5.
俯いた顔が上げられ、少女の顔がはっきりとアルカスの目に映る。
儚げな真白の雪の肌に、陽光に煌めく、長い銀の髪。
そして、酷く印象的な、全てを吸い込んでしまうような、黒曜石の瞳。
まるで精巧に作られた人形のような、その容姿は、どこか人間離れしているようで、美しく、そして恐ろしくもあった。
「き、君は……?」
アルカスは恐る恐る少女に声をかける。
少女は黙ったまま、アルカスたちの方を向いた。無機質な黒の目が、二人を真っ直ぐに捉える。
全体的に薄い色素を有する中に、このやけに黒い双眸は、不似合いでもあり、ある種の不気味さと神秘さを醸し出していた。
警戒の体勢を保ったままのカイからは、威圧的な空気が滲み出ている。しかし、少女はそれを気に止めることもなく、ただただ二人の方を見つめていた。時折小さく上下するように見える肩は、少女の呼吸が乱れていること、そしてそれだけ、彼女が何かしら急いていたということを伝えている。
荒い呼吸を整えようと懸命になりつつ、少女はゆっくりと立ち上がった。
ぱさり、と音を立て、巻かれた布が、少女の体から剥がれ落ちる。現れた、彼女の身を纏う、かつて文献で見た古の民族衣装のような、珍しい衣服。白を基調とした布地に、幾何学的な、不可思議な紋様の、赤、緑、青、黄の四色で刺繍を施したその衣服は、少女の華奢な体をゆったりと包む。胸元に輝く、細い鎖から下がった小さな銀の札――恐らくは、彼女の手形だろう――は、衣服と相まって、さらに彼女を幻想的な存在に見せる。
そんな彼女の服、そして、透き通るような白い肌には、あちこちに傷や汚れが目立っている。何がそうさせたのかは、アルカスには見当がつかない。
しかし、それよりも、何よりも、アルカスの目を引いたのは。
「その、手……」
長い袖の先から覗くものに、アルカスは思わず声を漏らす。
彼女の白い手には、克明に刻まれた、黒い紋章――契約の子の証が、確かに存在していた。
契約の子。
光神と闇神に選ばれし、紋章を授かった人間。
逃れられない、契約の証。
光の自分と対となる運命を持った――
「君は……『魔導師』な……のッ!?」
『魔導師』という言葉を口にした、その瞬間、少女の無機質な目が少しだけ見開かれた。
「ルカッ――」
刹那、交錯する、紫と黒。
同時に、自分にかかる物理的な強い圧力を、アルカスは感じる。
気づいた時には、身体は後方へと飛んでいた。衝撃が、全身を伝う。全ては、一瞬の出来事だった。
身体を起こす間もないうちに、少女の黒い瞳が、しっかりとアルカスを捉える。少女の足元から、黒い影のようなものが、見る見るうちに広がり、幾つもの枝に分岐し、アルカスを捕らえるかのように迫ってくる。
(この影は……魔導術の……!)
逃げなければ、ここから。そう本能は告げる。しかし、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、アルカスはその場から動くことも、少女から目をそらすことすらも叶わなかった。
影の枝は迷いなく、まっすぐに伸びてくる。
(早……っ)
満足な反応をする間も無く、影はアルカスの眼前まで迫り、そして。
「…………え?」
時を止められたかのように、分たれた影達は一斉に動きを止めた。
「な……にが……?」
伸びた影は、アルカスに近いところから順に、煙のように姿を変え、やがては大気に溶けるかのごとく、跡形もなく消え去った。
(これは一体……?)
何が起きたのか、とアルカスが思考を巡らす前に、視線の先の少女の黒が、大きく揺らいだ。
「……ぅ……」
消え入りそうな呻き声が、アルカスの耳に届く。
苦しげに、歪む瞳。
瞬間、少女の身体は、ゆっくりと、地へと向かって崩れ落ちた。
「あ……」
地に伝う、小さな衝撃。
倒れ伏した少女の背後に、見えた、黒い影。
「お、前……」
「……まったく、突然攻撃してくるなんて、随分と物騒なことだな……」
冷たい陰りの覗く淡褐色が、少女を見下ろしながら、言った。その手元には、微かに覗く、鈍く光る針。
「カ、イ……? ……今、何を……?」
アルカスは呆然と、少女とその後ろに立つカイとを見やりながら、震えそうになる声で疑問の言葉を口にした。
力なく地に伏す少女は、ぴくりとも動かない。心なしか、色白い彼女の肌は、更にその白さを増しているようにも見えた。その姿はまるで、生命を持たぬ、本物の人形であるかのようで。
嫌な汗が、アルカスの背を伝う。
「まさか……お前……こ、こ……」
声は言葉にはならず、アルカスの喉で止まって出てはこない。
「こ……」
「『殺したのか』……って?」
だとしたら、どうする?
