ドラゴンの襲来
前回の話の最後の辺りを少しだけ修正してます。
アダマンガラスは城壁に囲まれた都市だ。飛来する黒い何かは先ほどからずっと都市の上空を旋回していた。まるで何かを探すかのように。その存在はギルバルト王も気づいていた。正確にいうならば、城の周囲を警備していた兵士の報告によって知った。
普段は書斎にて筆を走らせているギルバルト王は報告を聞き、大広間のテラスから外をみている。眼下に広がるのはアダマンガラスの都市で、その遥か向こうには、この城を含め、町全体を取り囲んでいる城壁が見える。
城壁より上に視線を向けると、雲が広がる空が目に映る。そして、普段見るはずのない黒い何かの存在もはっきり見えた。
ギルバルト王はその存在を認め、そして顔を歪ませた。
王の横には彼の養子、グレイスが控えている。
「ついに来たのか……この時が……」
「失礼致します!」
その最中、鎧に身を包んだ伝令兵が慌てた様子で入ってきた。
グレイスとギルバルト王がその伝令兵に視線を向ける。
「ご報告申し上げます!」
伝令兵は姿勢を正して、続ける。
「今し方、飛行物体の正体が判明しました。あの飛行物体の正体は、鎧竜です!」
「……そうか……」
そして――やはりか――と心の中でつぶやく。
リーナとドラゴンが手を結ぶ。またはリーナがドラゴンを使役する。その時がやってきたのだ。
いかなる理由でかはわからない。なぜそのようなことになるのかはわからない。しかし、確実にわかることが一つだけあった。ギルバルト王は決断を迫られているということだ。
リーナを殺すか、ドラゴンを打倒するかのどちらか。はたまた別の選択肢をとるか。
それはグレイスもわかっている。しかし未だにギルバルト王の表情に迷いが見える。
そんなギルバルト王を見かねて、グレイスが声をかけた。
「父上……どうしますか?」
グレイスは真顔でギルバルト王に問うた。
「もし言い伝えが本当なら、アレとリーナが接触したとき……リーナは誰も止めることのできないほどの力を得ることになる。そうなってしまえば……」
「わかっておる……」
ギルバルト王は大きくため息をついた。
「伝令兵!」
「はっ!」
「リーナを拘束し、地下牢に監禁せよ。なんとしても、鎧竜とリーナとの接触は避けるのだ!」
「ハッ!」
伝令兵は即座に退室した。
「よろしいのですか?」
グレイスの言葉には微妙に非難が含まれていた。殺してしまう方が早いと、暗に言っているのだ。
「……私に、娘を殺すことはできん。殺せなければせめて幽閉するしかあるまい」
ギルバルト王はテラスから飛来する鎧竜に目を向ける。
鎧竜と言えば、全身を鉄の様な皮膚で覆ったドラゴンで、翼はいかなる刀剣よりも鋭い切れ味をもつとされたドラゴンだ。
なぜそのようなドラゴンがアダマンガラスにやってくるのか。そのドラゴンが、灰色の瞳を持つ者と接触したとき何が起こるのかはわからない。
できることは、リーナとドラゴンの接触を避けることだけだ。
「グレイスよ……私は情けない父だと思うか?」
「とんでもないです。父上。しかし意外だとは思います。あなたは、もっと強い存在だと思っていたもので……」
「馬鹿を言うな。上に立つ者というのは、表面上強く見せているにすぎん。どんな人間にだって弱みはある。私は、その弱みを受け入れることができていないだけだ。娘という、弱みをな」
「そういう……ものですか?」
「そういうものだ……私は王の器ではなかった……」
うつむき、つぶやく。その背中から、父としての王としての苦悩がにじみ出ていた。
「父上……ドラゴンの打倒。私に任せてはいただけないでしょうか?」
「この城の部隊を、お前が使おうというのか?」
「はい。失礼ながら、父上、あなたはリーナのことばかり気にしておられるように見えます。恐らくはリーナが生まれてから、ずっと心労を抱えておられるのではないですか?」
それは正鵠を射る台詞だった。
リーナは灰色の瞳を持つ娘でありながら実の娘でもある。しかしそれでも血の繋がった我が子だ。その命を奪う決断の苦しみ、それは筆舌につくしがたいものだった。
あの時、もし妻が止めてくれなければ、容赦なくリーナを殺していたかもしれない。だが、リーナが生きていることで、王は幸せを感じたことはなかった。
いや、本来なら幸せを感じるはずだった。しかし、妻の死と世界を滅ぼす悪魔の子である可能性のことを考えるととても幸せなど感じることはできなかった。
未だに、リーナの存在については判断がつかない。彼女が本当に国を滅ぼす悪魔になるのか、それ以外の何かになるのか。
