朝稽古
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「ん……?」
翌朝。リーナは自室にて目覚めた。
両目を開く。
見慣れた天井が目に入り、住み慣れた自分の部屋が見て取れた。
人一人が生活するには広すぎる部屋。それにしては、彼女の部屋はかなり殺風景だった。王族の娘であるならば、それなりの贅沢ができようものだが、リーナの部屋にあるのは衣装ケースとドレッサー、そして長年、彼女が振るい続けてきたロングソードがあるだけだった。
はっきり言って女の部屋ではない。
――ああ……やっぱり見えない……。
心の中でそうつぶやいた。
薄い下着姿のままで、ドレッサーに備え付けられている鏡の前に行く。
寝癖にまみれた髪の毛はそれでも尚、彼女の美しさを強調している。鍛えられた体は適度に引き締まっていて無駄な脂肪が一切ない。
朝起きて、真っ先に鏡の前にいくのは彼女の日課になっていた。
別に自分のことを美しいと、自惚れるためではない。自分の見える世界の広さを確認するためだ。
彼女の灰色の左目に視力は存在しなかった。右目は母親の遺伝らしく、青く綺麗な瞳で視力も存在しているのだが、左目には視力がなかった。彼女は包帯なんかしなくても、元より右目だけでこの世界を見ているのだ。
だから朝起きたとき彼女は確かめるのだ。自分の見ている世界の広さと、鏡に映った自分の目を。
ひょっとしたら、今自分が見ている世界が夢で、朝起きたら夢から覚めているのでは、という希望を抱いて。
もちろん、そんな都合よく左目が見えたことはない。彼女はいつだって、右目に移った世界しか見えない。自分が普通の人間ではないと実感させられる気分だった。
不意に両手で頬をパンッ、と叩いた。
「よし!」
意識が覚醒する。
物心ついた頃から、彼女は自分の命の価値を問い続けてきた。自分が何のためにこの世に存在しているのかを問い続けてきた。
答えがでたことはない。しかし、言い伝えが本当ならその時は必ずくる。今はその時がくることを信じて、己の生き方を貫くしかない。
寝癖まみれの髪の毛に櫛を入れて、寝癖を整える。そしてクローゼットから、着慣れている白のワンピースを取り出し、身につける。背中の大きく開いたワンピースは白一色で、スカートと肩の部分が若干膨らんでいる。それ以外に飾り気がなく、この上なくシンプルだ。上半身は体のラインを浮き立たせており、スタイルの良さを際だたせている。
それから左目に包帯を巻く。灰色の目に関する言い伝えは、民衆にも広く知られている。元々見えていないのだ。普段活動するとき、彼女は左目を包帯で覆って、人の目に付かないようにしているのだ。
これは父であるギルバルト王の教えでもある。
「これでよしっと……」
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「開いているわ」
「失礼いたします。リーナ様」
ドアノブを捻り、姿を現したのはリーナ専属のメイドであるフィーネ・アルリットだった。
「あ……もう起きられていたのですね」
「ええ、いつもより早く目が覚めちゃってね」
言われて、フィーネは子供のように頬を膨らませた。
「リーナ様が早起きされると、私の仕事がなくなっちゃいます」
フィーネの仕事はリーナの身の回りの世話だ。眠っているリーナを起こしたり、直後に髪の毛をとかしたり、服を用意するといったことだ。
もちろんそれだけが仕事ではないのだが、やはり自分のやるべき仕事がなくなってしまうのは嫌なのだろう。
リーナ自身は、自分でできることだからと、あまりフィーネにそう言ったことをやらせることが少なかった。自分が起きるのが先か、フィーネがやって来るのが先かの違いでしかない。
「いいじゃない別に。髪をとかして、服を着るだけなんだから。それに……」
リーナはベッドに腰掛けて、フィーネに笑いかける。
「あなたには、あたしの話し相手っていう立派な仕事があるじゃない」
