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第七章  1995年7月


第七章  1995年7月



「なんだよ、お袋、誰か知ってる人がいるって、お前が言ってたんじゃないか。どこにいるんだ。」

 空港で待ち合わせをしていた筈の千恵子が見あたらない。全く知らないブリスベンの空港で初恵は戸惑った。

「まぁ、お前の友達ってそんなもんだよ。いいからタクシーで行こう。ホテルはちゃんととってあるんだから。」

 と、征次が荷物に手をかけてタクシーと書かれた表示に向かって歩き出した。仕方なく初恵も従った。

「最初からこれだもんなぁ。お前の友達ってのは誰も信用が出来ない。」

 タクシーの中で征次が毒づいて目を閉じた。以後は一切の言葉を拒否するかのように。


「千恵子、どうして空港へ迎えに来てくれなかったのよ。」

 ホテルの部屋に入ると同時に、初恵は千恵子の電話番号を廻して毒づいた。

「あれぇ、初ちゃんが来るのは明日と思っていたのよ。今日は何日かしら。」

 電話の向こうで千恵子がカレンダーでも見に行ったのか、言葉が聞こえなくなった。

「初ちゃん、ごめ〜ん。今日だったのね。わたしの勘違い。で、今はどこからかけてるの。」

 初恵は千恵子が電話の向こうで舌を出しているのを想像しながら、

「もういいわよ。ホテルに入ったから。約束どおり明日通訳を連れて来てね。部屋番号は2301だからね。」

 初恵は返事も聞かず電話を切った。


 ホテルはカジノのあるコンチネンタルホテルだった。小さなホテルで、小さな部屋を想像していた初恵は、やっと落ち着いた部屋を眺め回し、セミスイートの大きな部屋を予約してくれた浩一に、今更ながら感謝の気持ちを抱いた。

 大きなテラスがある。初恵はそこへ足を踏み出した。手すりにもたれかかってゴールドコーストの景色を眺めてみた。ここブロードビーチからは北に見られる多くのビル群。あれがサーファーズ・パラダイスだろうか。南の方は余り高さの高いビルは無い。東の眺めは幾つかのビルの間に太平洋が広がっている。

 それにしても大きな広い空だ。しかもこんな青い空は久しく見たことが無かった。空気も全く汚染されていないようにうまい。

「やっぱり日本なんかよりここがいい。」

 初恵は千恵子に感化され、夢にまで描いていた見知らぬゴールドコーストを実感してつぶやいた。そこへ部屋の電話がなり始めた。征次はカジノが有ると聞いて勇んで出て行ってしまった。初恵は恐る恐る受話器を取り上げた。

「おう、無事に着いているな。何も問題は無かっただろう。」

 耳に当てた受話器から浩一の声が飛び込んできた。一瞬、初恵は優しかった時代の浩一を頭に浮かべて言った。

「あっ、あなた。はい、何も問題なく着きましたわよ。」

「そうか、まぁ心配することは無かったんだが、着いたかどうかの確認に電話をしたんだ。部屋はどうだ気に入ったか。」

「はい、綺麗な大きな部屋で安心しましたわ。でも、地球の裏側にいるのに、随分と近くにいるように綺麗に聞こえるわよ。」

「ははは、そうだね。僕も10日ぐらいしたら一度そっちへ行くから、またその時には連絡するよ。それまでに店の候補地を探しておいてくれ。勿論、住む家もな。じゃ、電話代が高いから切るぞ。」

 浩一は言うだけ言うと受話器を置いてしまった。

「まぁ、こんなものね、やっぱり。まぁいいわ。」

 初恵はつぶやきながら受話器を戻した。


「こら、いつまで寝ているのよ。早く用意して。お迎えが来ているのよ。」

 征次の部屋に来て初恵が揺り起こした。既にラウンジには千恵子と通訳が待っている。

「はいはい、急いで急いで。」

「なんで、俺まで行かなくちゃならないんだよ。」

 征次がぐずぐず言いながらも起きてきたので、初恵はラウンジに戻った。

「ごめんなさいね、息子が寝坊なものだから。すぐ来ますからもう少し待ってくださいね。」

「じゃぁ、とりあえず通訳をしてくれるこの人を紹介だけしておくわね。亀井靖之君って言って若い人だけれど、こっちの大学に通っていて、不動産に詳しいものだからお願いしたの。千葉市で大きな会社の会長さんの息子さん。よろしくね。そして、初ちゃんごめん。わたし今日はお付き合い出来ないの、主人に付き合わされる事になっちゃって、今、下に迎えに来ているからもう行くわね。じゃぁ亀井さんよろしくお願いしますね。」

