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悪夢を乗り越えて

「ん……んん……」

 まぶた越しに日の光を感じる。その光は十分な休息を取った体に、目を覚ますよう命じてくる。

「ここ……は?」

 自然に開かれていくまぶたを開けると、真っ白な天井が見えた。

「んん……!」

 全身に力を入れて上半身をゆっくり起こす。サラサラで清潔なシーツが静かな音を立てた。

 体を起こしてようやくわかった。ここは義理の姉、アルトの部屋だ。

「なんで、あたし……こんなところに……」

 その時、ゆっくりと部屋の扉が開いた。

「! リ、リーナ……!」

 言われて、リーナは声がした方を見る。と、同時に部屋に入ってきた人物は、両手を滑らせ、持っていた水桶を床に落としてしまった。

「アルト……ねえ、さん?」

 そこに立っていたのは、いつもの青を基調としたシュミーズドレスを身に付けたリーナの姉、アルト・ギルバルトだった。

 しかし、リーナの頭が彼女の存在を認めるより早く、アルトに抱き締められていた。

「リーナ……! ……う……ううっ……良かった……良かった……あなただけでも生きていてくれて……!」

 寝起きの体にアルトの体温が伝わってくる。

 その瞬間リーナは理解した。今まで起きたことが、全て現実だったことを。夢でも幻でもなく、間違いなく、自分があの地獄から生きてかえってきたことを。

 同時に、アルトの温もりが愛しく感じた。

 義理とはいえ、今まで姉として振る舞っていた人が、髪を振り乱して自分を抱き締めてくれる。

 たったそれだけのことなのに、胸の奥が強烈に熱くなり、涙がにじんできた。

 ――生きてる……あたし……ちゃんと生きてる……!