リーナにとってフィーネは数少ない親友と呼べる相手だった。だからこそ、リーナはフィーネに、使用人やメイドとしてではなく、あくまで対等な関係を望んでいるのだ。
「そうでしたね。お茶をお持ちしましょうか?」
「まだ朝食まで時間あるものね。お願いするわ」
「はい!」
フィーネもリーナに笑みを浮かべた。
「リーナ様、昨日の聖剣武大会も、お見事でした」
カップに紅茶を注ぎながら、フィーネは言う。
「貴女だけよ、あたしが勝つことを本気で喜んでくれるのは……」
「当たり前ではございませんか! 主人の勝利を喜ばぬメイドはおりません。蝶のように軽やかに舞って闘うお姿には、感服せざるを得ません」
間髪入れずに褒めちぎるフィーネ。嬉しいやら恥ずかしいやらで、ちょっとくすぐったい。
リーナはフィーネが入れてくれた紅茶を手に取る。
「貴女のおかげで、あたしは闘志を失わずにすんでいるわ」
そういうリーナの笑顔はどこか乾いていた。
紅茶を一口含む。ハチミツが混ざった紅茶はほのかな甘みを含んでいる。フィーネの心がこもっているのがわかる。
「リーナ様……やはり、あまり嬉しくはないのですね……」
「そんなことないわよ? 聖剣武大会で勝つこと事態は決して嫌な訳じゃない。ただ……そうねぇ……あたしにとってはさ、聖剣武大会で勝ち続けることは、通過点でしかないっていうか……なんていうか……」
「そうなのですか?」
「うん……そう言えば、あなたにも話してなかったっけ……あたしが戦う理由」
リーナは自分自身がこの国に災いをもたらすであろう存在であることを理解している。そういう伝承が存在することを知っている。それを理解し、剣を振るい初めて以来、ガムシャラに強くなることだけを望んでいた。強くあらねばならないと自分に言い聞かせてきた。
なぜ強くあろうとするのか? そんな疑問を誰かに口にする暇さえ忘れる位に。
「陛下の言いつけを守っているからではないのですか?」
「それもあるわ……でもあたしが戦っている理由はもう一つある」
わずかな間をおいて、リーナは続けた。
「言い伝えによれば、あたしはこの国を滅ぼすらしいわね」
「そんなはずはありません! リーナ様がそのような大それたこと、するはずが……!」
「落ち着いてよ」
フィーネがリーナのことで本気で怒ったり泣いたりしてくれるのは、嬉しいことだ。それだけ、リーナに対する忠誠心があるということだからだ。だが、それは悪い癖でもある。
「言い伝えをそのまま信じるなら、あたしはこれからドラゴンと手を結び、この国を滅ぼすらしい。でも、そんなことしたいと思っていない。だから……」
カップを皿の上に乗せる。
「あたしは証明するのよ。あたしはこの国に災いをもたらす存在ではないってことを。どこにでもいる、普通の子なんだってことを証明するのよ。そしてもし、この国に災いをもたらす何かがやってきたら、その時は……」
リーナは再び紅茶を一口含む。
「あたしがその災いを絶つ存在になる。そのためには、少しでも強くなければならない。だからあたしは戦って、勝ち続けるのよ!」
それは実に熱のこもった演説だった。
「素晴らしい。心構えです」
それが本心であると悟ったのか、フィーネは心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「リーナ様、私からも一つ我が儘を言わせてもらえますか?」
「わがまま……?」
「はい」
リーナは無言でうなずいた。
「どうか、このアダマンガラス国の王位を次いで下さい。私は、リーナ様がこの国を治める未来を見たい。リーナ様なら、きっとどんな災厄でも跳ね返せる。どんな未来をも切り開いていけると思うから……」
「……」
「そして、国王陛下に……いえ、お父様に、認めさせて下さい、リーナ様は一人の人間に過ぎないことを……」
リーナはほんの少しに意地悪な笑みを見せた。
「お願い事が二つになってるみたいだけど~?」