 千恵子が頭を下げて、部屋から出ていった。

「なぁんだ、千恵子は薄情な人だわ。じゃぁ、亀井さん悪いけどお付き合いお願いね。」

「はい、何でも任せてください。と言ってもまだまだ英語の方は得意じゃ無いんですけどね。でもだいたいの事はわかりますから御心配の無いように手配はいたしますよ。」

 初恵は言葉を丁寧にハキハキと話し、礼儀正しい目の前の若者を眺めて、つい自分の息子征次と比べてしまう。

「そう、あなた千葉市内って言ったわね。私達は東京だけれど、すぐお隣の江東区よ。それよりあなた、大学生って言ったわね。今起きてくる息子なんだけれどこっちの大学に入れるって事は出来るの。」

 初恵はふと閃いた事を聞いてみた。

「えぇ、それは簡単ですよ。最初に大学の中にある語学学校に入学するんです。そうして簡単な英語のテストを受けて、受かれば本コースへと移れますから。これが一番早道でしょう。でももし彼の英語が素晴らしければ、そのまま直接大学のテストを受ける事も出来ますが。」

 亀井が応えた時に、征次が出てきた。

「何の話をしているんだい。」

「あぁ、お前の学校の事を聞いて居るのよ。」

 初恵が答えた。

「ちょっと早いんじゃないか。まだ昨日来たばかりだぜ。」

「おはようございます。撲、亀井靖之と申します。昨年からこちらの大学に通っていまして、今日はあまりうまくは無いのですが通訳をさせていただきます。」

 征次の話を遮って、靖之が立ち上がりお辞儀をしながら言った。

「あっ、すみません、おはようございます。よろしくお願いします。」

 征次も釣られて立ち上がり、靖之に挨拶を交わした。

 初恵はそれを横から見ていて、この人と付き合わせたら征次も少しは良くなるかなと思った。

「じゃぁそろそろ出発しましょうか。今日の午前中はリムジンをチャーターしていますのでゆったりと廻れますけど、時間が無いので急ぎましょうか。」

 亀井が先に立って部屋のドアを開けた。


「すごい車だねぇ。なんだよ、これは。あれっ、ワインやウイスキーまで入ってる。こっちはグラスなんかも。」

 征次が車に入るなりすぐさまあちらこちらと扉を開け始め、感嘆の声を張りあげた。

「ははは、このリムジンはストレッチ・リムジンと言いまして、普通の車の1.5倍ぐらいに車体を長くしています。普通サイズのリムジンも有るのですが、やはりこっちの方が広くてゆったりですからね。じゃ、とりあえずサーファーズ・パラダイスの不動産屋から始めましょうか。」

 亀井はそう言って運転手に向き直って行き先を英語で指示した。

「亀井さんは、ここ来て何年になるの?」

 初恵が聞いてみた。

「そうですね、まだ1年と半分を過ぎたところです。」

「じゃぁ、日本でも英語が得意だったの?」

「いえ、僕は大学入学に失敗してこっちへ来た組みですから、英語もですが頭が悪くて駄目な人間ですよ。まぁ、英語は慣れですから、それぐらいいるだけで誰でも簡単に僕ぐらいしゃべれるようになれますよ。」

 亀井が恥ずかしそうに答えた。

「えっ、亀井さんも受験失敗組なの。じゃぁ僕と同じじゃん。」

 征次が急に親しみを持ったように素っ頓狂な声で叫んだ。

「あんまりこんな事は言いたく無いのですがねぇ。」

「でも、でも、亀井さんってこっちの大学生でしょう。今は何を勉強しているの。」

 亀井の言葉を遮るように征次が聞いた。

「えぇ本当は法律を勉強したかったんですが、今は経済です。こっちは大学を卒業したらそのまま会計士の資格が貰えますからね。法律だったら卒業だけで弁護士ですよ。だから日本の大学よりか良いと今では思っています。」

