第十章 2004年12月
第十章 2004年12月
紆余曲折の内に申請してから1年間でリタイアメントビザが手に入った小野原勉は、ゴールドコーストで新築の家を買った。退職金の半分も使わないで土地が250坪、建物が50坪もの家が買えたのにはビックリした。しかも新築だ。車も香山氏に言われたように4WDを買った。何もかも新しくなったので気持ちも一新して、本格的に恐竜に取り組もうとゴールドコーストへ来た香山氏を招いて数日間を泊まって貰った。
「なんか小野原さんに無理矢理に拉致されてるみたいで恐いなぁ。」
モーテルを予約していると言う香山氏を口説いて引っ張って来たのだった。
「何をおっしゃる。まだ充分には家具類など揃ってはいませんけれど、折角、遠いところからゴールドコーストへお越しの香山さんをわたしの家へと招待しない訳には行きませんからね。それに今日は香山さんにお願いしなければならない事もあるのです。」
「何でしょうねぇ。小野原さんから頼まれごとなんて。」
「まぁねぇ、それはあとでの楽しみにとっておいて、今夜は香山さんにわたしの料理を賞味して貰わなくっちゃ。今まで香山さんには御馳走になりっぱなしでしたからねぇ。」
「そうだ、小野原さんも独身だから料理には問題なかったのですねぇ。忘れておりましたよ。じゃぁお言葉に甘えて御馳走になりましょうかな。でもお願いと言うのが気になってせっかくの料理が味わえるものなのでしょうかね。」
「えぇ、そんな心配するようなお願い事ではありません。佐々山さんも良いことだと言っておりましたから。」
「そんな良い事なら隠さないで早く教えてくださいよ。」
「まぁ今日はゆっくり出来るのですからビールでも飲んでいてくださいよ。」
小野原が台所へと入ったので、香山は応接間で新しい深々と座れるイスに腰を降ろし、出されたビール瓶の蓋をねじって口を付けた。
「やっぱりこんな家が有ったら、こちらへ来てもゆっくり出来るが、モーテル住まいでは金の心配もしなくてはならないし、ゆっくりと落ち着けるものではない。でも買うお金も無い。夢、夢。」
香山が心の中でつぶやきながらビールをグイと飲んだ。
「うまい。こうやってゆっくりと落ち着いて呑むビールはうまいですねぇ。」
小野原が料理の一部を持ってテーブルの上に並べだしたので香山が言った。
「そうでしょう。モーテルじゃ落ち着けませんからね。まぁちょっとゆっくり呑んでいてください。あと2品作ってきますから。」
「これはこれは、凄い料理がでてきますなぁ。うしろに新しい奥さんでも隠しているんじゃありませんか。」
香山が冗談で言った。
「ははは、お褒めにあずかりまして恐縮ですな。残念ながら隠している女性はいませんよ。まぁ、ちょっと待ってください。」
小野原勉も笑いながら言い台所へと消えた。
香山はビールを片手に庭を眺められる窓際へと歩いた。綺麗に整備された芝生の庭が広がり、その奥には新しく植え込まれた樹木が塀に緑を濃く映している。香山はつい自分自身に置き換えて思いを巡らせた。こんな家の1軒や2軒、宗教狂いの妻さえいなければ難なく買えたのにと、今更ながら妻を迎えた事の愚行を振り返ってくやしい思いを深めるものだった。これだけは一生消えそうも無い思い出だった。今の香山にはゴールドコーストへ借家を借りる金さえ持っていない。仕事をするにも高齢で探すことすら難しい状況だ。対外的にはゆったりとした感じを見せてはいるが、内実は政府からの微細な援助だけでの生活から離れることが出来ない。しかしダルビーでの恐竜探索だけに生涯を費やす訳にもいかない。実際、自分の土地から恐竜が発見されさえすれば生活は一新することが出来る筈なのだ。しかし資金難から機材も失った今、その機会は遙かなものとなった。収入を得るチャンスはやはり人口のある所でしか見いだすことが出来ない。出来るだけここゴールドコーストかブリスベンへと来る事を考えなくてはならない。しかしそれには旅費と滞在費が必要だ。そこまで考えた時に小野原が台所から料理を運んできて言った。
「どうです結構庭作りもいいでしょう。でもこの暑い最中に植えたものですから、ちゃんと根付くか心配しているんです。」
「今年は雨が少ないから、ちょっと可哀想かもしれませんね。でもこうやって眺めると落ち着けますね。いやぁ、小野原さんが羨ましい。」