ハッとしてフィーネは顔を赤らめる。そしてものすごい勢いで頭を下げながら続けた。
「も、申し訳ありません、私ってば……」
「冗談よ冗談!」
ベッドに腰掛けていたリーナが立ち上がる。
「あなたにそこまで言われたんじゃ、聞き入れないわけにはいかないわね」
「リーナ……様……?」
リーナは窓の外を見る。晴れてはいない。これから一雨きそうなほどに曇っている。
「フィーネ、ありがとう。あなたには感謝しても、仕切れないわ」
「そんな、とんでもないです。私こそ……」
フィーネとリーナが出会ったのは今からもう六年も前になる。フィーネは捨て子だった。行くところを失ったフィーネは、偶然にもリーナと出会った。
リーナからアルトを通して、アルトからギルバルト王とメイド長の二人を通して、フィーネはアダマンガラス城で使用人として働くことになった。
だから、フィーネにとってリーナは命の恩人ということになる。
「リーナ様に拾っていただかなかったら……どうなっていたことか……」
「昔話はいいわ。あたしは思ったことを言っているだけ……約束するわ。あたしはいつか、この国を統べる」
「リーナ様……!」
「そのためには、お父様に証明しないとね。あたしはこの世界に災いなんかもたらさないって……」
「はい! どんなことがあっても、全力でサポートいたします!」
「うん……お願い」
二人は互いに笑みを浮かべ笑い会った。
リーナはフィーネの入れてくれた紅茶を飲み干し、立ち上がった。
衣装ケースからスケイルアーマーを取り出し、身につける。それから帯剣ベルトを腰に巻き、ロングソードを提げる。
「朝稽古に行ってくるわ」
「かしこまりました。私もお供します」
リーナはフィーネと共に、自室を後にした。
城内ではすでに使用人達が働き始めていた。
朝の掃除を始めているメイドや、朝食の準備に忙しそうに動き回る使用人達の姿が目に付く。
彼らとすれ違いながら、リーナとフィーネは廊下を歩く。
「あ、リーナ様。おはようございます!」
「うん。おはよう」
廊下を歩いていると自然に、そう挨拶される。リーナが王族であることも関係しているのだろう。何より女性の立場でありながら聖剣武大会で幾度となく優勝しているリーナに憧れ、羨望の眼差しで見るメイドも少なくはなかった。
逆にこの城、ないしは王宮内で日々訓練を重ねる兵士達からは若干のやっかみを感じることは日常茶飯事だった。
彼らの中にはリーナ打倒を目指して聖剣武大会に出場する人間も珍しくないくらいだ。
だからと言って兵士達がリーナの前で直接僻み感情全開で接してくる者はいない。曲がりなりにも、リーナが王女であることは理解しているから、当たり前といえば当たり前だが。
兵士達の訓練場は王宮内に建てられた室内コロシアムだ。聖剣武大会でのイメージを強く喚起させる場所で、観客席は二階までしかなく、それより上はガラス張りで日の光が差し込むようにできている。黄昏時だと、夕焼けの光が入ってきていい雰囲気なのだが、あいにく今は曇り。そういった趣は感じない。
いつもなら、リーナとフィーネの二人が一番最初にここに来ることが多いが、その日は違った。
「あら?」
「珍しいですね」
そこにはリーナ同様、スケイルアーマーと帯剣ベルトを装備した男性剣士がいた。
ロングソードを構え、目を閉じ、精神を集中させて、刃を上下に振るっている。
見ているだけでもその真剣さが伝わってくる。
「邪魔しちゃ悪いわね……」
リーナは静かに訓練場をあとにしようと、背を向けた。
「あ、あの……!」
その時、男性剣士が声をかけてきた。どうやら、自分達が訓練場に足を踏み入れていたことに気づいていたらしい。声が少しばかり上ずっている。どうやらリーナの前ということもあって緊張しているようだ。
「ん?」
一度は背を向けたその男性剣士に、リーナは再び向き直る。身長はリーナより高く、端正な顔立ちをしている。黄金色の髪の毛もよく整えられていて、外見にも気を使っているのがわかる。彼は、ロングソードを鞘に収めてから近づいてきた。