「ごめんなさい……本当は私が……あなたを連れ出さなきゃいけなかったのに……」

 アルトはリーナを抱き締めながら涙を流した。何度も何度も謝りながら。

 子供のように泣きじゃくるアルトに対して、リーナは優しく言葉をかける。

「大丈夫よ……姉さん……ありがとう……心配してくれて……」

 自分が生きていてもいいのかさえ自信が持てなかった。父は自分を殺すべきだったのかそうでなかったのか、最後まで悩んでいた。

 アルトは肯定してくれてる。生きることを肯定してくれている。それが嬉しくて、リーナも涙を流した。

「本当に……ありがとう」

 いいながら、リーナもアルトの背中に手を回す。

 お互いに涙しながら、二人は互いの無事を確かめあった。


「ごめんなさいね……ちょっと取り乱しちゃって」

 アルトは恥ずかしそうにそう言いながら、自らぶちまけた水を拭き取っていく。

 リーナが手伝うといっても、彼女は自分がやるといいはり、手伝わせてもらえそうになかった。

「あなたは、この国の滅亡を阻止した英雄なんだから」

「エイ……ユウ……?」

 確かに、マモノ達を倒したのはリーナなのだが、エイユウというのは違うような気がする。

「それにしても……」

 リーナはアルトに聞こえないように呟いた。

 ――また記憶がはっきりしない……。

 恐らく気を失ったのだろう。それくらいはわかる。リーナの記憶にあるのは、マモノのボスを倒したところまでだ。

 だとしたら、その直後に起を失ったと見るのが妥当だろう。

「ねえ、姉さん」

「ん? なぁに?」

 子供をあやすような優しい笑みで、アルトはリーナを見る。

「あたし……どれくらい眠っていたの?」

 あの時、マモノのボスを倒した時、空の黄昏は闇色に変わりつつあった。

 彼女が覚えているのはそこまでで、それ以降の記憶はごっそり抜け落ちている。そして気になることは山ほどあった。

 あれからアダマンガラスはどうなったのか、生き残った民はどれくらいいたのか、他にマモノはいなかったのか、この国はこれからどうなっていくのか……。

 そして何より、鎧竜アーマード・ドラゴンがどうなったのか。

「2日前よ。あなたが化け物達を撃退した直後、気を失ったあなたを鎧竜アーマード・ドラゴンが運んできた。それからあなたをここに運んで、あとはずっと眠っていたわ」

「姉さんが看病してくれてたの? それまでの間」

 アルトは静かに頷きながら「そういうことになるわね」と言った。

「ごめんなさい……あたし迷惑かけっぱなしで……」

「そんなことないわ。あなたはあの化け物供を撃退した。あなたの戦いがあったからこそ、私達は生きていられるのよ」

「でも……あたしがこんな目を持っているから……」

「でももヘチマもないわ。リーナ」

 アルトはリーナの言葉を遮った。

「いい? リーナ」

 アルトは小さな子供に言い聞かせるように、一つ一つ言葉を紡ぐ。

「もしかしたら……とか『たら、れば』なんていうのは、現実には起こり得なかったことでしかない。起こったことはもう変わらないのよ。私達人間が、例え神のイタズラに翻弄されたり、悪魔の罠に陥っていたとしても、私達は前を見て生きるしかないのよ。私達に、後悔なんかしている時間はないの」

 言いながら、アルトはリーナの頬をそっと撫でる。

「辛い立場かもしれないけれど、リーナ。あなたにはきっとまだやるべきことがあるはずよ。それはまだ、見つからないかもしれない。大事なのは、やるべきことが見つかったとき、どう動くかよ」

