第十三章 早川浩一逃避計画
第十三章 早川浩一逃避計画
「お前、真面目に仕事をやっているのか。もう昼じゃないか。今からブリスベンの事務所へ行っても働く時間なんか無いじゅないか。」
浩一が寝ぼけ眼で二階の寝室から降りてきたパジャマ姿の征次に向かって言った。
「なんだよう。仕事はちゃんとやってるぜ。今日はたまたま午前中の客が無いし、社員が全員いるから俺はいいんだ。まぁ飯を食ったら出掛けるから心配しなさんな。」
征次が台所のドアを開けながら振り返って言った。
浩一は全くどうしようも無い奴だとつぶやきながら立ち上がって、開け放たれた窓をとおして広いカナールを横切って走るクルーザーの雄姿を眺めた。
「俺も、もう歳だし、息子がこれだから、今の内に誰かに会社をバトンタッチしてから引退し、こっちへと来て、あんなクルーザーを買って太平洋のど真ん中で釣りでもしながら暮らすってのも悪くはないな。」
早川浩一が考えている後ろから
「親父、お袋はどこへ行ったんだよぉ。」
と征次が声をかけた。
「ガキじゃあるまいし、いつまでもお袋お袋と言うんじゃねぇ。美容院へでも行ったんだろう。」
「ちぇ、仕方ないなぁ、飯抜きで仕事に行くか。」
浩一の言葉で征次は寝室へと引き返した。
「何だよ。あの馬鹿親父。来たら来たで、文句ばっかり言いやがって。奴は俺達に金だけ渡していりゃいいんだ。今でも数十億も振り込んできているくせに全部自分の口座に入れちまって。くそったれだ。」
征次はつぶやきながら背広を着て、ベンツ500のキーを握った。
征次の運転するベンツ500は、彼の事務所が有るブリスベン方向の北向きとは正反対の南向きに走り続けている。
「馬鹿親父め。会うと毎回小言しか言う口を持って無いのかよ。このベンツを見たときでも、何だこんな奇妙な色の車を買って、バカヤロウだもんな。どこが悪いんだよアンバーカラーでいい色じゃねえか。」
つぶやきながらカジノの駐車場へと車を滑り込ませた。
「あら、いらっしゃい。どうしたの昨日は来なかったじゃないの。」
カジノの入り口に特別に設けられたエレベーターに会員用のカードを挿入して乗り込み、7階のVIPルームへと入った征次に、日本人担当の女性マネージャーが目敏く征次を見つけて言った。
「うちの馬鹿親父が来てるんだ。ここに通っている事がばれたら又、何を言われるかも知れないからね。たまにはお休みしないとなぁ。」
「へぇ、大変なのね。さっきから陳さんが貴方を捜していたわよ。バーに行ってご覧なさい。でもあの人と余り付き合わない方がいいわよ。」
女性マネージャーが征次の耳元でささやいて離れていった。ほのかに香る芳醇な香りに征次はつかの間酔いしれて、彼女の後ろ姿を眺めていた。
「おう、征次。今日は遊ばないのか。昨日は来なかったじゃないか。」
バーへと入った征次を見つけて、早速、陳が立ち上がり近づいて言った。陳は香港から20年も前から移住してきている。顔立ちは典型的な中国人顔をしているが征次とこうやって話していると周囲の人間からはよく、兄弟かと聞かれる。その都度陳のいないところで俺は日本人だと憤って説明する。陳は容貌からみてもたいして大金持ちには見えないのだが、カジノに来る客に対してその資金を貸し付けている。カジノでは御法度の事だが、今のところ問題も無いので公認されたように振る舞っている。実際このフロアーで居る限り食事も飲み物も総て無料であるから、見た感じではゲームにみずから掛け金を賭ける事もしない陳は、浮浪者のたかりの様にも見られる。聞くと数億円の金を客に貸し付けているらしい。先月、征次も負けが込んだ時に1万ドルを用立てて貰ったことがある。100万円程だが、その時はその金で倍程度の金を稼ぐ事が出来たから。外へ出て陳に日本食レストランで奢ってやった。