「し、失礼しました。自分は、ゼイル・ネルトスと申します。昨日エルリシア区より、このアダマンガラス王都に就任した兵士でございます」
ゼイルはゆっくりとリーナに対して一礼した。
「丁寧にありがとう」
リーナもゼイルに習って一礼する。
エルリシア区は、ここアダマンガラス王都より北の町だ。アダマンガラス国は何人かの貴族が収める領地で町ごとに隔てられ、それらを町名で区切っている。そしてそれらの中心に位置しているのがここ王都だ。漠然とアダマンガラス国というとそれらの領地も含めることになるが、厳密にはアダマンガラスという地名はこの王都だけだ。
「あたしはアダマンガラス国第二王女、リーナ・ギルバルト。以後よろしくね」
「はい! 存じております。昨日の聖剣武大会でも、見事優勝を勝ち取られたと聞きました。お見事です」
「え? あ、ありがとう……」
リーナはあまり男性から褒められたことがない。父やグレイスは社交辞令的に「ご苦労」としか言わないし、兵士達もプライドを刺激されることのほうが多いらしく、素直にリーナを褒めることはほとんどない。だからゼイルが心からの褒め言葉に思わず笑みがこぼれた。
「それで……その……え~とですね……」
ゼイルは必死になって言葉を選んでいる。次に何を話すべきか、決めかねているようだった。いや、いうべきかどうか迷っているといった感じか。
「そんなに緊張しないでよ。あたしのせいで誰かが緊張するのって……なんか、嫌だな」
「も、申し訳ありません!」
猛烈な勢いで謝られる。こういう熱血タイプはどういう態度で接すればいいのかわからず、リーナの苦手としているタイプの人間だった。
「だから~……」
緊張するなと言われて緊張しないなら苦労はしない。その当たりもわかっているつもりだ。だから余計にどう対応すればいいのかわからない。
「ん~まあいいか。ところで……」
なのでリーナは無理やり話題を変えることにした。
「あなた、こんな時間に何をしていたの?」
「はい。自分は、まだ新米ですので、誰よりも早く稽古に励まなければと思いまして、それで早めにここに……」
「なるほど」
中々見所のある青年だと思った。模範解答的な答えでもあるが、それが本心から実行できている人というのは中々いないことをリーナは知っている。同時にこうも思った。彼なら十分な剣術の腕を持っているに違いないと。
「ということはあなた、剣も嗜んでいるわよね?」
「はい。エルリシアの聖剣武大会で優勝の経験もあります」
「丁度いいわ。ゼイル。あたしと手合わせをしてもらえるかしら?」
その提案にゼイルは明らかに動揺した。
「じ、自分はまだ新米であり、一介の兵士に過ぎません。自分如きでは、リーナ様のお相手は務まらないと存じます」
「そう……?」
その反応は今までリーナが今まで見てきた兵士達の反応とは微妙に違う反応だった。
大抵の場合、リーナが兵士に手合わせを願い出る場合の反応は二つに一つだった。
一つはリーナ打倒に燃えて実際に戦ってくれる場合だ。その場合はリーナをうち負かそうと本気で挑んでくるので、張り合いを感じるのでリーナとしては好印象だったりする。強くあろうとするものが、より強者へと上り詰めようと奮闘するのは当たり前だ。彼らのような存在が、リーナを強くすると言っても過言ではない。
もう一つは女に負けるという恥をかく事を恐れてのことで、その場合ゼイルとほぼ同じ返答をする。この反応をリーナは何より嫌っている。男のちっぽけなプライドがありありと分かってしまい、その嫌らしさが滑稽に見えるのだ。
だが、ゼイルの場合はなんとなく違うように見えた。彼の言動の端々には、リーナをリスペクトしようという思いを感じる。本当の意味で誠実さを感じる。彼は自分では役不足だと本気で思って言っているのだ。
「あなたがそう思うのなら、無理に相手してとは言わないわ。だけど……」
――あれ?