今からでも、リーナを殺すべきではないかと思う。そうすれば、この国は救われるのではないかと思う。しかし、もしそうでなかったならば……。
リーナが産まれて十六年。毎日のようにそんな考えにとらわれていた。答えがでたことはない。それは今もだ。
父親としての自分と国王としての自分が心の中でずっとせめぎ合っているのだ。
「わかった。任せる」
「はい」
「リーナ様? どうかなさいましたか?」
ギルバルト王がテラスで苦悩の様相を呈している頃、リーナとその専属メイドであるフィーネは、廊下でアダマンガラスの上空を旋回する黒い何かを見ていた。
「フィーネ……あれ、何に見える?」
「?」
フィーネが窓の外を見た。その時、一瞬だけフィーネの目が見開かれた。
「鳥……には……」
「見えないわよね……」
「……はい」
フィーネは恐る恐るといった感じでつぶやく。
「何だと想う……? あれ」
リーナが問う。しかし、それは本気でわからないから聞いているのとは違うように見えた。
「……もしかしてあれは……」
「きたのかもしれないわね……あたしが打倒するべきドラゴンが!」
立ち上がり、黒い影を見る。それは何かを探すように、飛び回っている。
「人間が……ドラゴンに勝てるのでしょうか?
「わからない……」
そう口にするリーナの表情に、恐れはなかった。
「でも勝つわ。だってあたしは……そのために今まで戦ってきたんだから!」
リーナは想う。もし、自分が嫌々ながら剣の腕を磨いていたならば、ある程度の実力は備わったとしても、聖剣部大会で優勝し続けることはできなかったことだろう、と。自分が嫌いなもので強くあり続けることはとても困難だ。リーナはそれを知っている。
リーナが勝ち続けてこられたのは、目標があったからだ。いつか自分の目の前にやってくるドラゴンを倒すという目標が!
人間がドラゴンに戦いを挑むなど無謀きわまりない。そんなことはわかっている。
でもだからと言って、逃げるわけにはいかない。逃げることは、リーナのこれまでの人生を否定することになる。
――来なさい……あんたの相手は……あたしだ!
リーナがそう想った時だった。黒い影は先ほどまで、ずっと何かを探すように上空を旋回していた。その動きから迷いが消えた……ように見えた。
「え?」
黒い影が大きくなってくる。すぐにわかった。黒い影がアダマンガラス城に接近してきているのだ。
「こっちに来る!」
「リーナ様! 離れて下さい!」
フィーネがリーナの手を引き、下がる。黒い影は、リーナ達がいるガラス戸の前で進行方向を直角に変え、さらに上空へと飛んでいった。
「うわっ!?」
暴風でガラスが粉々になる。風はそのままリーナとフィーネに直撃し、後方へ吹き飛ばされた。
「いたた……」
「ご無事ですか……? リーナ様?」
「ええ、大丈夫」
リーナはすぐに立ち上がる。
「ん?」
その時、目に違和感を感じた。普段右目しか見えない彼女の視界はかなり狭い。今もそれは変わっていない。それでも左目に強い違和感を感じた。
試しに右目を手の平で覆ってみる。それでも左目は見えないままだ。それでも何かが違う。見えないはずなのに、見えているような気がするのだ。
「何……この感じ……?」
視線をさまよわせる。廊下中を『両目』で見る。
そんなリーナの様子を見て、フィーネが怪訝な表情をした。
「リーナ……様? どうしまし……」
「ちょっと黙って」
「リー……ナ、様?」
フィーネが絶句する。リーナはそれに構わず、キョロキョロとあたりを見回す。
そして、そのまま視線を上に上げたときだった。
「え……?」
見えた。部屋の中という遮蔽物に囲まれた中で、それでもはっきりとそれは見えた。
ドラゴンだ。天井に書き込まれた線画の様な姿で、さっきのドラゴンの姿が見えているのだ。
もちろんそのドラゴンは線画などではない。本物の生きたドラゴンだ。
それがリーナの左目に見えていた。
リーナは試しに右目を手の平で覆って、左目だけで、それを見てみた。
そして、またも驚いた。左目はそのドラゴンの姿だけが映っていた。真っ黒な闇の中でうごめくドラゴンの線画……とでも言うべきか。
「あ、あたしの、目……どうしちゃったの……?」
今まで左目で何かを見たことなんて一度もなかった。初めて左目で見たものがドラゴンということもショックだった。
――ドラゴンの場所が、行動がわかる。それってつまり……。
リーナは今ドラゴンの行動を掌握する術を手に入れたということだ。後は多くの人間の力を借り、ドラゴンを打倒すれば、ドラゴンを従えることさえできるかもしれない。
――これなの? ドラゴンを操る力っていうのは……?