香山が言いながら席へと戻った。
「そう羨ましがらないでくださいよ。まぁいつでもこちらへ来たときには自分の家のように来てください。まっ、お願いと言うのもその事なんですがね。とりあえずビールからにしましょう。」
テーブルに料理を並べ、小野原勉がビールを持ち、乾杯をして言葉を繋いだ。
「この前佐々山さんと会ったとき、香山さんの話題で持ちきりになりましてね。香山さんもゴールドコーストへ帰って来れば良いのにと言ってましたよ。」
「まぁね、でもやっぱり先立つものが手元に無いのでは、どうすることも出来ませんからなぁ。」
香山がビールの泡を髭に付けたままで言った。
「そこでです。わたしは恐竜に興味を持っておりますが、ゴールドコーストからではどこへ探索に出掛けるにしても距離が遠すぎます。香山さんの居住地のダルビーからなら数百キロの距離を節約できます。まぁこれは香山さんもそのつもりでダルビーへと移った訳でしょうが。さぁそこで香山さんへのお願いなんです。香山さんはゴールドコーストへ来ることが度々ありますね。その都度これからはこの家を使って欲しいんです。そのかわり、そのかわりですよ。香山さんの大きな土地の端っこにわたし専用の小さな山小屋を建てさせて欲しいんです。そうしたらわたしも恐竜掘りをやるときにベース基地として香山さんに迷惑をかけないで使えますから。」
小野原勉が料理を箸で小皿へと取りながら話した。
「なぁんだ。そんな事なら、たいそうに言わないでも何の問題もありませんよ。いつでもどこでも好きな所に建ててください。材木も庭から切りだしても良いですよ。勿論、道具類はすべて揃っていますから。どうぞそれも使ってください。いやぁいいなぁ仲間が増えて身近に住んでくれるなんて楽しみだなぁ。勿論、大歓迎で建設の手伝いもしますよ。」
香山も顔をほころばせて身体中で喜びを表して言った。
「やっ、それはよかった。契約成立ですな。じゃぁもう一度乾杯。」
小野原がビールを持ち上げて言った。
「ははは、乾杯!」
「佐々山さんも本当は行きたいようなのですが、あの人、あんまり車の運転に自信が無いそうで、400キロ走るのが恐いそうなんです。実際、東京に住んでいますと車は要りませんからね。でも香山さんが一人で住まわれているのを随分と心配されて、この話を少ししてみたら大賛成をしてくれましたよ。まっ彼の言うのには、香山さんの管理人が出来ると言う事ですがね。」
小野原勉がおどけて言った。
「ははは、わたしも老化ですからなぁ。でもこんな素晴らしい家を使わせて貰うなんて、それの方が心苦しいですよ。」
香山が室内を見回して言った。
「新しい家と言うだけですよ。そうそう。」
小野原勉が言って、ポケットをまさぐって
「じゃぁ、これを渡しておきますね。契約成立の証拠です。あとで香山さんの部屋を決めましょう。」
と言って家の鍵を、香山に手渡した。
「本当にいいんですか。なんかわたしの方が得をするみたいなんですがねぇ。」
香山がすまなさそうに言って鍵を受け取った。
「何をおっしゃる。香山さんがここへ来るとき、わたしにとっては専用の通訳を使えるという事にもなりますし、それに、わたしの方こそ人様の土地に家を建てさせてくれと言っているのですから、厚かましいのはわたしの方ですよ。それはともあれいかがです。わたしの料理は。」
「そうそう、小野原さんがこんなに料理が出来るなんて考えませんでしたよ。味付けもうまいし。そろそろ、うしろから絶世の美女が出てくるんじゃないですか。」
小野原の言葉に香山が応えた。
「ははは、まだ言ってる。いつでも家の中を捜索していただいても結構ですよ。」
小野原も笑いながら小皿を手にして料理へと箸を伸ばした。
二人で話が尽きないままに時間が過ぎ香山が立ち上がり言った。
「これは、これは随分と長居をさせていただきました。モーテルに帰らなくっちゃ。」
「えっ、香山さん酔いましたね。今日からここに泊まると言う事になったじゃありませんか。まぁ座ってください。」
慌てて小野原も言った。
「あっ、そう言うことでしたな。いやいや。」
香山が揺れる身体を、その揺れに任せて頭をかきながらイスに腰を落とした。
「以前香山さんに聞かされた例のストラマトライトを見に行こうと準備を始めたのですよ。」
小野原勉が酒の酔いでこころよさそうにしている香山に言った。聞いたとたんに香山がシャキッとして