「あたしは……あなたと手合わせがしたい」
――変なの。あたしなんでこんなこと言ってるんだろ。
「姫様……」
ゼイルはリーナの前で膝を折った。
「もったいなきお言葉。畏まりました。このゼイル・ネルトス。姫様の稽古のお相手を務めさせていただきます!」
稽古と言っても、本当に稽古と呼べたのは最初の十分程度のものだった。最初は木刀での稽古だった。互いの実力を確かめ合うだけの簡単な稽古。
しかし、そこから先は真剣勝負そのものだった。
剣は木刀から刃を潰してある模造刀に代わり、聖剣武大会と同様のルールでしのぎを削り合う。
朝の静寂を切り裂く、剣と剣がぶつかり合う音。二人の男女の呼吸と声。その二つだけが、今この空間を支配していた。
フィーネはその様子をただ黙って見ていた。極めて、真剣な表情で。
その最中、ゼイルとリーナの刃がぶつ有り合い、一時的に膠着状態になった。リーナは刃を弾いて距離を取る。それと同時に声を上げた。
「ゼイル、貴方……本気ださないの?」
「え?」
拳闘士、格闘家、剣士。役職は違えども、戦うことを生業としているものは、戦いを通して相手の気持ちが理解できるという。
練度の差くらいは素人でもある程度見抜けるものの、ある程度実力を身に付け、攻撃の仕方、戦闘スタイルが確立された攻撃には、その人間の思いが乗る。
ゼイルの性格が剣筋に現れているのだ。最初は様子見のために力を温存しているのかと思った。しかし戦えば戦うほどに、それは違うことがわかってくる。
「何年剣を振るっていると思ってるの? それくらいは分かるわ。貴方がまだ本気でこないなら、こっちからペースをあげていくわよ?」
「はい。是非、お見せください。リーナ姫様!」
目の前の男は嫌みでも何でもなく、本気でリーナの剣を受けようとしているようだった。
「そう? それじゃあ……」
リーナが息を吸う。次の瞬間、まるで別の生き物のようにリーナの動きが変わった。
「いくわよ!」
全身が人から獣に変わったかのように、動きは速く、剣筋は鋭く。
刃がぶつかり合う音はもはや剣と剣がぶつかり合う音ではなく、一方的に金属が金属を弾き飛ばす音に変わっていた。
幾度か聖剣武大会に出場している選手ですら、刃を落としかねない衝撃。ゼイルはそれを何度も受け止めた。
受け止めている内に、ゼイルの剣筋も変化し始めた。追い詰められた肉食獣が本気を出すように、リーナの剣に対応し始める。
それでようやく互角に近い戦いになった。
互いの白刃を削りあうほどの衝撃と、一般人が介入不可能なほどの強烈な殺気が充満していく。
火花すら見え隠れする攻防。攻撃をしかけるにしろ、防御するにしろ、手を抜いた瞬間が命取りになる。
それは体力の消耗戦。どちらが先にミスをするか、どちらが先に集中力を切らしてしまうか。その一瞬の隙を突くための戦いだった。
――この男強い……!