 リーナは真剣な目でアルトの話に耳を傾けた。

「だから……どうか自分を責めないで……」

 リーナは重ね合わせた両手を自身の胸に当てた。

 ――…………。

 父は最後までリーナの存在に苦しんだ。そして、親友を救えなかった。そのため、どうしても内罰的な気持ちに陥ってしまう。

 しかし、アルトのおかげで少しは救われたような気がした。

「ありがとう……姉さん」

「うふふ……」

 アルトは柔らかな笑みにいたずらっぽさを交えて言った。

「今日は、お礼を言われてばっかりね」

「そう……かもね」

 お互いに笑いあう。なんの変哲もない会話が心地いい。

 ――こんな時間がもっともっと欲しいわ。

 静かな時間が流れた。二人で他愛のない会話を楽しんだ。静水のように流れる時間が、愛おしかった。


「ねえ、姉さん」

 そんな時間がしばらくたって、リーナはアルトに質問した。

「あたしは……これからどうすればいいのかな?」

 漠然とした質問だった。本気でアルトに答えを求めての質問ではない。どちらかというと、自分自身に対しての問いかけだった。

 アルトは答えた。

「そうね……とりあえず、状況を把握することから始めましょうか」


 アルトの提案でリーナは、アルトともに、自らの足でアダマンガラスを見て回ることにした。

 まずは城内からだ。

 最初はグレイスに会いたいところだったが、彼は今、兵士と共に行方不明者と生存者の捜索を行っており、とても会えそうになかった。

 同じ理由で、医者であるクレアにも会えそうになかった。

 アダマンガラス城内では生き残った使用人達が忙しそうに働いていた。

 あの日以来、その数は大きく減ってしまったが、それでも生き残った使用人の多くはこれまでどおり、ここで働く道を選択してくれていた。

 アルトは今後もきちんと給料を払えるかどうかはわからないから、首都の外にある貴族領へ行くことを勧めたのだが、それでも彼らはここで働くことを選んだ。

 生き残った兵士も同じだった。

 リーナは疑問に思った。あんな大変なことがあってもこの国で生きることを選択した人達の思いを。

 彼らの心を支えたのは、アルト曰く「リーナが自身の運命や苦境と戦ったのに、自分達が逃げ出すわけにはいかない」という思いだった。

 間接的に、リーナは多くの人達の心を支えたことになる。そう思うと嬉しい気持ちになった。

 二人は使用人や兵士達と会話したあと、町を歩くことにした。

 アルトは馬車を提案したが、リーナは断った。国中が大変なのに、自分だけ楽するわけにはいかないと思ったからだ。

 リーナは覚悟を決めていた。

 きっと多くの人達が絶望に打ちひしがれているに違いないと。

 家族を失った人もいたことだろう。

 それまで住んでいた家を失った人もいただろう。

 今まで経営していた店を失った人もいただろう。

 そんな人達の絶望を垣間見ることになる。そう思っていた。

 結論から言うと半分はその通りだった。

 その度に胸を締め付けられるような思いをした。

 しかし、彼らはリーナの顔を見ると笑顔を見せた。

 無理に笑った笑顔を見せた人もいた。

 彼らも城で働いている人達と同じだった。

 リーナがたった一人でマモノと戦い倒した。その事はすでに町中の人間に知れ渡っていたのだ。多くの人が彼女を英雄と呼んだ。

 ある程度町の人間と会話をしつつ、二人は歩いていた。

 どこに行っても瓦礫がある。どこにいっても壊れた家屋がある町中を。

「姉さん」

 そんな最中、リーナはアルトに質問した。

「ん?」

「あたしってエイユウなのかな?」

「それを決めるのは、あなたでも、町の人でもないわ。その答えを知っているのは……歴史だけよ」

「レキシ? どういうこと?」

 リーナは目を丸くしてアルトに問う。

「歴史上では英雄と呼ばれた戦士や豪傑は沢山いるわ。でもその人達の私生活や性格を私達は想像することしかできない。それだけの時間が立ってから、歴史に名を刻まれるのよ『あの人は英雄だった』と」

 ――なるほど……だから歴史が『知っている』……未来に伝えられる歴史が……。

「ねえ、姉さんあたしは……」

 そこで若干言葉に詰まる。その先を言うのはおこがましいのではないかと心のどこかで思ったからだ。

 アルトは何も言わず、リーナの言葉を待っている。リーナは静かに言葉を続けた。

「今……生きている人達の……支えになれるのかしら?」

 その胸中は複雑だった。英雄と呼ばれるような資格が自分にあるとは思えない。だけど、町の人達が元気になってくれるのなら嬉しい。そう思う気持ちもある。

 アルトはそんなリーナの気持ちを察してか、優しく言い聞かせる。

「少なくとも、この国にいる人達はあなたの存在を心の支えにしているわ。でもそれは、あなたが生きていたからこそよ。そして、あなたの言葉を求める人がいる。だからなれるわ。この国の民の心を支える存在に……きっと……ね」

 リーナは照れ臭そうに人差し指で頬を掻いた。

「なんだか……」

「ん?」

「今日は……姉さんに慰められてばっかり」

「いいじゃないの。たまにはお姉さんらしいこと、させてちょうだい」

「うん……ありがとう、姉さん」


 次にリーナが気になったのは、鎧竜アーマード・ドラゴンがどうなったのかだった。

 天空闘技場で死闘を演じた鎧竜アーマード・ドラゴンが、なぜリーナを助け、共に戦ってくれたのか?

 もっとも、リーナはあのときどうやって鎧竜アーマード・ドラゴンを下したのか。その記憶は今もない。

 その状況を目撃していた兵士の話では、ボロボロだった体が光に包まれ、復活し、鎧竜アーマード・ドラゴンを一方的に嬲り殺したらしい。

 鬼神の如し、という表現がこれほどぴったり来る戦い方はなかったとも聞いた。

 今リーナが気になっているのは、死んでいるはずの鎧竜アーマード・ドラゴンが、なぜ再び自分の前に現れ、助けてくれたのか。そしてなぜその時の記憶がないのかだ。

 さすがにその問いに答えられる人間は現時点ではどこにもいやしない。

 だから、もう一度会いたかった。あったところで会話ができるのかどうかもわからないが、もう一度鎧竜アーマード・ドラゴンと相対する必要がある。そう思っていた。しかし……