「今日は親父が来ているので遊ぶ金が無いんだ。だから飯だけ食いに来た。」
征次もこの程度の英語は話せる様になっている。
「それは可哀想な事だなぁ。そんな飯だけに来るなんて寂しいじゃ無いか。少し貸してやるから遊んでいけよ。」
陳がそう言って100ドル札の束を征次の手に握らせた。
「そうだな。じゃぁ、ちょっとやって行くか。」
誘惑に弱い征次がいつものバカラテーブルに座った。
「どうですか、出目は?」
隣に座っている日本人の出目メモを覗き込んで征次が聞いた。
「いやぁ、駄目です。さっきからわたしの張る反対ばかり来るんです。今日はついてません。
あっ、熊谷先生じゃないですか。お久しぶりです。ここへは良く来られるのですか。」
征次の顔を見たその客が言った。しかし征次には見覚えの無い顔だった。
「えぇまぁ、たまには生き抜きも必要ですからね。」
征次は言いながら、彼のメモを見て、バンカーサイドに1000ドルを張った。それを見て
「今回は絶対にプレイヤーサイドですよ」
と、その日本人が言って同じく1000ドルチップをプレイヤーサイドのボックスへと置いた。
ディーラーが手さばきも見事にカードを配り、バンカーサイドで一番大きな額を張っている征次の前にカードを配った。いつものように征次は配られたカードを覗き込むようにして端を少しだけ持ち上げ1枚をめくった。ハートのキングだった。
「よし、」
と声を出し、残る1枚のカードも同様にして見た。
「よーし」
再度声を出しそのカードを表に返して強くテーブルに打ち付けるように置いた。
プレイヤーサイドはテーブルの向かい側で座っている中国系と思われる2万5000ドルのチップを賭けている人物が受け取り開いた。そのカードが示した数字は合計で18だった。
「よーし」
征次は大きな声で叫んで、ディーラーが積んだ1000ドルチップを手元に戻した。
「やっぱり、わたしの感は駄目ですなぁ。今日はこれまでにしますかな。」
と言って隣の日本人が席を立ったが、征次は返事も返さなかった。
続いてのカードは征次の前を通り過ぎ、2つの席を挟んだ中近東系の人間へと配られた。征次がそのカードに注目していると、彼は無造作に2枚のカードをめくり「ちぇ」と言葉を出した。カードの合計数字は17だ。プレイヤー側は18を引いた。征次の負けは1000ドルだ。ここで引き上げれば陳さんに利息だけを払えば良いのだが、ゼロで帰るのも癪だし、家に帰ってもうるさい親父が居るだけだからと、次のゲームに2000ドルのチップを積んだ。
「陳さん、最初の方はうまく勝ってたんだけど、最後の読みで目が変わってしまったんだ。あと2万ドルだけ貸してくれないか。」
征次がバーで飲んでいた陳の側に寄ってきて耳元でささやいた。
「いいよ。ノープロブレム。征次さんならもっと貸しても良いですよ。じゃぁちょっとこっちへ来てください。」
と言って先に立って歩き始めたので征次も続いてトイレへと入った。
「じゃぁ、これ。4万ドルあります。さっきの1万ドルも合わせて合計5万ドルの1日分の金利だけは引いてありますからね。」
と言って陳が封筒に入った現金を征次に手渡した。
「へぇ、随分と用意のいいことだね。」
と中身も見ないで背広の内ポケットへと征次はしまい込んだ。
テーブルに戻った征次は、負けを取り戻そうとの意気込みで1回のゲームに5000ドルずつ賭ける事にした。