リーナは確かな高揚感を覚えていた。王宮の兵士達と刃を交えても、本気になったリーナとここまで刃を互角にぶつけ合える兵士は片手で数えられるほどしかいない。
そういう相手と巡り会えた。神に感謝したい気分だった。
まるで舞踏の如く刃をぶつけ合う二人の姿はある種の美しさを伴っていた。
決着は時間にして三分と経たない内に訪れた。
それは隙と呼んでいいのかどうかすら微妙な一瞬だった。ゼイルの体勢が若干崩れたような気がした。完全にバランスを失ったわけではない。ほんのわずかな体勢の崩れ。
その瞬間でさえも、リーナは逃さなかった。片手でのロングソードで戦っていたリーナが、瞬時に両手で刃を振り上げた。
同時に、ゼイルの刃が宙を舞った。
からんと地を転がる模造刀。戦いはリーナの勝利という形で幕を閉じた。
「ハァ……ハァ……」
「フゥー……」
二人供肩で息をする。どちらも全力を出しあう戦いだった。
「流石です。リーナ姫様」
「貴方もね……ふふ」
笑みを浮かべる。それは強者を称える笑みだ。
「お二人とも、お疲れさまでした」
二人の横にフィーネがやってくる。彼女はタオルを二枚持っており、一枚ずつ二人に手渡した。
「ありがとう。フィーネ」
顔中が汗にまみれている。早く風呂に入り、汗を流したいと思った。
「姫様。お手合わせ、ありがとうございました」
ゼイルはフィーネから受け取ったタオルで顔の汗を拭うと、リーナの前で跪き、一礼した。
「そんなにかしこまらなくていいわよ。それより、こちらこそありがとう。いい朝稽古になったわ」
「ありがとうございます」
ゼイルの態度はさして変わらない。実直な男だなとリーナは思った。
「また、稽古に付き合ってくれるかしら?」
リーナは笑みを浮かべたままゼイルに言う。
「はい。喜んでお付き合いいたします」
「ありがとう。その時は、よろしくね」
そこまで言って、リーナはフィーネに向き直った。
その時、フィーネがゼイルに元にかけていき、なにかを話始めた。
「?」
――何をしてるのかしら?
「ええ!? いやまさかそんな……」
ゼイルは何やら顔を赤くしているようだった。
フィーネは「いいからいいから」と言い残して、その場からはなれリーナの元に戻ってくる。
「リーナ様。私はお召し物とお風呂の準備だけ先にしておきますので、十分ほどしてからやって来てくださいな」
「え?」
訳がわからないという顔をするリーナ。呆気に取られていると、フィーネはニコヤかな笑顔で訓練場の出入り口に向かっていく。
そして一礼し、「では、後程……」と言い残して去っていった。
「え、え~っと……」
「あの、リーナ姫様……」
リーナの後ろにはゼイルが立っていた。小柄なリーナと比べると、背が高い。
「少しだけ……お話というのはいかがでしょうか?」
「え? あ……!」
リーナはようやくフィーネの意図を察した。フィーネはゼイルと話す機会を設けるために、わざとその場から身を引いたのだ。
兄と父以外に男性に免疫のないリーナを男性に慣れさせるためか、あるいはリーナにボーイフレンドを作らせるために。
――あの娘ってば……よけいなことを!
リーナの顔が赤くなってくる。少し嬉しくもあるが、男性と何を話せばいいのかなんて皆目検討もつかない。
あまり黙っていると不信がられる。とはいえ、テンパっていることを悟られるのもいい気分じゃない。リーナはあくまで平常心を装ってゼイルに話しかけた。
「そ、そうね。少しだけなら、いい、かもね……」
二人は訓練場の適当なところに腰かけた。
しかし、お互い何を話せばいいのかわからない。気まずい沈黙だけが流れ始める。
――な、なんでこんなことになったのかしら? ううう……間が持たないわよフィーネ~。
「あ、あのリーナ姫様」
「え? な、なに?」
明らかに動揺しながらリーナは答える。自分自身が緊張しているせいか、ゼイルもまた緊張していることにリーナは気づいていなかった。
「リーナ姫様は、剣術を初めてどれくらいになるのでしょうか?」
「え、ええ……そう、ね」
少しだけ間を置く。そして緊張が解け始めると同時に、言葉を紡ぎはじめた。
「もう十年前、かしらね。あたしが本格的に剣術を学びはじめたのは。当時六歳だったわ」