 亀井が説明した。

「じゃぁ、あなたは卒業したら会計士さんになるのね。」

 と初恵が聞いた。

「いえ、資格は資格で持っていて、僕はこちらで不動産業をしたいんです。あっ、着きましたからこの話は又あとにしましょう。とりあえず降りてください。」

 制服に制帽の運転手がおもむろに開けたドアを初恵と征次が出たのに続いて亀井が運転手にウインクをして出た。


「さて、こちらです。お入り下さい。」

 二人は亀井に言われて、不動産屋の自動ドアを入った。

 事務所はたいして大きくは無い、従業員も見渡した限り7、8人程度だ。既に亀井から連絡が来ているのだろう総ての従業員が眼を向けた。その内、金髪の上品なおばあさんが立ち上がって近づいてきた。

「いらっしゃい、さぁどうぞ、こちらへ」

 とでも言っているのだろう。手の動作でその様に思える。その女性に続いて亀井が入って行ったので、二人も素晴らしい調度の応接室に入った。座れと指定されたイスはアンティークで綺麗に磨かれていた。お尻が沈み込むような感じの長居をしそうな座り心地の良いイスだ。

 その女性が、何かを我々に向かって話し掛け、日本と同じように名刺をくれた。なんとその名刺の裏面には日本語が書かれていた。読むとこのおばあさんがここの社長さんだ。言った言葉はウエルカム程度だろう。

「じゃ、話は総て僕の方でしますから、勿論途中で何を話しているかぐらいは通訳します。さて、何から話しましょうか。」

 亀井が聞いた。

「そうね、まず聞いて欲しいのは日本食レストラン用の貸店舗を見せて欲しいのと、私達が住む家を一軒買いたいのよ。今はそれだけ。」

 初恵が言った。

「じゃぁ、」と言って亀井が英語に訳して、社長のローズマリーに話している。

「今、ローズマリーが探してくれますが、予算は幾らかと聞いています。」

「予算、予算ねぇ。全然、相場も判らないからある物全部見せて頂戴。」

 初恵が戸惑いながら言った。

「判りました。でもたくさん有るはずですから全部見ることは無理でしょうね。とりあえず場所はこのサーファーズ内に限定しましょうか。」

「そうね、そうしてちょうだい。」

 亀井は初恵から聞いて、再びローズマリーに向かって話し出した。途中から彼女は内線電話で何かを話している。数分後に数枚のコピーが事務員の手によって届けられた。

 テーブルに並べられた書類を見ながら、

「英語は判らないけれど、図面になったら楽だなぁ。」

 と征次が言った。

 又々内線でかかって来た電話をローズマリーがとり何かを話して、二人に向かって何かを話して部屋から出ていった。

「今、何て言ったの。」

 初恵が亀井に聞いた。

「別に大事な事じゃぁありませんよ。用事が出来たので、ごゆっくりと言った挨拶だけです。それよりか、一つ一つ見てみましょうよ。まずこれ。」

 と言って亀井が指さす物件の図面に二人は視線を戻した。

「これはビーチ沿いの物件ですね。でも面積が小さいかな。72平方メートルって書いてますね。どのぐらいの広さをお考えですか。」

「えっ、それって何坪なの。」

「そうですねぇ、20坪ちょっとかな。」

「それじゃぁ狭いわねぇ。せめて倍以上は欲しいわ。50坪ぐらいで探してみてよ。」

「判りました。え〜とこれも小さいか。これは200平方メートル有りますね。あっ、これがいいかも知れませんよ。だってメインのハイウエイに面していますし、ファーストフロアーと書いていますから二階ですよ。70坪程度だから良いですよね。ちょっと待ってください。」

 と言って亀井は応接室から出ていった。

「さっきから聞いていると、母さんは何も考えて来て無いんじゃないか。」

 征次が怒ったように言った。

「そりゃそうよ、お父さんが言い出したのが一週間前でしょう。旅行の事ばかりでこっちの事なんか考える暇なんか無かったわよ。まぁ今日は見るだけで、お父さんが10日ほどしたら来るから、その時にあとのことは全部して貰うからいいの。」