翌日、家を出るときには親父にブリスベンの事務所へ行くと言って出たが、10時に征次はカジノへと出勤した。毎日の日課としてここへと来るものだから、自分でもどちらが職場かも判らなくなるほど錯覚を覚える。しかし、親父への手前、現金を掴んでの出かけには、事務所へ出掛けると言う言い訳は通用しない。だから今日も手持ち金はゼロでVIPルームに入った。バーを見ると陳さんが早くからワイングラスを傾けていた。
「朝早くから飲んでいるんですね。」
征次がうしろから声をかけた。
「あぁ、ビックリした。なんだ征次さんか。どうしたんです。今日は早いじゃないですか。」
陳が振り返って愛想のいい笑いで言った。
「親父がまだ日本に帰らないので夜は出て来られないからなぁ。不便な生活だよ。所で今日も少し貸してくれないか。親父は一週間もしたら帰る筈だから、そうしたらすぐに返すよ。」
「まぁそんな事でしたら、気にする事じゃ無いですよ。前にも言いましたが征次さんなら幾らでも貸して良いとボスからも言われていますからね。じゃ、連れションにいきましょうか。」
陳は相変わらずの笑顔で言ってトイレへと向かった。
「少しずつじゃ気持ちも小さくなって、大きな勝負が出来ないでしょうから今日はこれだけ持っていてください。」
と言って大きなずしりと重い封筒を征次に手渡した。
「幾ら入っているんだい。」
重さを確認した征次が言った。
「たった20万ドルですよ。勿論、昨日の5万ドル分の金利も引いてありますから、気にしないで賭けてください。もし必要なら1億円分ぐらいは1時間も時間をくれたら用意をしますよ。聞くところに寄れば征次さんはもう1億円ぐらいこのカジノにつぎ込んでいるんでしょう。いっそのこと大きく賭けて取り戻しちゃいなさいよ。簡単でしょう。1億円を1回のゲームに賭けて勝てばすぐ元の損は取り返せるんだから。1万ドルや2万ドルをちまちま賭けていても1億円を取り戻すのには大変な時間が必要ですからね。まぁ、頑張ってくださいや。」
そこまで言って陳は出ていった。征次は陳の言った言葉を反復しながら小部屋に入り、便器に腰を降ろした。
「それもそうだ。あいつの言う事はしごく尤もな事だ。1億円稼ぐには1億円賭けて一発勝負をすれば瞬間で今までの損を全部取り返せるじゃないか。なんで今までそれに気づかなかったんだろう。よし、やってくるか。」
と、つぶやいて征次はトイレを出た。
昼を少し過ぎた頃、陳を見つけた征次が言った。
「やっぱり陳さんが言った様な賭け方をしないと負けた分は取り返せませんね。出来たら明日、1億円分を用意してくれませんか。」
「そうでしょう。征次さんみたいにあんな賭け方をしていては絶対に1億円もの損は取り戻せませんよ。判りました。明日の昼過ぎ、丁度この時間に来てください。それまでにカジノの征次さんの口座に1億円を入れておきますから。」
征次は腕時計を見て時間を確認してうなずいた。
「じゃ、明日は征次さんの一世一代の博打を見せてください。待っていますよ。」
陳の言葉を背に征次はVIPルームを後にした。
翌日2時頃まで時間をつぶした征次がVIPルームに顔を見せると、陳がいつもの笑顔で近づいて来た。
「言われた様にちゃんと1億円分のお金をドルで征次さんの口座に振り込んでいますから、あそこの窓口でバウチャーを発行して貰って来てください。」
と言った。バウチャーとはカジノで使える金券のようなものだ。征次は言われたように1ミリオンドルのバウチャーを発行して貰った。
テーブルに座るといつになく人が多い。ディーラーも今まで見たことの無い中年の男だ。ハゲ上がった頭に一目見ただけで判るカツラを乗せていかにも年齢でサバを読んでいると言った感じの男だった。征次が座ると同時に新しいカードを総て扇状に並べ、ゲームに参加している客へと確認させたのち、総てをバラバラにかき混ぜ、一纏めにして大きく二つに割り、その一つを何度もシャッフルした。続いて残る一山のカードも同じようにシャッフルし、二つの山をまとめてカードホルダーへと収めた。
