第二十三章 酒場
第二十三章 酒場
金曜日の夕方、香山と小野原は、ダルビーの町へと出掛けた。当初、香山が小野原に酒場へ行って酒を飲んでいると必ず誰かが話し掛けてくるから、それを無料英語教師として考えれば英語力が見る間に付くと教えた。それが毎週の習慣となった小野原に今日は香山も参加した。 週末の酒場は喧騒そのものだった。カウンターの前もテーブルも総て色んな職種の人々で埋められていた。すこし隙間を見付けカウンターへと進んだ二人がそれぞれの好みのビールを頼んだ。そのビールを受け取り何となく乾杯と言いグラスを合わせた二人に横で飲んでいた一人の農夫が聞いた。
「あんたら日本人か?」
60歳をとおに過ぎて、そろそろ衰えが訪れる頃合いの男だった。
「そうだよ。」
香山が少し考えながら言った。実は香山は既に国籍を移しているのだから本質的にはオーストラリア人である。
「あんたは先週も見かけたが、こっちで何をしているんだ。」
酒に酔ったくさい息を小野原に吹きかけながらその男が聞いた。
「えっ、わたしはリタイアでこちらへと来ている。」
小野原勉が急に話し掛けられたので少しぎこちない言葉で言った。
「リタイアした都会者がこんな所で面白くも無いだろう。毎日何しているんだ。」
酒臭いからみ口調でしつこく聞くので小野原が
「何を言ってるんだ。こんな良い所は無いぞ。空は綺麗だし、空気はうまい。土地は広くて、人は良い。」
と、褒め称えてやった。
「お前ら日本人は金持ちだから、町へ行った方が楽しいんじゃないか。」
何となく喧嘩調に言葉がなってきた。これはまずいと小野原は考え廻りを見回すと、二人の会話に興味を持っているのか廻りの総ての人々が見ていた。
「でもな、町には恐竜がいないからな。」
小野原が言葉を返した。
「なんだと、恐竜だ。わははは。こんな所で恐竜探しているだと。わははは。」
酔っぱらいのお爺さんも含めて廻りの人々が笑い出した。
「なんか見つけたのか。」
別の人間が聞いた。
「樹木の化石以外はまだ見つかっていない。でもこの香山さんなんかここで数年間掘り続けて居る人なんだぞ。」
と言って香山を振り返った。しかしそこには香山の姿は無かった。そんな時、
「おーい、おーい。ミスターおの・・」
と、呼ぶ声が聞こえた。見回すと5メートル程離れたところでジェイソン課長がビールのグラスを挙げて小野原を呼んでいた。小野原はここで話していたら殴り合いになるかも知れないと危惧を覚え、人混みをかき分けながらジェイソン課長の方へと進んだ。なんとそこには香山も来ていた。
「ははは、酔っぱらいにからまれていましたね。」
「何ぁんだ、香山さんも知っていたのですか。助けてくれると思っていたのに振り返ったら居ないから、先に逃げたかなと思いましたよ。」
小野原が口を尖らせて言った。
「ははは、いい英語の勉強でしょう。実は本当に逃げ出したのですよ。このジェイソン課長を見つけましたからね。」
ジェイソン課長は制服警官も含めて数人で飲みに来ていた。
「制服で飲みに来るなんて日本じゃ考えられませんよ。」
小声で小野原が香山に言った。
「何言ってるんです。みんなの服を見てご覧なさい。制服姿じゃ無いのは我々ぐらいですよ。まぁ農家の親父なんかは農機具メーカーに貰ったシャツなんかですがね。どうですみんな胸にどこかの会社ネームが入っているでしょう。いわゆる新宿や新橋なんかの立ち飲み酒場に背広に会社のバッチを付けて飲み戯れている人間とどこも変わりませんよ。」
香山が小声で言った。
「そう言われてみたらそうですねぇ。それにしても警察官の制服はまずいですよ。」
「でもね、通勤途中でもみんな制服ですから、家に帰る前に一杯やっていると言うのは何もやましい事はありませんからね。」
小野原には説明されても納得出来ない。
「この前はありがとう。御陰で昨日犯人を捕まえましたよ。」
ジェイソン課長が横から声をかけた。
「えっ、そうですか。それは早いですねぇ。さすがジェイソン課長だ。おめでとう。」
小野原がグラスを挙げて嬉しそうに言った。
「でもな、ところがだ。まる2日もの間、否認を続けているんだ。誤認逮捕だとまずいのでねぇ。」
ジェイソン課長の顔に少し暗い影がさした。