 初恵が投げ捨てるように小声で言った。

「すみません、お待たせしちゃって。今聞いてきたのですが、この物件はここから歩いてすぐのところですし、今丁度見ることが出来るそうなんです。どうですとりあえず見に行きましょうか。」

 亀井が応接間に入ってくると同時に言った。

「よし、見に行こう。」

 征次が言って立ち上がった。


 その店は歩いてほんの2分ほどで、大きなホテルの2階に有った。以前は土産物屋だったそうで、壁などはある程度内装されている。広さも大きく感じられた。初恵が、ここに厨房、ここはカウンター、ここのトイレはこっちへ移動して、倉庫をここに作ってとブツブツ言いながら先に立って店内をくまなく見て回った。こうなると昔取った杵柄だと征次はうしろで苦笑した。まぁ初恵が気に入ったようだと征次も亀井も思った。半時間もウロウロしただろうか。亀井はそろそろ潮時だと考え、

「ここはこのホテルがオーナーなんです。今のところ日本料理の店が無いのでかなり乗り気になっていますから、家賃の方はけっこう値引きしてくれると思いますよ。いっそここに決めてしまいましょうか。」

 と言った。

「う〜ん、わたしはいいのだけれど、お父さんが大蔵省だから。ちょっと待ってね。10日もしたらお父さんが来るから、その時に決めますから。」

 初恵の気持ちは既に固まっているのだが、大きな買い物だからと、二の足を踏んで返事を返した。

「でも、最近は店舗の流れが早くって10日もしたら、よその人に決められてしまっているかも知れませんよ。とりあえず少しでも手付け金を入れて押さえておいた方が安心できますよ。」

 亀井が熱心に薦める。

「母さん、亀井さんが言うように手付け金を入れようよ。あとは親父には俺が言ってやるから。」

 征次の一言で初恵も腹をくくり、

「そうね、ここは良さそうね。じゃぁ、亀井さんここに決めます。あとはどうすれば良いの。」

 と言った。

「じゃぁ、さっきの不動産屋に帰って書類を作りますから、一緒に行きましょう。」

 亀井がそう言って店舗の入り口方向へと歩き出したので、二人も従って出た。


「これが手付け金の領収書で、これが契約書です。ホテルに帰ってからゆっくりと読んでください。もし判らないところが有りましたら、いつでも電話を下さい。じゃぁとりあえずホテルまでお送りします。ホテルに着いたら簡単に昼食を摂り、昼からは僕の車に乗り換えて住宅の方を見に行きましょう。それでは、お忘れ物の無いように、いいですか。では。」

 出口で、従業員全員の見送りを受け、リムジンの窓からローズマリーと握手を交わして車はホテルへと向かった。

「よかったですね。良いところが見つかって。さっきの不動産屋は店舗賃貸のエキスパートなんですよ。やっぱり専門は専門に任せるものですねぇ。昼からは別の不動産屋へ行きますからね。住宅の方はやっぱりサーファーズ・パラダイスが良いですか。それとも周辺の方がよろしいのですか。」

