見える透明人間
Y博士は長年の苦労のすえ、ついに光学迷彩薬を完成させた。
光学迷彩薬とは、飲んだものを不可視にする薬品である。これを飲むと、皮膚の表面で光がゆがめられ、外から見れば、使用者が透明になったように見えるのだ。
「さて、効果のほどを実験しなくては」
博士は薬を手につぶやいた。だが、既に手だけを消すのには成功しているから、確認以上の意味はなかった。何に使うか、ということの方が重要であった。
実の所、Y博士はこの薬をつくりあげるために多大な犠牲を払っていたし、また周囲に犠牲を強いてもいた。妻は子をつれて、彼に愛想を尽かし出ていった。高価で貴重な素材を入手するためや研究費を調達するために、犯罪に手を染めたことも多い。
まさに博士は人生をなげうって、開発に取り組んでいたのである。
博士が薬品を飲み干したとたん、どんどんと乱暴に扉をたたく音が聞こえ、罵声がそれに続いた。それからまもなくして、どかっという鮮明な音がした。扉が蹴やぶられたのだ。
硬直するY博士の研究室に、荒々しい足音を隠そうともせず、四人の黒服の男たちが押し入ってきた。
「いたか」
「もぬけの殻だ」
「ずらかったあとか」
男たちはみんな似たようななりをしていて特徴に乏しかったが、最後に入ってきた顔の角張った男が、この集団の頭であるらしかった。彼は博士がいないという報告を聞いて舌打ちした。
Y博士は息を殺して事態の推移をみまもっていた。どこかに隠れたわけではない。すでに薬の効果が出ていたため、彼は見つからずにすんだ。実験は思いがけない形でなされたのである。
「隠れているのかもしれん。探せ」
頭は苛立った声音で部下に命令した。彼は黒光りのするサングラスをつけていたが、その奥の眼光が見えるようにY博士には思えた。
さっそく部下たちによる捜索がはじまった。彼らは棚の中身まで引っ張りだして、博士をさがし出そうとした。自分の研究室が無遠慮にひっかき回されるのを恐怖とともに見つめながら、Y博士は男たちがどこの手のものか考えていた。
「いないようです」
「こちらも」
「見つかりませんでした」
部屋を散らかせるだけ散らかした男たちは、口々に報告した。頭は、明らかに機嫌をそこねた様子で煙草を取り出すと、火をつけようとライターを差し出す部下を片手で制して着火した。
ふう、と一息。
「お前たちも分かっているだろうが……」
頭は表面上はごく落ち着いた様子で、今日の天気を話題にするような気軽さで呟いた。
「野郎を見つけられなければ、ボスに殺されるのは俺たちだ。見つけられませんでした、では済まんのだ」
部下たちは固唾をのんで見守っている。少し離れたところで突っ立っているY博士は、頭が扉の前に陣取っているので、こっそり逃げ出すこともかなわなかった。
「だが幸いなことに、ボスは生死は問わんと仰せだ。何も、生きている野郎を持ち帰る必要はない。要は死体があればいいのだ。分かるな」
頭の前に整列していた三人のうち、真ん中に立っていたやせた男が、明らかに身震いするのがY博士にも分かった。
やせた男は口を開き、何事か言おうとした。だがのどの奥から掠れた音が出てくるばかりで、意味のある言葉は発せられなかった。
釈明の時間は――その余地があったかは別にして――終わった。左右に立っていた男たちが、素早くやせた男の脇を固めた。男は顔を恐怖にひきつらせ、何事か叫んだ。Y博士には分からない、異国の言葉のようだった。
「さっさとやれ」
蠅でも追い払うように手を振り、二本目の煙草に着火しながら頭は言った。もがく男は、かつての同僚二人に拘束され、部屋の外に引きずられていった。しばらくして、ゴトゴトと暴れる音がしたが、やがてそれも聞こえなくなった。
戦慄するY博士が何もできずにいるうちに、やや息が上がった様子の部下たちが戻ってきた。やせた男がいないので分かりそうなものだが、頭は扉のへりにもたれて一服しつつ、終わったか、と尋ねた。へい、と男たちが頷くと、頭は大儀そうに身を起こした。
「ボスは奴の顔をご存じない。何とかなるだろう」
頭は二人の部下を連れ、部屋から出ていこうとした。そこで何かを言おうと思い立ったのか振り向いて、その顔が怪訝な表情を浮かべた。
「どうしやした」
部下が尋ねるが答えない。頭は明らかにY博士の立つ方をじっと見つめ……おそらくサングラスの下では目を凝らしていた。たちまち、博士の心臓は早鐘のように打ち始めた。
「なにが……」
「すこし黙ってろ」
不思議そうな部下を一言で沈黙させ、頭は再び部屋に足を踏み入れた。そのまままっすぐに博士の元へ向かってくる。彼はサングラスを取り、細めた目が露わになった。
終わりだ、とY博士は思った。光学迷彩は不完全だったのだ。歩み寄る足音を死に神のもののように感じながら、彼はぎゅっと目を瞑った。
足音が止まった。息づかいが感じられる近さだ。博士はほとんど諦めながらも、目を瞑り、息を止め、できる限り気配を殺そうとした。
「ふむ」
やがて声が聞こえた。
Y博士は遠のいていく足音を、信じられない思いで聞いていた。気づかれなかったのだ、あの距離まで近づかれて。
放心しながら目を開けると、ちょうど最後の男が部屋を出る所だった。
こうしてY博士は難を逃れた。
彼は高飛びし、自分の命を救ってくれた光学迷彩を売り込みはじめた。彼は国際指名手配されていたから、売り込む相手は必然的にマフィアやテロリストといった集団になった。
「何はともあれ、これで私も念願の大金持ちだ。いずれは軍隊も私を頼り、兵器を作ってくれと泣きつくようになるぞ」
左右に女を侍らせ、高級ワインを口にしながらY博士は高笑いした。光学迷彩薬は一兵卒の装備ではなく、もっぱら幹部の護身具として売れた。下っ端に渡せば、いつ寝首をかかれるか分からないからであろう。愚かな連中だ、と博士は内心であざ笑った。
マフィアのボスの息子が目をくり貫かれ死んだのはそれから間もなくのことだった。姿が見えないのをいいことにはやり、敵対組織の幹部を暗殺したものの、その後捕らえられたらしい。
Y博士は真っ青になった。間違いなく彼にも火の粉が降り懸かってくるからだ。殺されたのは自己責任だが、見つかったのはY博士の責任でもある。なぜ見つかったのか、博士には分からなかった。きっとその息子がよほど間抜けだったのだろうと思った。
ふいに、たん、という音と衝撃があって、視界が揺れた。Y博士は胸に痛みを感じ、自分の体を見下ろした。そこは真っ赤に染まっていた。Y博士は姿の見えない暗殺者がやってきたことを知り、絶望のうめき声をあげた。
彼は下手人を探そうと顔を上げた。そしてその額に次の弾丸が撃ち込まれるまでのわずかな間に、彼は自分の発明の欠陥を理解した。
見上げた先には、一対の黒い点が浮かんでいたのだ。
それが瞳であることは疑いようもなく、Y博士は、透明になってもものが見えていたことを、今更ながら思い出したのだった。