放心しながら、リーナは尻餅をついた。
「リ、リーナ様!?」
フィーネが駆け寄り、リーナの肩に手を添える。
「どうされたのですか? リーナ様?」
――あたしにできること……。あたしがやるべきこと……。
リーナは考えた。ドラゴンの行動の全てを掴める自分にできる、ドラゴン撃退の方法を。
彼女にはこの城の兵士達を上手に動かす力もなければその権限もない。そういった教育はグレイスが受けている。グレイスがリーナ同様ドラゴンの状況を視認する能力を手にすれば、グレイスはただ座りながら指示を出すだけでドラゴンを倒すことができるかもしれない。
だが、そもそもリーナの目に映るものはリーナ自身にしか見えない。リーナに人を動かす話術などないし、ましてや国を滅ぼす存在だと言われている人間の言う言葉など、どこまで信じてもらえるだろうか?
恐らく無理だ。聖剣部大会のようにわかりやすい力の示し方ができるわけでもない。あくまで特殊なモノが見えるというだけだ。それを信用させることなど並大抵のことではない。
だとしたら……。
――なんだ……結局何も変わらないじゃない……!
不敵……とも捉えられる笑みを浮かべる。
「リーナ様……?」
フィーネは不安そうな顔でリーナの顔をのぞき込む。リーナの肩に添えられたフィーネの手は心なしか振るえていた。何が起っているのかわからないからだろう。本心からリーナのことを心配してくれているのが伝わってくる。
「ありがとう。大丈夫よ」
リーナはゆっくりと立ち上がった。
そして、両手で自分の頬をパンッと叩いた。
「ん……!」
頭がシャキッとする。それでショックが完全に消えるわけでもないが、一々ショックを受けて立ち止まってもいられない。
――大丈夫……あたしは戦える!
「よしっ!」
その目には、聖剣部大会で戦っているときのような力強さが宿っていた。
「フィーネ、部屋に戻るわ。あたしに力を貸して!」
フィーネは力強く頷いた。
「はい! なんなりと!」
城内は慌ただしくなっていた。普段は朝食の支度や掃除などで、使用人達が働き回っているが、それとはまったく意味の異なる慌ただしさだ。
ドラゴンにまつわる伝承や神話、おとぎ話はこの大陸では珍しくも何ともない。
しかし、ドラゴンは確実に存在している。ただ、滅多なことでは人の前に姿を現さないだけだ。
普段からドラゴンが人間の前に姿を現さない理由はよくわからない。どこで、どういう風に生息しているのかもよくわかっていない。
逆に人間の前に姿を現す場合は、何かしら災いが起こる。それだけは確かだった。そう言うことが起こる時代と起こらない時代があり、それは古今東西、どこの国に置いても共通している歴史だ。
だからドラゴンは恐れられる。
だからドラゴンは畏怖される。
どこの国の誰もが、ドラゴンなんてこなければいいと想っている。そして、実際に現れた場合、人はどういう行動にでるのか?