冷たい声色で、カイが言い放った。
「この子は、お前に敵意を示し、攻撃を仕掛けた。……そして俺は、お前の護衛だ。」
「……つまり、それがお前の仕事だって……そう言いたいのか」
カイは何も答えなかった。冷たい目のまま、ただ黙ってアルカスの方を見ていた。
少女に、動く気配はない。
「だからって、何も……」
全身が震え出しそうになるのを堪え、アルカスは声を絞り出した。
「何も、殺すことなんてないだろ!」
半ば叫ぶように、アルカスは言った。カイからは、何の返答もない。
「なんでだよ……なんとか言えよ!」
気づけば、動けないままでいたはずの身体は、カイに掴みかかっていた。カイは無抵抗のまま、アルカスの紫を、冷めた淡褐色で見つめていた。アルカスは更にカイを掴む手に力を込める。
頭の中が、回る感覚。
目の前で、人一人。
目の前で、動かない。
目の前の、現実。
目の前の、男によって――
「『……ナイ、オ前ヲ……』」
カイを掴むアルカスの手元に、光が集まり出した、その時。
「そこまで」
「……え」
身体が宙を、回る感覚。
「……うわ……痛っ……!」
背中に衝撃が走る。
「悪い、大丈夫か?」
アルカスが顔を上げると、先程までの冷たさなどまるで嘘だったかのように、気まずそうに笑うカイの顔があった。
「……な、に……?」
「……いや、ちょっとお前のこと、試させてもらっただけだ」
「……は?」
カイは一旦息をつくと、アルカスの腕を引き、立ち上がらせる。
「ああ、あんまり気にするな。……あと、それから」
カイは地に倒れる少女の元まで行くと、紋章の刻まれたその手に、軽く触れた。
「そうだ、お前……っ」
「大丈夫、ちょっと気絶させただけだ」
「え……?」
ほら、とカイはアルカスを手招いて、恐る恐る近づく彼に、少女の細い手首を握らせる。
浅い、呼吸音。
鈍い、心音。
「……な?」
近づかなければ分からないような、それらの音は、確かに目の前の少女がまだ生きていることを示していた。名も知らぬこの少女が息絶えていないと分かり、アルカスは、ほっと安堵の息をついた。
「……けど、お前……さっき『殺した』って……」
アルカスはふと先程までのカイとのやりとりを思い出し、問う。
「『だとしたら、どうする』、って答えたはずだけどな?」
「なっ……んだよそれ!」
思い返せば、確かにカイの口から少女を殺したということを、はっきりと肯定する言葉は、出ていない。
「……騙したな?」
「お前が勝手に早合点しただけだろ?」
「なっ……」
早合点だと言われればそうだが、いまいち腑に落ちない。アルカスは納得いかないという顔で徐にカイを睨んだ。が、当のカイは、微塵もそれを気にする素振りを見せることなく、話を続けた。
「しかしまあ、魔導術の反動で、大分生命エネルギーを消耗していたみたいだからな……あのまま続けてたら、本当に危なかったかもな」
お前も、この子も。
やはり苦笑しながら言って、カイは大きく息を吐いた。心無しか、その表情に疲れの色を浮かべつつ。
(……ん?待てよ?)
そんなカイを尚も睨みつけていたアルカスだったが、ふと、カイの言葉に引っかかりを感じる。
(そういえば、あの時にも……)
彼の言葉の端々から垣間見える、導術に対する知識。しかし、彼は最初に――
「どうかしたか?」
訝しげな表情をするアルカスに、カイが声をかける。
「いや……あのさ……」
「何?」
「……お前さ、前に……」
最初に、導術はよく知らない、と言っていなかったか。そう問おうとした、その時。
「……ん……」
目の前の少女が、小さく身じろいだ。先程よりも、ほんの少しだけ人間らしい白さに戻ったように見える少女は、しかし、やはりまだその黒い瞳を開けることはなかった。
「…………どうするんだ? その子」
「え……?」
カイの問いに、アルカスは少しの間考えを廻らす。このまま放っておくわけには、まさかいくまい。
「……とりあえず、次の宿場町まで連れていって、休ませてあげよう。この子の目が覚めたら、聞きたいこともあるし」
「……そうか」
わかった、とカイは二つ返事でアルカスの意見を受け入れた。それを意外な気持ちでアルカスは受け取る。
「……何だ?」
「いや……なんか文句や小言の一つくらい言われるかと……」
そう言ったアルカスに、カイは小さく笑って、答える。
「一応、俺は今、お前に仕えている身だからな。お前の決定には、基本的には従うよ」
そんな彼の答えに、アルカスはそんなもんだろうか、と少しの疑問も感じたが、そんなもんなのかと自分の中で納得させることにした。
「まあ、そうと決めたんなら、早いところ行くか」
日も落ちてくるだろうしな、と言って、カイは倒れる少女の体を持ち上げ、自分の背に負った。
「……よし、行くか」
もう一度、大きく息をつくと、カイはアルカスの方を振り返って言う。
「あ、ああ…………?」
振り返った彼の表情に、アルカスは、僅かな違和感を感じた。
「どうした?」
しかし、次の瞬間には、そんな気配は微塵も感じられないものに戻っており。
「あ、いや……その剣、邪魔そうだなと思って」
「こればっかりは、仕方無いな……」
そう言って苦笑するカイは、それまでの彼と何一つ変わらなかった。
(今のは……)
きっと、見間違いだろう。これ以上思考を巡らすことを、疲弊した頭が拒否する。きっと、気のせいだ。アルカスはそう思うことにした。
「ルカ、大丈夫か?」
お前も疲れているだろう。心配そうに、そしてほんの少し不安げに、カイは問う。
「……別に、平気だ。早く行こう」
「……そうか」
再び二つ返事で、カイはアルカスの言葉を飲んだ。