「凄いですね。十年剣を振り続けても、優勝できない人間もいるというのに。初めて大会に出場して以来一度も優勝を逃していないのですから」
「そう思う?」
「はい、凄いです」
それは純粋な称賛だった。相手が誰であれ、やはり誉められるというのは悪い気がしない。
「まあ、初めて出場したときは、ダガークラスからの開始だから、そんなに誉められるほどのことでもないけどね」
聖剣武大会には二つのクラスがある。いわゆる子供の部として扱われるダガークラス。大人の部として扱われる、バスタードクラスだ。
扱われるといっても、出場事態に年齢制限がかかっているわけではない。あくまで、観客や選手が子供の部、大人の部と呼んでいるだけだ。
ダガークラスは剣の刃渡りが制限されたクラスだ。ダガーナイフ以外の武器で出場しても構わないが、出場者の多くは扱いやすさからダガーナイフを使うことが多い。
対してバスタードクラスは刃渡りの制限が存在しない。片手剣だろうと両手剣だろうと、刃渡りが大人の身長ほどに長かろうとどのような剣を使っても自由だ。その自由さ故に、バスタード《雑種の》クラスと名付けられている。
「ボク……いえ、私も剣を振るいはじめたのは、それくらいのころでした」
「ボクでいいわ。ゼイル」
リーナは穏やかに微笑みながらゼイルを見た。王女という立場故に、彼女の前でかしこまる人間は多い。しかし、リーナはそういう堅苦しいのは苦手だった。ゼイルは「かしこまりました」と言って続きを話し始める。
「ボクもリーナ様と同じくらいの年齢の頃から剣を振るい始めました。初めて聖剣武大会に出場したのは、エルリシアという地域の大会でした」
「あ、そこの大会なら、あたしも参加したことあるわ。王都の聖剣武大会は、ダガークラスといえどもレベルが高いから、まずは地方の大会から出場するようにと、お父様から言われてね」
「リーナ姫様は、そのエルリシアの大会には何回くらい出場なされまさいたか?」
「四、五回くらいね。いくつもの地方の聖剣武大会に出場して、王都の聖剣武大会に出場しはじめたのが十歳の頃からだったから」
「なるほど」
ゼイルはなにかに納得したかのように頷く。
「え? なに?」
リーナは今の話で何故ゼイルが納得するのかわからず疑問符を浮かべる。
「リーナ姫様同様、ボクもエルリシアの大会では何度も優勝しているんです。しかし、どうしても勝てない相手がいました」
「うん」
「その人はボクと対して年齢が変わらないはずなのに、ボクよりずっと強くて、子供心に悔しさを感じたことがあったんです。女の子に負けるなんてって言う感じで」
リーナはゼイルの話を遮ることなく黙って耳を傾けている。
「でも、その子はどういうわけかある日を境にエルリシアの聖剣武大会には出場しなくなりました。だから剣術の腕を磨き、人間としても大きくなってその子ともう一度戦いたいと思っていました」
「ねえ、ゼイル……その女の子ってひょっとして……」
リーナがいくら男に免疫がなくて鈍感だとしても、流石にゼイルが何を言わんとしているのかはわかる。
「さあ、それはどうでしょう」
ゼイルは立ち上がる。とぼけているのか、本音なのかは言葉を聞いた限りでは判別できない。
「名前が偶然同じなだけかもしれませんし、他人のそら似かもしれません。彼女が出場しなくなったのは六年も前の話ですし。彼女が誰であったのかは今もはっきりとはわかりません。ただはっきりと自覚したことがあります」
といったところで沈黙が流れる。少しだけ歩いて、リーナの方を振り向き、そして続けた。
「ボクはきっと、その娘が好きなんです。初めて負けた日から、今この瞬間さえも。その娘のためなら命だってかけられるくらいに」
――それって……。
リーナはゼイルの目を見る。ゼイルもまたリーナの方を見てくる。お互いに瞳の奥を見つめあっているうちにリーナは気恥ずかしくなり思わず目をそらした。
その顔はほんのりと赤くなっていた。
「あ、あたしはまだ、恋愛なんてする気……ないわ」
そういうリーナの声はどこかたどたどしかった。
「構いません……ボクの気持ちは変わりませんから」
誠実な男とは、きっとこの男のことを言うのだろう。