「その犯人は、どういった人物なのですか。」
廻りはすべて警察官なので声のトーンを下げる必要も無い。
「日本人だよ。被害者の息子。」
ジェイソン課長が追加のビールを注文しながら背中越しに言った。
「やっぱり、わたしもそんな気がしていたのですよ。」
香山が小野原にささやいた。
「そうですね。わたしも単純にかんがえていましたよ。でもそんなに否認するとなればもう少し深く考えなければなりませんね。」
物思いに耽って小野原が言った。
「やっ、こんな所に居た。俺の話はまだ終わっていなかったんだぞ。」
さっきの酔っぱらい農夫が横から声をかけて来た。小野原を探して人混みをかき分けて来たようすだ。
その農夫は手にしていたビールジョッキーを傾け一口飲んで言葉をつないだ。
「もう1年も前の話だが、ムーニーハイウエイで日本人のレンタカーにぶつけられたんだ。」
酔っぱらったその人が言葉をそこで切った。小野原はそれで日本人を怨んでいたのかと推察した。
「それでな、わしの車は畑の横に停まっていたんじゃよ。そこへフラフラ走ってきたそのレンタカーが後ろから突き当たってきてな、」
「おい、爺さん。それは何時頃の話だ。」
ジェイソン課長が気の毒に思って言葉を挟んでくれた。
「なにさ、朝の4時頃だよ。」
「おい、爺さん。そんな早い時間にあんたは何をしていたんだ。」
「おまえさん、警察見たいな聞き方をするねぇ。」
言葉と同時にジェイソン課長は内ポケットから警察手帳を取り出して酔っぱらいの顔面に突きつけた。
「ははは、なーんだポリか。なら仕方がねぇや。」
その農夫は心持ち沈んだように言った。
「それでどうしたんだ。」
ジェイソン課長が話の先をうながした。
「へぇ、それが面白い奴で。車のよこでションベンをしていたわしが、見に行ったら。頭を押さえながら出てきて、わしの手に100ドル札で10枚を握らせるんだ。ビックリして何の金だと聞いたら修理代だと言うんじゃ。まぁ古いピックアップで1000ドル出せば買えるような車の修理代に1000ドルもくれる日本人は金持ちだと思っただけじゃよ。その日に自分で修理したからただで出来たし、夜中の事だから、この近くに住んでいる日本人の家からどこか町の方へでも帰る人かなと思って、この人が住んでいると言うものだから聞いてみようと思ったんだ。」
農夫がゆっくりと話したので小野原にも総て聞き取れた。
「それで、あんたはその日本人を見つけてどうしようというのだ。」
ジェイソン課長がまだ尋問調に聞いた。
「へぇ、そんなにたくさんの金を貰う訳にはいかないので、半分でも返そうと思っていたんです。」
農夫が答えた。
「おい、爺さん。そんな必要はない。全部もらっときな。」
ジェイソン課長がその農夫の肩を叩きながら言った。
「待てよ。その車をレンタカーと言ったな。それはどうして判ったのだ。爺さん。」
「へぇ、ナンバープレートが黄色のニューサウスウエールズ州ので、車の横に赤い字で大きく、Harなんとかって書いてあったからです。」
「そうか、車の車種は判るかい。」
「白のランドクルーザーでした。わしの一番欲しいくるまですだ。」
その爺さんが目を丸く輝かして言った。
「ははは、なるほどな。それでその男は一人だけで乗っていたのか。」
「へぇ、一人だけだったと思います。」
ジェイソン課長はうまくその爺さんを誘導して聞き出している。
「ところでだな。爺さん。その男の顔を覚えているかい。」
横から小野原が聞いた。
「そうだな、まぁ見りゃ判るかも知れないが、そうそう目が・・・」
「爺さん。目がどうしたんだ。」
爺さんのグラスが空になっているのを見て香山が注文して受け取ったグラスを渡してやった。
「おっ、すまんねぇ。そうだ目だ。話しているときどうも変だったんだ。わしを見て話しているのに目は違う方を向いているんだ。今、考えたら右目と左目が違う方向を向いていたなぁ。だから目だけが印象に強いんだ。格好は普通の背広だった。でもネクタイはしてなかった。身体はわしより少し背が高かったなぁ。」
そこまで一気にしゃべってグラスのビールをゴクゴクと飲んだ。