「なんなの? これ……」

「……私に聞かれても……」

 彼女達はリーナと鎧竜アーマード・ドラゴンが共にマモノを撃退したあの場所に来ていた。

 えぐれ飛び、焼け焦げた地面は鎧竜アーマード・ドラゴンの戦闘能力を物語っているといっても過言ではない。

 しかし、彼女達が驚いているのはその状況ではなく、目の前で光を放つ巨大な繭だった。

 白い楕円形の繭は卵と形容するに相応しい。

「この状態じゃ……お話なんてできそうもないわね」

 アルトは誰にともなくそう言った。

 元々会話ができるのかどうかすら怪しい存在だったが、今の鎧竜アーマード・ドラゴンの状態では会話どころか、意思の疎通すら取れそうにない。

 リーナは静かに、繭に包まれた鎧竜アーマード・ドラゴンを見つめる。

 そして静かに、右目を閉じた。

 生まれついての灰色のまなこのみでそれを見る。

 そうすると、うっすらと見えた。卵に描かれた線画の竜の姿が。

 ー―いる……。鎧竜アーマード・ドラゴンは確かにここにいる。

 声は聞こえない。姿も見えない。しかし、左目だけはしっかりその姿をとらえていた。

「いきましょ。アルト姉さん」

 両目で、リーナはアルトに視線を向けた。

「もういいの?」

「ええ」

 二人はそれだけやりとりし、静かに鎧竜アーマード・ドラゴンの繭に背を向けた。

 その瞬間。

「え……?」

 誰かが何か言ったような気がした。

 それは言葉ではなく、脳裏のヴィジョンでもなく、明確な意思だった。

 それが鎧竜アーマード・ドラゴンのものであることは明白で、リーナにはその意思がはっきり理解できた。

「ええ、また来るわ」

 

「さて、どうする? リーナ」

 歩きながらアルトが問う。城とそこで働く兵士や使用人達。町の状況とそこで立ち上がろうとしている人達。全てではないにしろ、今アダマンガラスがおかれている状況を知ることができた。

 その上で決めなければならない。自分がこれからどう行動していくのかを。

「姉さんは、どうするべきだと思う?」

「私は、町の外にいる貴族領の方達と、今後の方針について話し合わなければならないわ。お手紙にしろ、直接対話するにしてもね」

「うん」

「でも、リーナがどうするべきなのかについては、私には決めかねるわ。あなたの運命はあなたが決めるべきことだもの」

「うん……」

 ――姉さんならそういうと思った。

 不思議と安心した。もし、今ここで会話している姉の存在が、偽物だったらどうしよう。実はまだ夢を見ているとしたらどうしよう。そんなことを心のどこかで考えていたからだ。

 ――あたしのやるべきこと……。

 もうマモノはいない。この国が復興していくならば、戦う能力しかないリーナにできることはない。そこまで考えてリーナはその考えを否定した。

 ――いや……。

 あのマモノがどこからやってきて、なぜこの国を襲ったのか。それがはっきりしていない。なのに、本当にすることがないなどと……言えるだろうか?