ディーラーが手には何も細工をしていませんよとでも言うように両手を広げ、手のひらを客全員へと見せ、ポンと手を打って、カードホルダーから数枚のカードを引き抜いた。引き抜いたカードは全員に見せられてテーブルの穴から捨てられた。いよいよゲームの開始だ。
征次はディーラーの前に1ミリオンドルのバウチャーを投げ出した。それを受け取ったディーラーはテーブルの上の所定の位置に横向きで置き、その横に25万ドルチップを4個置いて、フロアーマネージャーの確認を待った。寸秒も置かずマネージャーが来て、視認し「オッケイ」と言い、征次にウインクをして消えた。
征次は受け取った4個のチップを一度に賭ける度胸がまだ無い。4ゲームほどを他のプレイヤーが楽しむのをタバコを吹かしながら見ていた。今までのゲーム進行過程では自分の予想を総て満たしていた。いわゆる今までの4ゲームをバンカーサイドに賭けていれば4億円を稼いでいた勘定だ。でも次に来るのはどちらかが判らない。征次は25万ドルチップをディーラーの手元に放り投げた。それを受け取ってディーラーは1万ドルチップに替えて、そのチップの山を親指と小指を立てたげんこつで征次に押し返してきた。
征次はその中から10枚のチップをバンカーサイドのボックスへと積んだ。いわゆる1000万円を次のゲームに賭けたのだ。征次の手元に2枚のカードが配られた。いつものようにカードの上を軽く叩き、下の一枚を抜き出しカードの端を折り曲げるようにして見た。絵札だ。続いて残る1枚のカードも同じようにして見た。征次は二枚のカードを重ね裏返したままディーラーへとテーブル上を走らせる様にカードを投げた。受けたディーラーが表に返し、プレイヤーサイドのカードと並べ、バンカーサイドの勝ちを告げた。
「よし、幸先はいいぞ。」
征次はつぶやいて、勝ち金として掛け金の横にディーラーから積まれた10万ドルを前回に賭けた掛け金の上に重ねた。いわゆる次のゲームは同じバンカーサイドに20万ドルを賭けると言う意思表示だ。いよいよ考えていた1億円には及ばないが2000万円の博打だ。
ディーラーが「よろしいですね」と、掛け声をかけてカードを配り始めた。今回のカードはバンカーサイドが強よしと考えた数人の客の内、征次より多くの金額を賭けた客へと配られた。
「よし、やった。」
その客が表に現したカードを見て征次が大きく叫んだ。征次の前には更に20万ドルが勝ち金として積まれた。征次の声や勝った客の大声に周辺にいた人々が徐々にその位置を替え、征次の後ろ側に集まってきた。勿論勝っている客を応援するためだ。征次はその勝ったチップを更に上に積み上げた。一つのタワーが建ったみたいだ。観客のざわめきにふと気がついた征次が振り返って見回すと数十人の観客が征次の掛け金に驚いて声援を送ってきていた。ふと征次は閃いた。
「待てよ、今までで何回バンカーサイドが来ている?1、2、3、・・・6回か。よし。」
征次は手を伸ばして総てのチップを手元にと引き寄せた。数えてみると1,3ミリオンドルになっている。少しはディーラーにチップとして引き算されているから1億2500万円ぐらいであろうか。よし今度は絶対にプレイヤーサイドに来る。征次は確信した。よし一世一代の博打だ。征次は持っている総てのチップをプレイヤーサイドのボックスへと押しやった。後ろでは「うわー」と言うざわめきが流れた。征次は注目されている自分を背中で感じていた。ディーラーが又々フロアーマネージャーを呼んで掛け金を確認させた。そのフロアーマネージャーは軽く「オッケイ」と言って、テーブルの横に立った。