「よし判った。爺さん、ちょっと付き合ってくれ。すぐ終わるから。終わったら、今日の酒代は警察でもってやるから。」
ジェイソン課長に背をつかれ、ビックリしたような顔でジェイソン課長を見上げた爺さんが困惑した顔を覗かせてそのまま連れて行かれた。
「まぁ、この店の裏側が警察署だから、事のついでにその犯人と思われる人物の面通しに行ったんですよ。」
小野原が香山に言った。
「なぁんだ、そうなんですか。わたしはてっきりあのお爺さんが悪さをして逮捕されたのかと思いましたよ。所でその面通しって何ですか。」
香山が聞いた。
「えっ、知らないんですか。」
「えぇ、そんな言葉は日本語に無いでしょう。」
「それは知りませんけど、証人が別の部屋からガラス越しに容疑者を見て、あれは犯人だとか、違うとか言うのを聞いた事ありませんか。」
小野原が呆れたような顔で言った。
「あぁ、あれね。あれを面通しって言うのですか。」
「まぁ、良いじゃないですか。すぐ終わるでしょうから、帰ってくるまで待ってましょう。楽しくなってきましたね。」
小野原勉は本当に捜査を楽しんでいるように見えた。
15分も経たない内に爺さんがバーへと帰ってきた。
「あれ、爺さん。ジェイソン課長は?」
小野原が聞いた。
「後から来るって言ってたよ。あの人結構偉い人なんだね。知らなかった。」
警察の内部へ入ったのは始めてだったらしく爺さんが、ため息混じりに言った。
「さあさあ、ご苦労さん。爺さんこれ飲んで。」
香山が新しいグラスに入ったビールを手渡した。
「おっ、すまんね。」
受け取ったビールを爺さんは一息で飲み干した。
「やっ、凄い。爺さん飲める口だね。銘柄は何が良いんだ。」
香山が聞いた。
「わしはいつもブイ・ビーのラガーだ。あれが一番うまい。」
「よし、」と言って香山がカウンターの中で忙しそうに働いているウエイトレス婆さんに注文した。
「やれやれ、どうしようも無い馬鹿だよ。俺は。」
ジェイソン課長が帰って来てため息混じりに言った。
「結局、奴は本星じゃなかったんですね。」
小野原勉が聞いた。
「まぁな。でもあと4日は調べてみるつもりだ。」
ジェイソン課長は落胆した肩を更に落として小声で言った。
「ジェイソン課長。ちょっと考えている事が有るんです。釈放する時間と日付を教えてくれませんか。それからあとは我々が尾行してみますよ。」
小野原勉が少し考えてから小声でジェイソン課長に言った。
「ふーむ。犯人で無いと決まったら我々が行動する訳にはいきませんからなぁ。いいでしょう。決まったら香山さんの携帯電話に連絡を入れます。」
ジェイソン課長は少し考えながら言葉を返した。
しばらくの雑談の内、二人は自宅までの帰路についた。
「日本に比べて飲酒運転には気楽な国ですねぇ。香山さんは何杯飲みました?」
小野原が聞いた。
「えっ、数えていないなぁ。10杯分ぐらいは金を出しましたけど、お爺さんに奢ったりしましたからね。それでも5、6杯は飲んでいますかなぁ。」
香山はハンドルを握った片手で数を数えながら言った。
「わたしはもう少し飲んだかな。でもあの店に来ていた人達も車で帰る人でしょう。あの前で飲酒運転の取締りをやったら一晩でノルマ達成でしょうな。」
小野原勉が言った。
「まっ、一番に小野原さんは逮捕でしょうな。ははは。それよりか警察官がそこで飲んでいるのですからまずはありっこないでしょうな。ところでさっき小野原さんがジェイソン課長に頼んでいたでしょう。あんな日にちを聞いてどうするんです。」
香山が聞いた。
「あぁあれね。ちょっとした考えがありましてね。今捕まっている人物を少し尾行してみようかなと考えているのです。まぁ暇つぶしの遊びですよ。いっそのこと香山さんも同行しますか?」
小野原勉は軽く言葉を放った。
「なんと。小野原さんはやっぱり警察根性が抜けきってませんね。そんなことをしても何の役にもたちませんよ。経費もかかるし。まぁ、わたしは止めときましょう。」
香山は気が進まないので断った。
「まぁねぇ。でもこれを解決してあげれば。もしダルビー界隈で飲酒で捕まったりした時に少しはお目こぼしをしてくれるかも知れないじゃないですか。ははは。まぁ遊び、あそび。」
小野原は楽しそうに笑いながら言った。