「えっ、ストラマトライト。行くんですか。」
と言った。
「そうです。出来たらすぐにでも行きたいんですが、この家の事もありましたから伸ばしに伸ばしていたのです。もうビザも取れましたから何の問題も無く、ゆっくりとオーストラリアを一周出来ますからね。」
「なんと、直接飛行機で飛んで行くのかと思いましたが、一周旅行もされるんですか。いいなぁ。出来ればわたしも一緒に行きたいなぁ。でもまぁ今は資金難だから無理です。でも気を付けて下さいよ。自然は良いけど結構恐いですからね。」
小野原の言葉に香山が応えたものだ。
「香山さんもお一人で廻られたんでしょう。わたしも語学力のためですから、全部一人で廻るつもりです。それに香山さんから聞いている恐竜の発掘地点めぐりもしてきますから。ところで香山さん、今回のゴールドコースト滞在は何日までですか。」
小野原勉が聞いた。
「明日、税理士の所へ行くだけですから、終わったらすぐダルビーまで帰るつもりでおりました。そうそう、日本食品も少し仕入れて行かなくっちゃねぇ。・・・・・・」
香山が言って、酔いに耐えきれず身体を横たえてしまった。
「ありゃありゃ、香山さん、そしたら部屋へ行きましょう。」
小野原が香山の背中に手を回らせて起こし立ち上がらせた。
「ハイハイ、わかりました。わかりましたよ。行きますよ。あっと、車のキー、キーっと。」
寝ぼけてキーを探す香山の背を押して小野原が言った。
「キーは置いておいて、ベッドへ行きますよ。はいはい。」
小野原に押されるままに香山は足をすすめてベッドに倒れ込んだ。
「さて、片づけて用意をするか。」
応接間に戻った小野原勉がつぶやいて残った料理や皿などを台所へと運び始めた。
「小野原さん、昨夜は色々とありがとうございました。久し振りに良い話とうまい料理を楽しませていただきました。そろそろ税理士事務所も始まるでしょうから行きます。で、そのまま少し買い物をしてからダルビーへ帰ります。本当にありがとうございました。」
朝食後、台所で、皿を洗い終え濡れた手を拭いながら香山が言った。
「いえいえどういたしまして。毎回香山さんからは勉強させて頂いてますから。わたしの方こそ嬉しかったです。香山さんが出掛ける時にわたしも一緒に出掛けますから。そこまで御一緒しましょう。」
小野原も用意したものを車へと積み込みを始めた。その荷物を見て香山が聞いた。
「凄い荷物ですね。どうするんです。」
「なに言ってるんです。昨夜言ったじゃないですか。一周旅行に行くんですよ。」
小野原勉の言葉に香山は目を大きく開き、ビックリして言った。
「えっ、あれは本気だったのですか。それにしても数時間前に聞いただけですからねぇ。コースなんか考えておられるのですか。」
「まぁ行き当たりバッタリの旅にしようと思っていますから、全く何も考えていません。地図も香山さんのショッピングに付き合って本屋さんで買っていこうと思ってるぐらいですから。」
小野原勉が言った。
「いやぁビックリですな。わたしも無計画の計画を楽しむ人間ですが。小野原さんは遙かわたしをしのいでいますよ。本当に気をつけて行ってきてください。もし何か問題でも出来ましたら電話を下さい。出来ることならお手伝いしますから。」
香山が本当に感心した顔で言った。
「えぇありがとうございます。でも香山さんに言われたように、出来るだけ英語で過ごそうと考えていますので、しばらくの間は行方不明になるつもりです。まぁ便りの無いのが良い便りと思っていてください。」
小野原勉がランドクルーザーのドアを開けて乗り込み、
「そうそう、忘れていましたが、わたしの不在の間、この家は自由に使ってください。窓も開け閉めしなくちゃなりませんから。」
と言葉を繋いだ。
「それは任せてください。少し遠い所に住んで居ますがこちらへ来る度に管理人になりますよ。女を連れ込むような事は100パーセントありませんから心配しないで言ってきてください。」
香山も笑いながら言った。
「じゃ、帰ってきたら電話を入れますからその間よろしく。あっ、ショッピングセンターまで一緒に走りますから。」
小野原が言うので香山が
「なら、税理士は後回しにして先にショッピングセンターの方へ行きますから、ついてきてください。」
と言ってエンジンをかけた。