第三章 1993年8月
第三章 1993年8月
亀井靖之は小さな中古車店で程度の良いベンツ190Eを買った。勿論、おやじにねだって金を送ってもらった。
車を購入するについてもそれなりの交渉事もあるし、何分にも店員が説明してくれている事柄も半分以下しか聞き取れない。靖之は自分自身の英語力に疑問を持った。同時に英会話学校で習っている英語が全く用をなさない事もわかった。
靖之はワーキングホリデービザを持ってオーストラリアへと来ているのだから一年間は滞在することが出来るし、働く事もできる。それなのに英語学校へ入るときにスチューデントビザの申請をするかと聞かれた。
無駄なことだ。
無駄なことと言えば、オーストラリアへ来る事にしてもそうだ。別に来たくも無かったのだが、受けた大学のことごとくから拒絶され、少しノイローゼぎみになって、何事にも母親へ当てつけていたのを父親が新聞広告でワーキングホリデーサポートと言うのがあることを見て、勝手に申し込んだ。靖之も目的があるものでもなく一年ぐらい外国へ行くのもいいかなと単純に手続きをした。
ゴールドコーストへ着いてからサポート会社が、パンフレットに書かれているとおりのサポートをしてくれないのに大きな不満を持った。だがインターネットが無料で使えるだけに毎日その事務所へと通った。それもコンピューターの台数に限りがあり、なかなか順番が回ってこない。サポーターが居る窓口カウンターへ行っても少し前に自分と同じようにして来た若者がたった1,2ヶ月先にゴールドコーストに着いたと言うだけで、一人前の顔をしてサポーターとして働いている。だから、ちょっとした事を聞いてもすぐには答えが返ってこない。廻りは総て日本人ばかりで勿論会話は日本語。こんなことなら千葉で住んでいても同じ事だ。
ある日同じ時期に同じ会社のサポートで渡豪して知り合いになった可愛い女の子からゴールドコーストにある大学の英語学校へ通っていると言うのを聞いた。早速一緒に行き入学申し込みをした。
「おやじいるかい」
靖之は久し振りに千葉の家に電話をすると若衆に言った。
「あっ、若ですか。山です。お久しぶりですねぇ、えっオーストラリアからですか、ちょっと待ってください」
若衆は電話機を握ったまま走り出した様子で、家の中を走り回りおやじを捜している。その言葉が逐一電話機から流れてくるのを靖之は苦笑しながら待った。
「おう、靖之か、どうだそっちは寒くないか。」
久し振りに聞くおやじの声だが何故か親近感は持てない。
「うん、まぁ冬だからね。それよりこっちの大学へ通うことにしたよ。そして大学の近くにアパートを借りる事にしたからさ、金を送って欲しいんだ。」
「なに、大学へ入った。そりゃ本当か」
親父がびっくりしたように聞き直した。
「うん、本当だよ。でも最初は語学だけだけれど、一年ぐらいしたら本コースへ移れるそうなんだ。だからこっちで経済でも勉強しようと思ってる。」
靖之は中学も高等学校も英語は大の苦手科目だったが、可愛い女の子と一緒に居れるだけで決めた後ろ暗さがあったが親にはそれと知られないように虚勢を張って言った。何しろ金だけを送ってくれればいいのだから。
「そうかそうか、おい母さん、靖之がオーストラリアの大学に入ったそうだ。」
うしろに居るのか母親に話し掛けている親父の声が聞こえる。
「ところで、大学の入学金や学費で年間2万ドルぐらいと、アパートの敷金や権利金で1万ドルぐらいいるんだ。それに学校まで結構遠いから車も買いたいからちょっとまとめて送って欲しいんだ。」
「そうかそうか、よしよし、明日にでも銀行から振り込んでやるよ。ちょっと待て、幾ら振り込んだらいいんだ。」
やはり親父は金銭感覚が無いらしい。
「うん、車も買うから500万ぐらい送ってよ。」
「どうしてそんなにいるんだ。」
「何言ってるんだい、大学の費用で200万だろう、アパートの費用が100万だろう、それに車を買うから500万円。判った?」
靖之がうるさそうに言った。
「よし判った。でもちゃんと勉強はするんだろうな。」
うるさい親父だ。
「判ったよ、心配するなって、じゃぁな電話代が高いので切るよ。」
靖之は親父からの返事も聞かないで電話を切ってしまった。




