4.
――逃げなければ、ここから。
闇の中を駆ける、小さな影が、一つ。
その身の丈に比べて幾分か大きなローブをまとい、存在を隠すようにして、影は駆ける。布に包まれた中からは、荒い息遣いが聞こえる。縺れそうになる足を、ひたすらに動かし、影は駆ける。「逃げろ」と告げる本能に従うままに。
「全く……手の掛かる事だ……」
その様子を、やや離れた場所から見つめる人影が、一つ。
「まあいい……そう簡単に手に入っても、興醒めだからな」
人影は薄く笑うと、駆ける影に背を向け――消えた。
*
「それで、まずはどこへ向かうんだ? ……アルカス、様」
「そのわざとらしい“様”付けはどうなの」
厭味にしか聞こえない、とアルカスはカイを横目に見やって言う。
「なら……アルカス、か?」
「う……ん……」
自分の名を呼び捨てにしたカイに対し、アルカスはなんとも複雑な気分になった。それは決して、立場上、下である彼から呼び捨てられた事に対する不快感から来ているわけではなく。
「どうした?」
「いや……」
「アルカス」、と呼び捨てにされるのは、どうしても父を思い出し、好ましく感じられなかった。他の者達は「様」付であったり、対等な親しい者同士の会話では、もっぱら愛称で呼ばれたりと、「アルカス」と呼び捨てるのが父以外に居なかったからであろう。
「……大丈夫、か?」
表情の曇るアルカスを案じるように、カイは尋ねる。
生まれ落ちた瞬間から為される、「家族」という契約によって繋がった、たった一人の肉親を、アルカスはどうしても苦手に感じていた。
自分を、ただの後継者としてしか見てくれない、父親を。
アルカスは少しの間黙し、そして、カイの方に向き直って言った。
「……あのさ、ルカ、でいいよ。こっちの愛称の方がなんか楽だし」
「そう……か?」
「うん」
カイはまた少し考えるような素振りを見せたが、「わかったよ、ルカ」、と納得したように答えた。
アルカスは、なんとなくほっとしたような気分になって、一度頷くと、話を続けた。
「とりあえず、このまま行けばもうすぐ、ソルジョーヌ領境の関所に着くと思うんだ」
途端、今度はカイの表情が曇る。
「関所……あー……そうか」
「何?」
あからさまにめんどくさそうな顔をするカイに、アルカスは怪訝な顔をする。
「いや、またあのお役所審査を通ると思うとな……」
「ああ……」
カイの返答に、アルカスはもしや、と思い当たる節を見つけ、恐る恐るカイに尋ねる。
「一応聞くけど、『手形』、持ってないわけじゃない、よね……」
「手形自体は、な。仕事柄、必要な時もあったからな……」
そう言ってカイは、コートで隠れた首元から、銀の鎖を引き出す。引き出された先端で揺れる、小さな、これまた銀製の札には、一行ほど、何やら細かな文字が刻まれていた。
「……なるほどね」
カイの取り出した物を一目見て、アルカスは納得したように頷いた。
「察しが良くて助かる」
「まあね」
伊達に貴族の家で育ってないよ、とアルカスは言う。今までに、教養として政治学などについても、嫌でも知識を蓄えさせられていたアルカスには、カイの意図せんとすることは容易く汲み取れた。
アルカスは、自身の首にもかかった鎖を引き出してみた。先に下がる銀製の小さな札には、彼の出身領を示す百合の紋章――同時にこれは、アルカスの家、ブランネイジュの家紋でもあるのだが――と、数行に渡る、彼の名前と生まれた日を示す文字、そして貴族の生まれであることを示す、三日月形に湾曲した剣の紋が刻まれていた。
このユトレシア皇国は、現在、皇都ダルクールと五つの有力貴族領とで分割統治がなされている。同じ国内とはいえ、領地の境界には関所が置かれ、そこを通過する際には、身分を証明する『手形』と呼ばれる札が必要となるのだ。
通例、名前、生まれ年、出身領、階級、の刻まれる、この銀製の小さな札は、各街や村などにある教会や修道院などで、「この地に従属する人間となる」、つまりは領主ないし皇、即ち法への忠誠を誓う、という契約を、齢十五の成年を迎えた際に交わすことにより交付される。もちろん、この年を過ぎていても、申し出て契約を交わせば、受け取ることはできるのだが。
それでも、成年にしてこれを持たない者――例えば法を犯したような、言うなれば、契約を破棄した者――は、関所を通過することができない。成年に満たず、手形を持たない者も、同伴者なしに領境を超えることはできない。
また、何らかの事情で手形の情報に欠損がある者――例えば、出自不明の者や、家を捨てた者――は、領境を超えるにあたる制約はないものの、皇家や貴族家の直属でもある、関所番の役人からは、穢れものを見るような目を向けられ、何か事があれば真っ先に嫌疑をかけられる存在となる。人間同士における多種多様な関係性、果ては法への従属関係をも、『契約』と呼び、何よりの基盤として重要視するこの国では、それらを捨てた者達に対する目は自ずと冷たいものとなるのも、無理はないのだろう。