 車の中で亀井が聞いた。

「家の方は征次、あんたが決めなさい。」

 初恵は頭の中がレストランの事で一杯なので征次に振った。

「え〜、それは無いぜ。どんな家でも良いって言うのなら、文句を言わないなら俺がやるけど。知らないぜ。」

 征次がドギマギして返事をした。

「いいわよ、気に入らなかったら又売ればいいじゃない。」

「判った。じゃぁ俺が決めるぜ。本当に知らないぜ。」

 リムジンの後部座席で話を聞いていた亀井が言葉を挟んだ。

「ところで、マンション、こちらではハイライズと言うのですが、マンション形式がいいか、普通の土地付きがいいのかを決めて下さい。それと予算もね。」

「予算って言ってもだいたい幾らぐらいするんです。」

 初恵も全く予備知識無しなので戸惑いながら聞いてみた。

「マンションなら3000万円ぐらいから、普通の住宅なら5000万円ぐらいから有りますよ。」

 亀井が答えたのに初恵が反応して言った。

「マンションって言ったら鍵一つで生活できるから、マンションの方が良いわね。征次もいいでしょう。」

「あぁ、どうでもいいよ。いっそのこと俺の名前にしてくれたらもっといいけれどなぁ。」

 征次が言った。

「じゃぁ、やっぱり、サーファーズあたりから見てみましょうね。ホテルで貴方方が昼食を摂っている間に、僕が一足先に探して来ますから。さあ、ホテルに着きましたよ。じゃぁ僕は2時にお迎えにあがりますので、この玄関に出てきてください。」

 亀井がリムジンから降り、言ってすぐ二人と別方向に行こうとしたので、初恵が言った。

「あのう、このリムジンのお支払いは。」

「あぁそれはあとで総て清算しますから、今はいいです。それではごゆっくり昼食をお楽しみ下さい。では。」

 急いでいるのか亀井が言うやいなや行ってしまった。

「どうしよう、お昼は。」

 初恵が征次に聞いた。

「どうしようったって、とりあえず書類なんかを部屋へ放り込んでこようよ。飯はそれから考えたらいいじゃん。」

 征次と初恵はエレベーターに乗り込んだ。


「こないねぇ、どうしたのかしら。」

 初恵と征次は玄関で待てと言った亀井を待っている。既に約束の2時を10分も過ぎている。車はひっきりなしに玄関前に止まっては出ていくのだが、どの車にも亀井は乗っていなかった。

「なんだよぅ、あんまり信用できない奴だなぁ。」

 征次が言った時、遠くで二人を呼ぶ声が聞こえた。玄関の遙か向こうに数台の車が停まっている。その中の一台のドアが開けられ呼んでいる人間が見えた。

「あっ、お母さんあの車だよ。」

 征次が言って出入りする車の隙間を縫って歩き始めたので、初恵もうしろを追いかけた。

「亀井さん、凄い車じゃないですか。これってロールスロイスじゃないの。亀井さんの車?」

 征次がビックリして亀井に聞いた。

「えぇ、お客が来る度にリムジンを雇っていたら高くつきますから、親父が買ってくれるっていうからいっそのことこんな車にしたんです。でも学校に行くには運転手みたいですからイヤなので、別に小さな車も持っていますがね。」

 亀井が答えながらドアを開けたので、征次が助手席、初恵は後部座席に座った。

「亀井さんって、凄いお金持ちなんですねぇ。」

 征次の言葉まで変わってしまった。

「い〜え、金持ちは親父で、僕はいつまでたっても貧乏ですよ。さぁ、もう一度サーファーズへ行きましょう。」

 亀井が答えて車を走らせ始めた。

「いいなぁ、俺もちょっと親父に頼んでみようかな。」

 征次が後を振り返って初恵に言った。

「馬鹿ねぇ、あんたはブラブラのプー太郎でしょう。そんなのでは何を言っても聞いてくれないわよ。大学にでも入ったら言って見る事ね。」

 初恵が言った。

「そうそう、マンションを見たあとに、大学の方も見に行きましょうよ。オーストラリアにある唯一の私立大学がゴールドコーストにあるんです。そこなら入学は結構楽ですから。」

「へぇ、それはいいねぇ。俺は家よりそっちの方を先に行きたいねぇ。」

「征次さん、そう言いなさんな。不動産の方を優先してくれなければ僕の生活に影響しますからね。大学の方は僕に任せてください。今、法学部の方では生徒数が少ないって言ってましたから入れますよ。卒業したら弁護士ですよ。その頃には僕も商売を始めていますから、弁護士になった征次さんが仕事を手伝ってくれたらいいなぁ。」