 ――マモノの元凶……。

 グレイスも、アルトも、死したギルバルト王も、それがなんなのかは知らない。もちろん、リーナ自身でさえも。

「ちょっと……考えてみる」

「ええ、でも一つだけお願い」

「?」

「可能ならもう……戦わないで頂戴」

 そういってアルトはリーナに向き直る。

「血の繋がりはなくても、あなたは私達の妹。家族なのだから」

「それは……」

 できるならば自分もそうしたい。しかしそれは今リーナが考えていることとは真逆のことだった。

「ごめん、姉さん。約束はできない……」

「そう……」

 残念そうに言い、それっきり無言になる。リーナとアルトは静かにアダマンガラス城へ戻っていった。


 淡々とリーナは城のなかを歩く。

 自分がどうするべきか。大雑把な目標だけはとりあえず決まった。それは、あのマモノの元凶を叩き、事実関係をはっきりさせること。

 しかし、今のリーナにはあまりにも情報が少ない。アダマンガラスという国の中で生きてきたリーナには、外の情報などほとんど持っていない。

 アルトに数える程度に外に連れ出してもらえたことはあったが、今のリーナに必要な情報が頭のなかに存在するわけではない。

 だからこそ、これからどうするべきなのか考えていた。そして、その答えを求めて、リーナは再び父の書斎に来ていた。

 毎日忙しそうに、羊皮紙にペンを走らせていた父の姿はもうそこにはない。遺体も既に運び出された。

 本来なら一国の王が死に絶えたのならば、国をあげて大々的に葬式をあげ、新たな王の戴冠式が行われるのが常である。

 しかし、死因が毒杯をあおった自殺であること、正当な王位継承権を持つリーナが王族であることを世間が知らないこと、そしてあの地獄の直後であること。

 それらの理由によって国王の死すら今だ国民には伝えられていない。事実上今政治を動かしているのはアルトとグレイス。そして彼らと深交の深かった一部の貴族達だ。

 そんな状況ゆえに、ギルバルト王の私室兼書斎も、あの当時のままほったらかしにされていた。

 そんな父の部屋にリーナはいた。

 目的はただ一つ。父はこんな時どうやって状況を打開したのかを知るため。

 今リーナは目的こそはっきりしているものの、具体的にどう行動を起こせばいいのかよくわからずにいる。

 父はこの国が戦争を行っていた時代、あらゆる決断を迫られていたはずだ。それならば今のリーナが陥っている状況に出くわすこともあったであろう。

 そんなとき、父ならどう切り抜けようとするのか。そのヒントだけでもほしいと思った。

 リーナは父の書斎の人生を綴った手記を片っ端から読み漁っていた。手記の冊数は1年で一冊分。それが数十冊あるわけだから、読破するだけで数日を要するであろうことは想像に難くない。

 リーナはそれを最初から全て読んでいるのだ。一冊読むだけでもどれだけの時間がかかるか、正直考えたくない。

 それと同時に、全ての手記を読みたいという気持ちもあった。

 ーーお父様……。

 心のなかで呟く。あの悪い意味で年齢を感じさせる父と何回まともに会話をしたことがあっただろう?

 ある意味、憎んでいたのかもしれない。自分のことを普通の人間として扱ってくれない、あの父親に。

 しかし、今はそんな父に助けを求めている。死んだはずの父に。

 心の底が知れない父ではあったが、それでも確かに血の繋がった父親だったのだ。だからこそ知りたいと思った。

 自分が生まれる前の父はどんな人物で、どのような人生を歩んでいたのかを。

 ーーお父様、あたしに力を貸して……。

 そう祈りながら、リーナはひたすら父の手記を読み漁った。


 それはリーナが手記を読み漁り始めてしばらくたった頃だった。

 突如として部屋の扉が開かれた。

 死したとはいえ、ここはアダマンガラス最高権力者である国王の書斎。入ってくるとしたら、グレイスかアルト。あるいはその専属の使用人くらいしか考えられない。

 しかし、目の前にいたのは……。

「こんなところにおったのかリーナ……」

「え?」

 その姿を見たとき、心臓が止まりそうになった。

 そこには本来いないはずの人物がいたからだ。

「お……父様……?」

 そう、目の前にいたのは本来ならこの場にはいないはずのギルバルト王だった。どういうわけか柔和な笑みを浮かべている。

「何をしているのだ私の書斎で。昔話なら、食事をしながらでもいいだろう」

 昔話という単語は恐らくリーナがギルバルト王の手記を読み漁っていることから連想されて出てきたのだろう。その証拠にギルバルト王の視線はリーナが持っている手記と本棚に向けられている。