カードが配られた。プレイヤーサイドに賭けている客は征次だけで他は総てバンカーサイドに掛け金が積み上げられている。
「ふふふ、見てろよ。みんなから巻き上げてやる。」
つぶやいて征次はいつもの様にカードの上を軽く叩いた。下側のカードを見た。折り曲げるのが少なくてカードの隅に有るはずの数字が見えない。もう一度折り曲げ幅を広げて見た。何とハートの2だ。最低のカードを引いてしまった。でもまぁ次のカードで7を引けば合計9になる。次のカードは更に慎重に折り曲げて見た。そんな馬鹿な。絵札だ。
「ちくしょう」
言葉と共にディーラーの手元にカードを投げつけた。バンカーサイドのカードは合計で17のステイ。よし、あと1枚。ディーラーから配られた。
「7以上になればいいんだ。5でも6でも、7なら最高だ。プレイヤーサイドのあとから配られたカードは7だったから、必ず小さなカードが続いて居る筈だ。よし来い。」
ディーラーの前に並べられているカードを見て、征次はつぶやきながら手元に配られた1枚のカードに手を伸ばした。
「よし、来たぞ」
征次がカードの隅を持ち上げて、数字が見えない事で、思った通り小さな数字が来た事を知って言葉を吐いた。
「うわー・・・」
後ろで大きなどよめきが起こった。征次が引いたカードはクローバーの3だった。そのどよめきをかき分ける様にして征次はVIPルームをあとにした。
翌日、征次は弁護士事務所で陳からの電話を受けた。
「どうしたのです。今日は真面目に仕事ですか。」
「昨日はくやしくて眠られなかったよ。今でも最後のカードが目の前をチラチラしているよ。どうだい、もう一度復讐戦をやりたいんだが今夜にでも1億円を用意してくれないだろうか。」
征次の答えである。
「そうでしょう。あそこまで勝ち進んでいたのに残念でしたね。でももし最初の2回のゲームにわたしが言った様に賭けて居たら今では2億円の大金持ちでしたよ。」
陳が煽るように言った。
「そうなんだよ。あそこで失敗だった。今夜はじっくり見極めて勝負をしたいんだ。」
「わかりました。早速ボスに連絡を取ります。では。」
と陳は言って電話を切った。しかしその返事は征次が弁護士事務所を出るまで無かった。
8時きっかりに征次はVIPルームに立った。見回したが陳の姿が見えない。仕方なくバーへと行き、夕食を摂っていなかったので積まれたサンドイッチを両手に掴んで座るべきイスを探した。
ウエイトレスが飲み物の注文を聞きに来たので征次は口にサンドイッチをほおばりながらビールを注文した。そのビールが届けられたところで陳がエレベーターから出てくるのが見えた。征次は声を出さず、陳に向かって手を振った。
「昨日は残念でしたな。」
陳が真向かいのイスに座って、ウエイトレスにヘネシーを注文してから征次に言った。
「まぁね。うまく行くと思ったんだけどなぁ。でも今日は陳さんの言うようにやってみるつもりだよ。」
早く金の話をしろと言うように征次が返事を返した。
「そうそう、その事なんですが、今日あれからボスの所へ行ってきましたよ。ボスが言うのにはね、貴方に貸すのは1億円をリミットとわたしに言ったそうなんです。だから今は貴方に2500万円も余分に貸してしまっていると怒られてしまいました。少し返して貰えますか。」
陳が決まり悪そうに言った。
「待てよ。それは無いぜ。まだ親父がゴールドコーストに居るから、金を動かす事は出来ないんだ。それは陳さんにも言ったじゃないか。」
征次が少し慌てて言った。
「えぇ、それはよく判っているのです。でもわたしはボスの言う通りにしないと命がなくなりますから。お願いしますよ。」