 亀井が持ち上げるように言ったのをまともに受けた征次が、

「弁護士かぁ。響きがいいなぁ。弁護士になったら親父も文句は言わないだろう。」

 後部座席の初恵に向かって征次が言った。

「馬鹿だねぇ。何言ってンの、あんたが弁護士なんかになれる筈が無いじゃないの。そんな夢みたいな事ばかり言ってないで、しっかり考えなさいよ。」

 初恵は勿論息子の学力程度も判っている。こんな愚息が弁護士なんかになれる筈がないと確信を持って、馬鹿にしたように言った。


「さぁ、さぁ、着きましたよ。」

 車は大きなマンションの玄関先に滑るようにして横付けにされた。亀井が言ってドアを開けた。

「一足先にキーを借りてきましたので、不動産屋へは立ち寄らずに直接来ました。さぁ、入ってみましょう。」

 3人が玄関に立つと、両開きの大きなとびらが自動的に開いた。大理石を敷き詰めた床を歩きながら、初恵は、ここは高いだろうなと思った。広いロビーの片隅にカウンターがあり、若くもない女性がこちらを見ている。亀井が手を挙げて近づき話をしている。

「ここは夜になると玄関ドアはロックされて入居者以外は誰も入ってこられなくなります。昼間も管理人さんがああやって見張っていますから、変な人は自由に出入り出来ませんからセキュリティは完璧です。だいたい新しいハイライズはこんなシステムになっています。さぁ、行きましょう。」

 と亀井が言ってエレベーターに入った。21のボタンを押して、

「こちらはイギリス方式で1階はグランドレベル、2階から1、2、3階と数えますから実際は22階ですね。最初は僕も戸惑いました。さぁ着きました。」

 随分と早いエレベーターだ。征次がものを言う前に22階まで上がった。エレベーターホールから左右に、厚手の絨毯を敷き詰めた廊下が続いている。廊下の反対側には大きなガラスがはめ込まれ、ゴールドコーストの景色が一望出来る。3人は廊下の突き当たりまで歩いた。亀井がキーを差し込んで扉を開けた。入るとすぐが、広いラウンジだった。その外側にはそこでパーティでも出来そうな広さのベランダがある。すべてガラス張りの窓からは南太平洋が完全に見渡せる。こちらがマスターベッドルームですと言う亀井に連れられて広いベッドルームに入った。ここにも広いベランダがついている。

「凄い部屋だなぁ。あれこの扉はなんだろう。」

 と開けたと同時に征次が言った。

「母さん、ちょっと来てみろよ。凄い風呂がついてるぜ。面白い設計だなぁ。寝室にくっついて洋服部屋が有ってその奥にこんなに広い風呂部屋がついているなんて。秘密の部屋みたいじゃん。この風呂場だけでも俺の今の部屋よりか大きいぜ。」

「まぁ、ほんとう。凄いわねぇ。」

 二人が感動しているのを横目にみながら亀井が言った。

「その浴槽には最初から泡の吹き出し口が付いていますよ。疲れた時なんか泡風呂にゆっくりと浸かるのもいいものですよ。その浴槽から眺める景色も良いです。ちょっと浴槽の中に入ってごらんなさい。いいですよ土足のままで。」

「ほんとだ、ここからカジノが見えるぜ。」

「部屋数は3つ有りますから、そちらも見てみましょう。」

 亀井が言ったので、初恵も景色を見てみたかったのだが仕方なく諦めて亀井に続いた。

「ここがキッチンです。すべて作りつけのシステムキッチンです。これがオーブンで、これがディシュウオッシャー、いわゆる皿洗い機ですね。」

 亀井が言ってその扉を引き下げた。

「へぇ、こんなに大きな皿洗い機。見たことないよ。ねぇ母さん。」

 征次は何にでも感動するタイプらしい。

「そうね、何でも揃っているみたいで本当に便利がよさそうねぇ。」

「こちらと、こちらがベッドルームです。それぞれにローブが付いていますから、日本のようにタンスで室内の広さを狭められる事は有りません。そしてこちらがトイレと風呂場です。その横の扉を開けると洗濯室が付いています。どうぞ御覧になってください。」

 亀井が言うので征次はベッドルームへ、初恵は洗濯室へと入った。

「あらまぁ、アイロン台から洗濯機、乾燥機まで付いているのねぇ。収納庫も充分ね。」

 亀井の耳に初恵の驚きの声が聞こえてきた。

「亀井さん、ここ良いよ。俺はここで良いと思うよ。幾らなのかなぁ。」

 征次が亀井の横に来て聞いた。

「まぁ、そんなに焦って決めなくてもあと幾つも見に行きますから、それから検討してくださいよ。ちなみにここは少し高くて日本円で5600万円です。次に見に行くところは少し安くて4000万円です。まぁ見てから比べてください。」