無論、逃げる準備だ。
人より圧倒的に強いから。
人より圧倒的に大きいから。
誰もが逃げようとする。少しでも遠ざけるために。
ギルバルト王が真に恐れていたことは、ドラゴンの存在による民衆の亡命。そして、自らの国の歴史に汚点が残ることだった。
伝承にあるように、ドラゴンと人間が手を組み、国を滅ぼすこともあるかもしれない。しかし、国が滅ぶ理由は破壊だけではない。国に対する民衆の不信。それもまた恐れるべきことなのだ。
そんな混乱が広がる城内を、ギルバルト王の命を受けて走る三人の兵士がいた。全員、甲冑に身を包んでおり、腰にはロングソードを提げている。ギルバルト王からの命令。それはリーナを牢獄に一時的に監禁すること。
一時的に、というのはこの騒ぎが収まるまでということだ。
リーナの部屋の前で三人は立ち止まる。兵士のうちの一人が、コンコンとその扉をノックした。
「失礼いたします」
兵士達は返事を待たずして扉を開けた。
部屋の中には二人の人間がいた。アダマンガラス国の王女リーナ・ギルバルトと、彼女の専属メイドであるフィーネだ。
リーナは不躾に入ってきた三人の兵士をにらみつけた。
「失礼を承知で申し上げます。リーナ王女、ギルバルト国王陛下の名の下に、貴方の身柄を拘束、監禁させていただきます!」
「どういうこと? お父様の命令ということ……?」
「はい、理由は我々から口にせずとも、ご存じかと想います」
「……………………」
リーナはしばし沈黙した後「ええ……」とだけ答えた。
「ご理解いただけるのでしたら、今だけは、我らに従っていただけますか? 我らとて、王女たる貴方を拘束するのは胸の痛む行為なのです」
リーナは基本我が強い。自分のことは自分で決めると考えている節があり、周りの意見に流されることを嫌っている。その性格故に、兵士達も困惑させられることが多かった。
「……仕方がない……わね」
「申し訳ありません」
兵士は一礼する。リーナは兵士に挟まれる形で、部屋から退室した。彼女の専属メイドであるフィーネを部屋に残して。
「……ありがとう……フィーネ」
一人リーナの自室に取り残されたフィーネは、なぜか自分の名を呟いた。彼女は部屋の隅にあるリーナの剣を手に取った。帯剣ベルトを腰に巻き付け、ロングソードを腰から提げる。
そして、メイド服を翻して、堂々と部屋からでた。
リーナはこうなることを予想していた。もしこの国にドラゴンが現れることがあったら、国王である父は自分を幽閉させることを選ぶと。
だから、入れ替わった。リーナとフィーネ。服装を交換し、各々カツラをかぶり、自分達以外を騙した。リーナの自由のために。
そのためにはリーナと同じように、常に左目を隠している人間が必要だった。リーナの左目は灰色だ。普通に入れ替わったのでは、瞳の色でばれてしまうからだ。
だからといって、リーナが包帯を左目に巻いたままフィーネと入れ替わったら、普段包帯を巻いているはずのリーナが両目を開けていて、フィーネだけが包帯を左目に巻いていることになってしまう。
そのために、フィーネは普段から左目に眼帯をつけているのだ。服と眼帯を取り替え、カツラをかぶるだけで入れ変わることができるように。
だから今、メイド服を着ている甘栗色の髪の毛の少女はフィーネではなく、リーナ・ギルバルトその人なのだ。
彼女の左目には、未だにドラゴンの姿が映っている。鎧竜はもう空を飛んではいなかった。何かを待っているかのように、立ちすくんでいるようだった。
今この城内で、鎧竜がどこにいるのかを知っているのはリーナただ一人だ。
だから好都合だった。
メイド姿の人間が歩いていても、城内の人間で気を止める者はいない。フィーネと共に働いているメイド達のうちの何人かは話しかけてきた。みんな言うことは同じだ。
『逃げないのか?』という問いかけだ。その度にリーナは、やることがあると言って断った。
リーナは堂々とアダマンガラス城の屋上へと向かった。
その間、リーナは胸の高まりを感じていた。
これから戦う相手は人間ではない。人間よりはるかに大きく、人智を越えた存在であるドラゴンだ。もちろん不安だった。人間とドラゴンが一対一で決闘など、どの国の、どの歴史にも載っていない。リーナは今、前人未踏の領域に女の身で立ち向かおうとしているのだ。
「ハァ……ハァ……」
特別走っているわけでもないのに、動悸が早くなる。心臓の音が、直接聞こえてくるかのようだ。
そうこうしているうちにも、鎧竜が待ちかまえる屋上は近づいてくる。鎧竜は動かない。ただ黙して何かを待っている……ような気がした。
妙な気がした。そこでリーナはあまり考えたくない仮説を立てた。
自分の左目にドラゴンの姿が映っているのと同じように、ドラゴンもまた何かしらの方法で、自分の存在を感じ取っているのではないかと。
確証なんかない。何となくそう想っただけだ。なぜなら、リーナの目に映るドラゴンは、さっきからいくつもの壁を隔てて自分を見ているような気がしたからだ。
「……!」
そこまで考えて、リーナは首をブンブンと横に振った。
――そんなはずはない!