随分と面倒な制度を、昔の偉人は作ったものだな、などと、政治学を教わったばかりの頃のアルカスは思ったものであった。もっとも、そんなことを思っているなどと父に知れれば、一体どんなお叱りを受けるか分かったものではないと、幼心に感じていたので、口に出したりなどはしなかったが。
ともかく、恐らくカイは、その何かしらの情報が欠損している者なのであろう。傭兵という身分である以上、故郷や家、ともすれば名前といったものを捨てていたとしても、さほど不思議ではない。そんな人間を父親が雇ったということには少々驚きを隠せなかったが、予想の範疇と言えばそうであったので、アルカスはさして焦ることもなかった。
「……まあ、『僕』がいるんだから、そこまで面倒にはならないと思うよ」
これでも一応、五大貴族の一、ブランネイジュ家の人間なのだから、と、アルカスは少し気まずそうな顔をするカイに言う。――本当は、こんな風に家名を名乗るのは、あまり気は進まないのだが。
「とにかく、その近くに宿場町があるはずだから、まずはそこへ行こう」
少し休みたいし、とアルカスは小さく呟いた。
カイは少しの迷いの後、そうか、と返事をし、空を見上げた。太陽は、一番高いところまで、少しの猶予を残した辺りまで昇っていた。
「この分なら、日が落ちるまでには十分に着けるか……」
さほど急ぐこともないが、のんびりもしていられないな、などとカイが思案していた時。
低い、唸りのような音が、静かな森に鳴り響いた。
カイは、ばっ、と音のした方を振り向く。敵の気配など感じなかったのに、とやや焦りの表情を浮かべて。
「…………」
そこには、焦りと恥とが入り交じったような、複雑な表情をしたアルカスがいた。
「……ルカ……もしかして、腹……」
「違う。……今のは……」
カイの言葉を遮り、言い訳しようとしたアルカスに、何かが投げられる。反射的に受け取ったそれは、綺麗な自然の赤をした実だった。
「我慢するなって」
笑って言うカイを、アルカスはぽかんとした表情で見つめた。その様子に、カイはああ、と一人納得したような顔をする。そして、自分の手元に残った、アルカスに渡したものと同じ実を口元に運び、徐に齧り付いた。
「……ん、まだちょっと酸っぱいか……」
でも旨い、とカイは呟き、アルカスの方を見る。
アルカスは訝しみながらも、カイを真似るように、赤い実に齧り付いた。やや酸味の強い、しかし甘味のある果汁が、口内に広がる。
「……美味しい」
初めて口にした味に、アルカスは素直に感想を述べる。
「だろ?」
そんなアルカスの反応を見て、カイは得意そうに笑う。
「別に、お前を褒めてるわけじゃない」
素っ気なく言い放ちながらも、アルカスは二、三口目を頬張る。普段口にしている物のような、上品さというものはお世辞にも無い。どちらかといえば、粗野な味わいではある。しかし、甘味と酸味とが織り成す絶妙な味は、空いた腹の中に染み渡って、『満たされる』感覚を呼び起こす。病み付きになりそうなこの味は、屋敷にいては到底知ることのできなかった味だった。
「もう完食か」
気づけばアルカスの手にあった赤い果実は、すっかりと無くなっていた。
「いちいち言うな!」
少しはしたなさを感じ、アルカスは恥ずかしさで顔をうっすらと赤くする。
「と、とにかく、小腹も満たされたわけだし、早いところ進むぞ」
「わかってるよ」
顔を背けつつ言うアルカスに、カイは軽く笑って答える。
二人が森を抜けるに至る道を進み始めようとした、その時。
「ルカ」
カイの右手が、アルカスの行く手を制す。
「カイ……?」
どうしたのか、と聞く前に、二人の左手側の茂みがガサガサと音を立てるのが聞こえた。
「下がってろ」
間近で見た淡褐色の鋭い眼光に気圧され、アルカスは押し黙る。自分に向けられているわけでもないのに、殺気すら、今のカイからは感じ取れた。
物音は、次第にこちらへと近づいてくる。カイは背中の大剣の柄に手をかけ、身構える。アルカスは後ろで息を殺してカイの様子を見る他なかった。
迫る、音。
張り詰める、空気。
揺れる、気配。
貫く、視線。
「――来っ……?」
物音が途切れると同時に、影が二人の眼前に転がり込んできた。身構えていたカイはしかし、大剣を抜くことはなかった。
僅かに覗く、白い肢体と、黒い瞳。
その影の姿に、アルカスは思わず目を奪われた。
飛び込んできたのは、所々破れた大きな布に体を巻かれた、一人の少女だった。