 初恵も横に来たので、

「じゃぁ、次の物件を見に行きましょう。」

 と亀井が初恵に向かって言った。

「別にそんなにたくさん見なくったっていいわよ。わたしもここが気に入ったわ。」

「まぁ、そう言わないで、これこうやって不動産屋からキーまで借りてきているのですから見るだけお付き合いくださいよ。」

 亀井がポケットから鍵を取り出して顔の前でプラプラと振りながら言った。

「仕方がないわね。じゃ行きましょうか。」

 と言って初恵が入り口に向かって歩き始めた。ふと玄関ドアの前で振り返り、窓から見える南太平洋の景色を見たり、台所の方を眺めたりして、

「やっぱりいいわぁ。」

 とため息をついてドアを開けた。


 車に乗ってからも初恵は感激を多くの言葉で言い、別の物件は見なくても良いと言った。

「まぁ、そう言うなって。次のを見て比べりゃ良いんだから。」

 征次がなだめ役になった。ほんの少し車に揺られただけだが、

「はい着きましたよ。」

 と亀井が言った。そこはゴールドコーストハイウエイに沿った高層マンションだった。

「ここは8階です。でも9階です。変ですねぇ間違わないでくださいね。」

 亀井がエレベーターの前に立ち止まって言った。中に入ったエレベーターのカーゴで建物の古さがにじみ出ていた。

「ここは少し古いので安いのですが、裏側がネラングリバーになっていましてマンション専用の桟橋があります。勿論入居者専用ですから、ボートでもお買いになったらここから直接太平洋へと出られますよ。」

 亀井の言葉が終わるやいなやエレベーターの扉が開いた。


 廊下の壁はモルタルに吹き付けされているだけで、さっきのマンションのような高級感は全く無い。しかも両サイドに部屋が有るので、廊下の灯りは電気の照明だ。亀井が部屋の前で鍵をカチャカチャ言わせながら、

「あれ、おかしいなぁ、入らないや。こっちのキーかな。あっ、これだこれだ。」

 と言ってようやくドアを開けた。さっきのに比べてみて少し狭いかなと感じた部屋からはゴールドコーストの山並みが遠くに見渡せる。ベランダに出てみて下を覗いた征次が言った。

「あぁ、あれが桟橋ですか。でも誰も船は停めていませんね。」

「えっ、そうですか。ここはそんなに金持ちが住んでいないのかなぁ。」

 亀井がうしろの方の言葉は濁して言葉少なく言った。

「亀井さん、もう他のマンションなんか見る必要はありません。さっきの部屋に決めますからね。」

 初恵が急に亀井に向かって強い口調で言った。

「なんだよぅ。俺に決めさせるなんて言ったくせに。」

 征次が口を尖らせて言ったが、別に物件に文句を言っている訳では無さそうだ。よしよし魚が食いついたぞ。亀井は心の中でつぶやいた。

「はい、判りました。そしたら明日契約書なんかを用意してホテルの方へ参ります。英語の契約書ですけれど僕が説明しますから安心してください。手付け金は幾らかお持ちになっておられますか。」

 亀井が最後の一押し、フッキングだと考えて言った。

「えぇ、現金はそんなに持ってきてないけど、トラベラーズチェックならたくさん有ります。それでも良いでしょう。」

 初恵がおずおずと答えた。

「はい、そりゃあ問題有りませんよ。とりあえず1割りの手付け金を頂くのがしきたりですので御用意下さい。部屋の引き渡しは1ヶ月後となりますがよろしいでしょうか。」

 亀井が言うのに、

「えっ、それは困るわ。お金は問題ありませんけど、もっと早く出来ないかしら。だってホテル代だって勿体ないし、その分家具を買ったりする分に足せるでしょう。何とか早く出来るようにしてちょうだい。」