「しょ、食事って……今はそれどころでは……」

「陛下ぁ? リーナ様はいらっしゃいましたか?」

 ーーうそ……この声……。

 知っている。覚えている。忘れるはずがない。

「おお、フィーネか。食事の支度はできたのかね?」

「はい。グレイス様もアルト様もすでに準備が整っております!」

 リーナは反射的に扉の外に出た。

「キャッ!」

 廊下に出ると、リーナが飛び出てきたのに驚いたのか、栗色のメイド服に白いエプロンを身に付けたフィーネが小さな悲鳴をあげた。

 リーナは両手両膝を床につき、呆然とフィーネを見上げる。

「あ、あなた……なんで……?」

「ど、どうなされたのですかリーナ様? 顔色が優れないようですが……」

「え? い、いや……だってこんな……」

「まあまあよいではないか!」

 そこにギルバルト王が割って入った。何がよいのかわからない。なんでこうなっているのかわからない。なにがどうなってるのかわからない。

「私の手記を読むのに没頭していたのであろう? 大方感受性豊かなリーナのことだ。昔の私に自分を投影していたのだろう」

「ああ……なるほど」

 それでフィーネも納得する。

 ーーおかしい……。

 リーナの知るギルバルト王はこんな笑顔を見せたりはしない。

 ギルバルト王が常に笑顔を浮かべているなんてあり得ない。

 父上とフィーネがこんなに仲良さげに話しているなんてあり得ない。

「ね、ねえ、フィーネ……これは一体……」

「リーナ様ぁ……」

 フィーネは飽きれぎみにため息をついた。

「ご本ばっかり読まれていますと、そのうちご本の世界の住人になってしまいますよ」

 ーーへ……?

「さあ行きましょう。今日は私が支度をしたんですよ? ぜひご賞味ください!」

「え? あ、あの……」

「フィーネの手作りとあっては、私も食べないわけにはいかないな」

 前からフィーネが手を引き、背後ではギルバルト王が快活に笑っている。

 ーーなにこれ? なにこれ?? ナニコレ???

 リーナは混乱した頭のまま、フィーネに手を引かれ食堂へ向かった。


 食堂にはグレイスとアルト。そしてその専属の使用人もいた。

「さあ、リーナ様!」

「え、ええ」

 リーナはフィーネに促されるままに、席につく。

「遅かったじゃないか、何をしていたんだリーナ?」

「え、ええっと……」

「陛下の書斎で、陛下の手記を読み漁っておりました」

 フィーネがまったく隠すことなくそのまま伝えた。

「ちょ、ちょっとフィーネ!?」

「リーナってば、お父さん子に磨きがかかったみたいね」

 アルトが言う。彼女はほんわかした笑顔を浮かべて実に楽しそうにしている。

「ち、ちがっ……そんなんじゃなく……」

「ハッハッハ、よいよい。父としては嬉しい限りだぞ。そうだ、今宵は私の武勇伝でも話ながらというのは……」

「お父様……手短にお願いしますね。お父様は語り出すと長いんだから」

「お主らはちっとは人の話に耳を傾けることを覚えた方がだな……」

「大丈夫ですよ父上。この国を維持していくのに重要な情報はちゃんとこのグレイスの頭に残っておりますゆえ……」

「いや、そうではなくて私の昔話をだな……」

「……」

 リーナは驚いていた。もし自分が普通の女の子ならこんな未来だったのではないかと。子煩悩な父親と、その子供達と他愛のない話を交わせる。それがとても心地いい。あまりにも心地いい。

「あたしは、聞きたいな……」

 リーナはおずおずと口を開いた。さっきまでの混乱はおさまっていた。こんな、夢にまで見た状況が目の前で繰り広げられているのに、混乱なんてしていられない。

 夢なら夢で構わない。いや……。

 ーーお願い。これが夢なら覚めないで!

「リーナ……今なんと……」

 ギルバルト王は嬉しそうにリーナに耳を傾けてくる。

 ーー嗚呼……おとうさま……。

 涙が溢れ出してくるのを必死に押さえる。

 父が自分の話を聞いてくれる。父が自分に笑顔を見せてくれる。

 それがこんなにも嬉しい。嬉しい嬉しい! とても嬉しい!