もはやほとんど告白に近いゼイルの言葉に、どう答えればいいのかわからず、リーナは押し黙ってしまった。
「あ、ありが、とう……」
その胸には嬉しさがあった。聖剣武大会で優勝して称えられるのとはまた違った嬉しさ。胸の内が暖かくなっていく確かな感覚があった。
「ご、ごめん!」
しかし、嬉しさを上回る恥ずかしさと照れもあった。リーナはこれ以上ゼイルと同じ空間にいることがある意味で耐えられず、闘技場から走って姿を消した。
「ハッ……ハッ……ハ……」
闘技場から出て、壁によりかかる。
バクバクいっている心臓の音が、直接自分の耳に届きそうなくらい、胸の奥が熱い。その熱さは、剣の稽古をしていたときと同じかそれ以上だ。
手の平はじっとりと汗ばみ、ただでさえ汗が染み付いた服や下着がさらに湿ったのがはっきりわかる。彼女の視線は足元に向いていた。
――やめてよ……愛とか恋なんて……。
心のなかで呟く。嬉しさと気恥ずかしさと照れが頭の中をない交ぜにしている。しかし、それ以上に……。
――あたしは……普通の人間じゃないんだから……。
そんな気持ちがつっかえ棒のように胸に突き立っていた。
――あたしがもし……普通の女の子なら……応えられたのかな? ゼイルの気持ちに……。
心のどこかでやりきれない思いを感じながら、リーナは顔をあげてその場から立ち去った。
汗を流し、着替えを終えると朝食の時間が近づきつつあった。その朝食も適当に済ませると、リーナはそそくさと自室に行ってしまった。
心ここにあらずといった感じで、ベッドに座りながら窓の外を眺めている。
いつもならこのあと剣の稽古を始めるのだが、先程のゼイルとの会話のせいでそんな気になれなかった。
「リーナ様……」
フィーネはそんなリーナの横に立ち、心配そうに見ている。
「私……余計なことをしてしまったのでしょうか?」
「ううん、そんなことないわ、ただ……」
リーナは口をつぐむ。そして、数秒逡巡してから続けた。
「ごめん、やっぱりなんでもない」
リーナはベッドに身を横たえる。
――言えない……なんであたしは普通の人間じゃないのかな……なんて。
それを口にすると言うことは、自分は生まれてきてよかったのかな? と聞くようなものだ。自分がそんなことを考えていると知ったら、フィーネは自分の取った行動を後悔する。リーナがそんなことを考えるきっかけを作ってしまったことを後悔する。
同時に意外に感じた。自分が兄と父以外の男から好意を寄せられただけで、こんなにも取り乱してしまうなんて。これが自分のことではなければ、さぞ可愛らしいと思っただろう。
しかし、これは自分のことだ。自分で自分のことを可愛い等とは思えない。
愛だ恋だなんて自分には無縁なものだと思っていた。脂肪よりも筋肉ばかりの女を好く酔狂な男なんているものか。しかし、実際にいた。ついさっき話をした。
――そういえば……あたし自分の幸せって考えたことないな。
――シアワセって……なんだろう? 好きな人ができること? お父様に認められること?
答えのでない自問自答が頭の中で繰り広げられる。
しかし、そんな問答になんの意味があるのだろう? そもそも考えて結論がでるようなものだろうか?
「あー、やめやめ! やってらんないわ」
フィーネに聞こえるように言う。
「リーナ様?」
「こんなことでグチグチ悩むなんてあたしらしくないわ。」
ベッドから跳ね起きるように立ち上がる。
「稽古に行くわ。フィーネ、また付き合ってちょうだい」
そう聞いてフィーネも笑顔になった。
「かしこまりました。リーナ様」
互いに微笑み会う。その一瞬、互いの心が通じあっているような感じがした。
二人は揃って部屋を出て、再び室内コロシアムへ向かう。
「ん?」
そんな時だった。廊下のガラス戸の外に何気なく視線を移したリーネは微小な違和感を感じた。
空は黒雲に覆われ、太陽の光がはっきりと見えない。それだけならまだいい。
その雲の下、遥か彼方に何かが見えたのだ。それは黒いなにかだった。ガラスに止まっている虫ではない。鳩や鷹の類でもない。もっと遠く。城壁よりも向こう側に見たこともない真っ黒な何かが飛行していた。
「アレは……ナニ?」