3.
“……ノカ……?”
声が聞こえる。
“……テ……ウニ……”
断片的な、意味を成さない声。
“……クガ……ヨウカ……?”
知らない、なのに、どこか懐かしいような――
“ネエ、アルカス?”
――気味の悪い、声。
*
「……っ!」
「お目覚めですか?」
聞き覚えのある、できれば聞きたくない声が聞こえた。
覚醒した目は、あの黒コートの男が自分の向かいの木に寄り掛かって座っている姿を映した。
「おはようございます。ゆっくりと休めましたか?」
眩しいほどに差し込む朝陽に照らされた顔は、アルカスの嫌いなあの笑顔だった。
「……何で、いるんだよ……」
まだぼんやりとする頭の中、アルカスは言葉を探しつつ声にする。
「だから、護衛だと……」
「そういう事じゃない。……なんで、僕の居場所がわかったんだ」
確か自分は、男の寝ている間に、ひっそりとその傍を離れた筈だ。光の差さない森で、そう簡単に見つかるはずがない。
「いえ、あなたが動いたので、後をついていっただけですが」
あなたの光があったので見失うこともありませんでした、と男はさも当たり前の事のように言った。
「……起きてたのかよ……」
「まあ、あなたの護衛が仕事ですからね。夜は特に見張りが必要でしょう?」
陽の光の下、男はまた笑って言う。しかし、何でもないように言うが、つまりはこの男、一晩中起きていたようだ。その割に疲れが見えないところが、アルカスは気に入らなかったが。
「しかし、驚きました」
「何が」
「まさかニールの――ああ、ニールというのは、昨晩あなたを襲った小動物なんですが――やつらの縄張りに踏み込んでいくとは」
あいつら、縄張りに入り込んだ部外者は徹底的に排除しようとしますからね、と笑いながら男は言う。
「お前っ……知ってたなら教えろよ!」
「指示されるのはお嫌いなようだったので」
「う……」
アルカスは何も反論できなかった。
「……まあ、そういうわけですので、安全をはかるため、適当なところまで運ばせてもらいましたが」
言われてみて、アルカスは周りを見渡す。そういえば、最後に記憶していたものと比べると、木の高さがいくらか低くなっている。さきほどから日の光が眩しかったのはこのためか、とアルカスは納得する。しかし、助かったのはいいが、この男に助けられたという事実は受け入れ難い。
(こいつとの力の差が、こうも歴然だとな……)
傭兵として、自分の護衛になる者としては、確かに優秀だろうが、それを認めるのは悔しい。アルカスは悔しさを隠そうと、俯いた。
と、その時。
鋭い声と共に、こちらに接近してくる影があった。
アルカスは思わず身構える。
が。
「こっちだ、ハルク」
声に従い、影は真っ直ぐに男の腕目掛けて飛んできた。それは、勇ましい1羽の鷹であった。
「悪いな、急に呼んだりして。……ああ、大丈夫ですよ、アルカス様。こいつは私に懐いていますから」
男の言う通り、ハルク、と呼ばれたこの鷹は、彼によく懐いているようだ。機嫌のいい猫の様に、頭を男に擦り寄せている。
「……よし、いいぞ。……ああ、わかったわかった。また今度な」
鷹と戯れる男の表情は、あの気に食わない笑顔とはどこか違っていた。自然な――とても自然な笑顔だった。
(なんだ、こいつ、こんな顔もできるんだ……)
その様子に、アルカスは意外と思うと同時に、苛立ちと、そしてほんの少しの虚しさを覚える。
「じゃあ、いつも通り頼むな」
男は鷹の足に、中身の詰まった麻袋を結わえつけた。その中身を伺い知ることはできなかったが、なにやら重量のありそうなことだけは感じられた。
「……悪いな……よし、行っておいで」
鷹は承知した、と言うように、大きな翼を広げて見せ、力強くはばたいていった。その姿を見送る男の目は、優しく、それでいて、どこか憂いを感じさせるような――アルカスにとっては、初めて見る目であった。
「……ああ、すみません。時間をとらせてしまいましたね」
男がアルカスの方を振り向いて言う。その顔は、それまでアルカスに見せていたものと同じ、あの気に食わない笑顔だった。
「……」
「アルカス様?」
無言で俯いたままのアルカスを、不審に思ったのか男が心配そうに声をかける。
「“………ナイ……”」
無言だったアルカスの口から、小さく言葉が紡がれた。
「…………って……え……?」
続けて疑問の声を上げたのも、アルカスだった。
「……大丈夫、ですか?」
男が再び、心配そうに尋ねる。いつにない、神妙な顔で。
「……べ、別に……平気だ……」
言葉ではそう取り繕ってはみるものの、アルカスはひどく動揺していた。
(今のは……僕が……?)