もし仮に、リーナの考えている通りのことが起きているのなら、リーナはドラゴンの思うとおりに動かされているような気がする。もっと言ってしまえば、運命に踊らされていることになる。
それだけは認めたくなかった。
――あたしは、運命なんて信じない!
そうやって思考しながら歩いているうちに、たどりついた。屋上への扉に。
「ハァ……ハァ……」
心臓の鼓動がうるさい。手の汗もすごい。わかっている。自分だって恐怖している。しかし、戦わないわけには行かない。
「そこで何をしている?」
そのときだった。後ろから声が聞こえた。振り向くと、そこにはリーナの兄であるグレイス・ギルバルトがいた。
普段は物静かで、さわやかな笑みを浮かべているが、今はそのような余裕がないらしく、険しい表情をしている。
「屋上には、あのドラゴンが鎮座している。そんなところに何のようだ?」
鋭利な瞳で放たれる淡々としたその台詞は、まるで詰問するような言い方だった。同時に困惑も感じ取れた。目で語っている。
なぜドラゴンがいるであろう場所に向かおうとしているのだと。
「なぜ、ドラゴンが屋上にいるとわかるのです?」
「すでに城壁にいる兵士から報告が入っているからな、お前こそ、なぜここにいるんだ? フィーネ」
――ばれてない……?
グレイスは観察力、洞察力に優れた策略家として育てられた。リーナとフィーネの入れ替わりくらい簡単に見抜かれるのではと思ったのだ。
どうやら今のところ、見抜かれてはいないらしい。
「恐れながら、リーナ様が戦うはずだったドラゴンの姿に、興味を持ちまして……」
なので、リーナはそのままフィーネとして振る舞うことにした。
「興味本位でドラゴンのいる屋上に、一介のメイドを連れて行くわけにはいかない。それに、リーナとドラゴンが戦うことなどあってはならない。それくらいリーナの従者ならわかっているはずだ」
「しかし、ドラゴンがいかなる姿をしているのかわからなければ、いざという時に適切な行動がとれません。興味本位などではありません。これは必要なことなのです」
それはいざというときに、ドラゴンの行動や特徴を知っておくことで、戦いの時や逃走の時に役立てるということだ。
グレイスは逡巡しているようだった。フィーネの忠誠心はグレイスも知っているからだろう。普段はしとやかに振る舞っているが、フィーネはリーナのことになると意地になる。時と場合にもよるが、基本的に『退く』ということがない。そして、フィーネが退かない場合というのは、リーナの命が関わっている時、つまり今なのだ。
グレイスはやがて、諦めたかのように、首を縦に振った。
「わかった。監禁されているとはいえ、あいつも一国の姫君だ。リーナを守るために情報が必要だと考えるのなら、見学くらいは許そう。ところで……その帯剣ベルトはなんだ?」
グレイスは当然の疑問を口にする。一介のメイドと称した人間が、剣を携えているのは、確かに不自然だ。
「リーナ様をお守りするため……自身の命を守るため、では理由になりませんか?」
再びグレイスは腕を組み沈黙する。
「いや、この状況だ。武器はあって困るものではないだろう」
「ありがとうございます」
リーナは深々と頭を下げた。普段フィーネがしているときと、同じように。
「しかし、一体どうなさるのですか? あのドラゴンを相手に、まさかグレイス様が一人で戦う訳ではないのでしょう?」
「当たり前だ。あんなのを相手に一人で戦うなど……ばかげている。正面からやりあったりはしない」
グレイスはそれ以上何も言わなかった。そして、懐から普段は閉められている屋上への扉の鍵を取り出し、鍵を開けた。
リーナはグレイスの横顔を見る。極めて真顔だった。緊張しているのか深く、そして早く呼吸しているのを感じる。
それはリーナも同様だった。胸の奥が熱い。ドラゴンへの畏怖と緊張がない交ぜになっているせいだ。
グレイスは何回か深呼吸を繰り返した末に、屋上への扉を開けた。