「そんなこと言われても、今すぐなんて出来ないですよ。」
「まぁ。わたしも征次さんの言う事はよくわかるのですが、ちょっと待ってください。電話をしてきます。」
陳が言って電話ボックスへと入った。数分で出てきて言った。
「ボスが言うのですが。明日、ブリスベンの事務所の方へ朝10時頃お伺いしますとの事です。必ず居てくださいね。もし居なかったらわたしは貴方がどうなるかは知りませんからね。最初から命までは取りませんが、手や足の一本ぐらいは覚悟していてくださいね。では明日10時に。」
征次の返事を聞こうともせずに陳はエレベーターへと消えてしまった。
「えっ、先生、今日は早いですね。」
弁護士3人が共有して使っている秘書の内田遥香が朝の挨拶も忘れて言った。
「うん、今日は10時にお客が来るからね。来たらすぐ僕の部屋へ通してくれたまえ。お茶は、うーん、コーヒーでもいいか。コーヒーを頼む。お客が来てから人数分を隣の喫茶店に注文してくれ。それにしてもみんな来るのが遅いね。もう9時半を過ぎているよ。」
征次が返事を返した。
「えぇ、今朝は皆さん裁判所の日ですから。」
遥香が答えた。
「あっ、そう。じゃ、頼むね。」
征次は腰を挙げて自室へと入った。
「先生お約束のお客様が参られました。お通ししてもよろしいでしょうか。」
デスクに向かったままうつらうつらしていた征次はハッとして立ち上がった。
「どうぞ」
入ってきたのは陳を先頭にして70歳程の白髪の紳士だ。続いてのっそりと部屋に入りドアを閉めてそれにもたれかかる様にして立った大男を征次は見て震え上がった。
「じゃぁかけさせてさせて貰いますよ。」
征次が座れとも言わないので、白髪の紳士がそう言って、征次の机の前にある、総革張り製の豪華な応接イスの一つに腰を降ろした。
「いかがです、貴方のイスですから遠慮なくお座りになったら。」
その言葉で征次はおずおずと腰を真向かいのイスに降ろした。
「まぁそんなに堅くならないで、別に貴方を食べに来た訳じゃありませんから。まっ、端的にお話をしましょう。そうですね、この陳からの話では既に1億2500万円を私どもからお使い頂いて居るそうでありがとうございます。ただ、私どもの貴方へ供する金額の上限を1億円としておりましたが、この陳が間違って多くを貸し付けてしまいました。だから、昨夜はこの陳に少し痛い目をして貰いました。おい、陳の背中を見せてやれ。」
征次に言いながら、首を大男に廻して紳士が言った。大男が陳のうしろに廻り着ていたシャツを無造作に引き上げ、その身体を征次に見せた。一瞬征次の目は陳の背中に釘付けにされたが、気持ちを振り払う様に顔を背けた。
「昨夜、陳さんにも言いましたが、まだ親父がゴールドコーストの家に居るのでお金を動かす事ができ無いのです。数日中に日本へ帰りますからそれ以後でしたらすぐに返済出来るはずです。だからもう少し待って欲しいのです。」
征次が震える声を抑えながらその紳士に言った。横から大男が大声の中国語で叫んだ。
「バカヤロウ、何をくだらねえ事を言ってやがる」
とでも言ったような感じに征次は聞こえて又々震え上がった。その時扉の向こうでガラガラガッチャンと大きな物音がした。ドアを開けて陳がウエイトレスに言った。
「お嬢さん、飲み物は要りませんから外へ出ていてください。」
その声を聞いて征次は又々震え上がった。
「まぁね、先生。別に先生をどうこうするなんて事は考えておりませんから、そう堅くならないでお話をしましょう。先生だってこんな大きな弁護士事務所を経営なさっておられるのですからこんな1億円少々のお金なんてはした金じゃ無いんですか。とりあえず、わたしが今日こうやって出てきたのですから、今用意出来るだけの金額は持って帰らせてくださいよ。いかがです。ちょっと事務員さんを呼びましょうか。おい。」