「あ、あたし、お父様の話、たくさん聞きたい。お父様がどんな人生を歩んできたのか、どんな戦いをして来たのか聞きたいし、知りたい!」

 子供のように目を輝かせる。ギルバルト王も驚き、そして喜んだ。

「おお、おお、聞かせてやるとも! では、何から話そうか……」

 その時だった。

 グシャリと何かが潰れる音がした。

 ーーえ?

 目眩がする。景色がグルグル回る。青かった空が、黄昏色に染まり、ガラスが、壁が、絨毯じゅうたんが赤い絵の具を塗りたくったかのように真っ赤に染まっていく。

「お、お父様……?」

 ギルバルト王は灰色になっていた。グレイスも、アルトもフィーネも。

「なによこれ……なんなのよ……?」

 次の瞬間。

「イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 リーナは悲鳴をあげた。

 目の前にはあのマモノがいたからだ。

 鳥のようなくちばし、ネズミのような奇妙な体。三本の尻尾。

 飢えたマモノの口から放たれる息はおぞましい臭気を放ってる。

 マモノの尻尾の一つが花びらのように開く。そしてギルバルト王の体を頭から食らいついた。

「いやあああああああああああああああやめてえええええええええええええ!! お父様を、お父様をつれていかないでえええええええええええええええええ!!」

 しかし、無情にもマモノは容赦なくギルバルト王を飲み込んだ。

「ああああああああああああああああ!!」

 なすすべがない。リーナにできるのは、怒りと悲しみにみを任せて叫ぶことだけだった。

「返せ! 返せ返せ、返せ! お父様を返せええええええええええええええええ!!」

『グルルルルルルルルル……』

 リーナは気づいた。マモノの視線が自分より背後に向けられていることに。

 ーーフィーネ!? ダメ! せめてこの子だけは、この子だけは!

 グシャグシャの顔のままリーナはフィーネに視線を走らせる。守らなければと思い、彼女の体に触れたその瞬間。

 ーーあ……。

フィーネの体は走馬灯が駆け抜けるかのごとき速さで倒れ、バシャリと赤い水溜まりになって消えた。

「あ……ぁ……」

 水揚げされた魚のように口をパクパクさせる。

 震える体で、ゆっくりと背後のマモノを見たその時、マモノの『歯』が飛び出してきた。

「やめてぇ!! あたしには、まだやらなきゃやらないことがあるの! お願いだから、やめて助けて!! あたしはまだ死にたくない! 死にたくない死にたくない死にたくない、助けて、誰か助けてええええええええええええええええええええええ!!」


「アアアアアアアアアアアアア! ……ハァ……ハァ……あ…………ここは?」

 強ばった表情をしているのが自分でもわかる。

 辺りを見る。ここは父の書斎だ。回りにマモノはいない。ギルバルト王も、もちろんフィーネも。

 リーナはギルバルト王が愛用していた椅子に腰かけたまま眠っていたのだ。

「ゆ、夢……あたし……いつのまに……」

 テーブルの上にはギルバルト王の手記が広げられていた。

「夢にまで……出てくるなんて……」

 意識がどんどん覚醒してくる。同時にやり場のない怒りが込み上げてきた。

「うあああああああ!」

 とどまることを知らない怒りの突き動かされ、右手を振り上げた。そして振り上げた右手を、ギルバルト王が愛用していたオークの木でできた机に叩きつけた。

「夢の中にまで! あの、あのマモノぉ!」

 二度、三度と机を叩く。右手が痛みという名の悲鳴をあげていることにさえ気づかないまま、何度も何度も机を叩く。

「あ……ハッ、ハ……ぐっ……うううううううあああああああ!」

 ハラワタが煮えくり返るとはこういうときに使うのだろう。全身が熱い。痛みさえも愛おしいほどに怒り狂う。

「忘れない……この怒りを。必ず……必ず打つ……お父様とフィーネ……死んでいった人達の仇を!」

 思い出すだけで気が狂いそうになる。それほどの怒りと無念をしまい込むのに、数十分の時間が必要だった。


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