慄させるには十分すぎる効果だった。
鎧竜は自身の足に絡みついた鎖を尻尾で切断して立ち上がり、その後力づくで全身に巻きついていた鎖を引きちぎった。
「全員退け!」
グレイスは即座にそう指示した。そうせざるを得なかった。リーナには、グレイスが歯を食いしばっているのがはっきりとわかった。
「ち、畜生……」
「なんて奴だ!」
「あんなの勝てるわけがない!」
蜘蛛の子を散らすように、兵士達はドラゴンから離れる。彼らの目は既に死んでいた。恐怖と怯えが入り混じった目をしている。もう彼らは戦えない。
獣が相手ならば、それでもまだ戦えたことだろう。人間が長年培ってきた知識を総動員すれば、どういう獣がどういう行動をとり、どのような手段を使えば仕留めることができるのかがはっきりしているからだ。
しかし、今目の前にいる存在は未知の存在だ。既知し難い存在を相手にすることほど恐ろしいものはない。
彼らには武器がなかった。
ドラゴンに対する知識という名の武器。
ドラゴンに対抗できるだけの力という名の武器。
そして今、戦意さえもドラゴンから奪われてしまった。
鎧竜はあざ笑うかのように悠然とその場に佇んでいる。鎧竜自身、もう戦う必要がないことがわかっているのだろう。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
リーナは胸を押さえている。視線は下がったままだ。
――あたしは……あんなのを倒さなきゃいけないの?
自問するがその答えはどこからも返ってこない。
「フゥ、フゥ……う、ぐう……」
――立ち上がらなきゃ……。そうよ……。
――覚悟なら、とっくに出来ていたはず……!
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……ん、ンンン……!」
ごくりと生唾を飲み込む
――大丈夫、あたしは……。
リーナは顔を上げる。そして、眼光だけで何者をも射殺しかねない、鎧竜の瞳を見据えた。
――戦える……!
自分に言い聞かせながら、リーナは立ち上がった。
「グレイス様! お逃げを! あんなモノ……我々では手に負えません!」
兵士の一人が言った。だがその言葉に、本当にグレイスを逃がそうという気持ちがあったのかは疑問が残る。本当は自分が逃げたいだけかもしれない。しかし、自分一人で撤退すれば、臆病者の謗りを受けるかもしれない。だから、グレイスに逃げて欲しいと言っているだけかもしれない。この状況ならばそういう思いを抱いてしまうのも致し方ないことだろう。
「グレイス様! ご指示を!」
別の兵士が催促する。勝つ気もしなければ、勝てる気自体しない。あの驚異に立ち向かうという選択肢は、もうない。
「クッ……ここまでなのか?」
グレイスが呟いた時だった。
「あたしが戦います」
凛としたリーナの声が聞こえた。彼女は言うと同時に一歩前に出た。
「なに?」
グレイスは言葉を失った。しかしそれ以上何も言えなかった。それは兵士達も同様だった。自分達がまるで勝てなかったドラゴンに、自ら歩み寄っていく女性の姿。
あまりにも不釣り合いだ。あまりにも無謀だ。
だが、誰も止めようとはしなかった。本来ならここにいる兵士達が、兄であるグレイスが止めるべきなのだ。
彼らは心のどこかで期待してしまったのだろう。そして信じたくて仕方がなくなったのだ。あのドラゴンを、誰に命令されるでもなく、自ら打倒すると宣言した人間の言葉を。
静かになった屋上に響き渡るのは、風の音と彼女の足音だけだった。
高鳴る鼓動はもう誰にも止められない。リーナ自身でさえ。
リーナは歩きながら、自身の前髪を鷲掴みにする。そしてフィーネと入れ替わるために被っていたカツラを放り投げる。
そして、彼女の左目を覆っている眼帯を外した。
目を隠していても見えるドラゴンの姿。今の彼女の左目には、その姿がはっきりと映し出されている。
『ゴオオッ……』
「あんたが……何のためにこんなことしてるのかなんて知らない。あんたの戦う理由なんて興味ない。だけど、あたしは……」
リーナは腰に装備していたロングソードを引き抜き、鎧竜に突きつける。
「お前に負けてなんかやらない!」
その声には気品があった。
その声には気迫があった。
その声には、怯えがなかった。
「あたしの名は、リーナ・ギルバルト! お前を斬る者の名だ!」