征次には優しく話し掛けるのだが、最後に大男に向かって指図する顔は親分顔丸出しだ。遥香が呼ばれて部屋へと入ってきた。
「お呼びでしょうか。」
遥香も部屋の雰囲気を察知して客を見ないで征次に向かって聞いた。
「うん、今現在現金では幾ら銀行にあるのかい。」
征次が聞いた。
「えっ、よろしいのですか。こんな所で言っても。」
遥香が焦って聞いた。
「あぁ、お嬢さん。私どもには気兼ねなく、先生に聞かれた事は素直に話してあげてください。」
その紳士が優しく言った。
「はい。昨日確認致しましたが残高は120万円と少々です。」
「何だって、そんな物しか残っていないのか。他の口座はどうなんだ。」
征次が遥香の答えに動揺して聞いた。
「他の口座と言いましても、別会社の方は完全にマイナスになったままですし、信用口座には亀川様からの入金が5000万円程あるだけです。」
遥香が答えた。
「何だ、有るじゃないか。それを全部降ろしてきてくれるかい。」
征次がホッとして言った。
「えっ、でもこれは信用口座で私どものお金ではありませんよ。」
遥香が慌てて言った。
「なに内田君言っているんだい。その口座も僕の口座だろうだったら何も問題が無いじゃないか。出して。出してきてくれ。」
征次はイライラしながら遥香に言った。
「あのぉ、先生。信用口座ですから、先生のサインだけではお金を出すことは出来ないんです。」
遥香がこんな所で先生に信用口座の解説までしなくてはならないのかと思った所へ、
「先生、信用口座と言うのは先生を信用してお客様が一時期口座を借りているというわけだから先生のお金じゃ無いんですよ。でもその本人のサインが入った委任状が有れば出すことが出来るのですよ。委任状はお持ちですか?」
その紳士が言葉を繋いでくれた。
「へっ、そうなのか。でも亀川さんのサインを貰った白紙は有ったな。」
征次が遥香に聞いた。
「はい、確か亀川さんが会社を設立なさるときに必要な事が有るかも知れないから余分にと、白紙にサインをしていただいたものが数枚有ると思います。」
遥香が答えた。
「よし判った。それを一枚持ってきなさい。」
遥香はしかしと、言いたそうな顔だったがドアを開けて出ていき数分後に1枚の白紙用紙を持って入ってきた。
「じゃぁそれに委任状としてタイプしてくれたまえ。」
征次が言った。
「えっ、あのうわたしには出来ません。」
遥香が違法行為に携わるのはイヤだと拒否をした。
「何を言っているんだ。委任状を書くだけだろう。」
征次が強く言った。
「でも、イヤです。わたしには出来ません。」
「まぁまぁ、二人ともそんなことは言ってないで、先生直々に書かれるのが筋道じゃぁないのですか。」
紳士が遥香に助け船を送ってくれた。
「でも、先生は書けませんもの。」
遥香が紳士に言った。
「えっ、弁護士の先生が委任状を書けないのですか。」
とビックリ顔で征次に向かって言った。征次は下を向いたままだ。
「おい陳。お前が草案をペンで別の紙に書け。そこのパソコンで打ち込んで貰うのは先生にやって貰う。パソコンぐらいは打てるでしょうね、先生。」
紳士が聞いた。
「はい。少しぐらいは・・・」
征次が、しおれた花がいっそうその茎をしおらせた様につぶやきながら頭を下げた。
「よし決まった。陳、その先生の机を使って書け。そうそうお嬢さんその間に日本茶が有りましたら、この爺さんに一杯入れてくれませんかね。」
紳士は陳に言ったその顔を遥香へと向け替えてやさしく言った。