 初恵がせき込んで言った。

「判りました。でも弁護士の手続きなどで最低でも2週間は必要ですので、特急でやって貰ったとしてもやはり2週間は頂きませんと。」

「仕方がないわね、絶対に買うからその作業は今日からでも初めてちょうだい。」

 ようしやった。フッキング成功。あとは釣り上げるだけだ。今度の魚は大きそうだ。亀井は心の中でほくそ笑んだ

「判りました。今から大学の方へ行って、帰ったらすぐ不動産屋に手配をさせるようにします。じゃぁ早い方が良いでしょうから、すぐ大学の方へ行きましょう。」

 3人はまとまってエレベーターへと歩き、ロールスロイスに乗ってボンダイ大学へとやってきた。

「なんだ、もっと遠いところに有るのかと思っていたのに、こんな住宅街にあるなんて信じられないよ。新しい校舎だね。」

「そうですね、まだ大学自体が設立されて15年ぐらいかな。」

「へぇ〜建物を見たら去年にでも出来た感じだけれど。」

「ははは、そりゃぁ日本と比べたら駄目ですよ。日本なら15年も経たら建物の外壁はどす黒くなってしまいますが、やはりこちらの空気が綺麗なのでしょうね。いつまで経ってもこの様に綺麗な外壁ですよ。」

 亀井が笑いながら征次に答えた。

「じゃ、もういいわね。亀井さんホテルまで帰りましょう。」

 急に初恵が言い出した。

「何言ってンだ、今来たばっかりじゃないか。まだ大学の中も見ていないし。」

 征次が俄然と抗議をしたが、

「いいの、大学の中なんかあんたが入学したらいつでも、イヤになるほど歩けるんだから。亀井さんに早く帰って貰ってマンションの手続きを始めて貰う方が大切な事なのよ。」

 初恵が言い張るので、亀井と征次は顔を見合わせてお互い、肩をすぼめて大きく両手を広げた。まるで外国人のような仕草だ。

「はいはい、判りましたよ。じゃぁ、亀井さんホテルまで送っていってくれますか。」

 征次が言うので亀井も同意して車を走らせた。


「じゃ、明日の朝、9時頃に部屋までお伺い致します。」

 亀井がホテルの前で二人を降ろしてから言った。

「はいはい、じゃ、よろしくお願いしますわね。9時ですね。お待ちしていますよ。」

 初恵も挨拶を交わして征次と共にホテルの中へと消えた。そのまま亀井は車を走らせてパシフィック・フェアー・ショッピングセンターの駐車場へと入れた。車の中で携帯電話を取り出し、手慣れた指でボタンを押した。


「あぁ、親父かい。ちょっと儲け話が有るんだよ。いいから、いいから、ちょっと聞けよ。俺の客がマンションを買うんだけど、中抜きをやってるから一旦親父が買うんだ。そうそう、中抜きだよ。親父もよくやってたじゃないか。でもな、こっちは法律でうるさいんだ。だから親父が一旦買うんだよ。明日その契約をするから今日中に買ってしまわないと問題になるからね。」

 電話の向こうで親父が考えている様子が見える。

「幾らで買って、幾らで売るんだ。」

 しばらくして親父が聞いた。

「3400万円で買い。5600万円で売り。費用は200万円ぐらい。簡単な計算だろう。親父の取り分は2000万円だよ。まっ、少しは俺にも小遣い銭はくれるだろうけれどね。俺も金は持っているから出しても良いけれど。銀行を通して送金の実績を作っておかないとまずいだろう。親父に金が足りないなら俺から送っても良いぜ。」

 亀井靖之が親父の心配を跳ね飛ばすように言った。

「金は問題ない。今からでもすぐに送ってやる。銀行に電話をすれば良いだけだからな。でも契約書のサインなんかはどうするんだ。」

「何を言っているんだい。今まででも親父のサインで俺が何でもやってきたじゃないか。こんな時は親父と俺の姓が違うッてのは便利のいいもんだな。じゃ、手続きを始めておくぜ。頼むよ。」

 亀井は電話を切るとポケットからタバコを取り出して火をつけゆっくりと煙を吐き出し、

「これで今日の収入は2500万円ぐらいかな。」

 とつぶやいた。




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