無意識のうちに紡がれた言葉は、まるで、自分の発したものではないようであったのに、しかし、動いたのは紛れも無く自分の口であり、発せられた声は間違いなく――
「……っ」
ぐるぐると、頭の中が回る感覚。
意識を手放す前に感じた眠気に似たそれは、頭の中を掻き乱す。
「――アルカス様!」
男の声に、はっと我に返ると同時に、アルカスは体が突き飛ばされたのを感じた。
続いて聞こえる、獣の呻きと、大地の振動音。
視線の先には、鮮血の中に倒れた獣と、大剣を片手に立つ男の姿があった。
「お怪我はありませんか?」
剣を背に収めつつ、男がアルカスに尋ねる。
「あ、ああ……」
返り血を浴びてもそれと分かりづらい黒コートを、見上げるような形で、アルカスは答えた。
「申し訳ありません、咄嗟のことに、突き飛ばしたりなど……」
そう言いつつ、男は屈み、アルカスに手を差し出す。アルカスは、恐る恐るその手を掴み返そうとし、ふとそこから流れる紅に気づく。
「お前、腕……」
アルカスに指摘され、男は「ああ」、と初めて気づいたように言う。
「なんてことはない、掠り傷です。お気になさらなず」
「そうもいくか。ちょっと腕貸せ」
アルカスは男の伸ばされた腕を軽く引き寄せ、ほんのりと赤く染まった白を嵌めたままの手をそこに当てた。光がゆっくりと、アルカスの手先に集まってくる。
「アルカス様、何を……」
「いいから、動くな」
「おやめください、あなたは……」
「うるさい、ちょっとくらい黙れないのか」
「ですが……」
「ああもう、だから集中力が……」
光が、男の腕の傷を捉え、包み込み、そして――
「だからやめろって言ってるだろ!!」
突然声を荒らげた男に、アルカスは思わず彼の腕から手を離した。集まりかけていた光は、その瞬間に拡散して消える。男はその勢いのまま、険しい淡褐色の瞳でアルカスを真っ直ぐに捉えながら言葉を続ける。
「未熟なくせに無闇に術を使おうとするな! 喰われた……い……の……です……か……」
が、言葉の途中で男の顔が、さっと青ざめ、同時に、語勢が弱まった。
「……も、申し訳ありません……」
男はしまった、という表情を顕に、アルカスに謝罪した。
「……あ……いや……なんか、僕の方こそ……すみま、せん……」
アルカスはまだ、先の一瞬の男の剣幕への驚きを引きずりながら、謝罪の言葉を口にする。こんな風に他人に怒鳴られたことなど、アルカスの記憶には無かった。――厳格な父は、感情に任せて怒鳴ることなど無かった。
「大変な無礼を働いたこと、深くお詫び申し上げます」
男は深々と頭を下げて言う。いつにない、誠意の篭った声色で。
「な、なんだよ……急にそんな畏まられたら気持ち悪いだろ……」
初めて怒鳴られたことと、深く詫びをいれる男に困惑しつつ、アルカスは言葉を続ける。
「だ、大体、お前のその言葉遣いとか態度とか、わざとらしいんだよ。あざといっていうか、なんていうか……その、不自然っていうか……むしろさっきみたいな方が自然で良かったっていうか……だからその、もういいから顔を上げろ!」
最早自分でも何を言っているのかわからないくらいであった。ただ、頭に浮かんだ言葉を繋ぐだけ繋ぎ、アルカスは男へそれを向ける。しかし、男はまだ頭を下げたままであった。……が、よく見ると。
「……って何笑ってるんだよ!」
アルカスに向けて下げられた頭は、小さく振動していた。よく聞けば、押し殺した笑い声のようなものも聞こえる。
「……いや、悪……すみません……つい……」
「ついじゃないだろ! っていうか、ああもう!」
アルカスは立ち上がり、一度大きくため息をつく。そして、少し視線を外しつつ、顔を俯けたままの男に言う。
「無理するくらいなら、別に敬語とか使わなくていいから。……聞いててなんか、苛つくだけだし……」
「そんな、恐れ多い……」
「いいんだよ! 僕がいいって言ってるんだから」
我ながらまるで暴君のような言い分だと思いつつ、アルカスはちらりと男の方を見る。
やっと顔を上げたらしい男は、少し困ったように思案するような素振りを見せ、そして観念したように、小さくため息をついた。
「……わかったよ。これでいいか?」
そう言って小さく微笑んだ男の顔は、嫌味のない、自然な表情だった。
「そ、それでいいよ。……ほら、ぼーっとしてないで行くぞ!」
アルカスはそう言い、森の木がより低くなっている方向を向く。
男はその姿を後ろから、少し不思議そうな顔で見る。
「……なんだよ」
「いや……つい昨日まで、ついて来るなとかなんとかってばかり……」
「いちいち揚げ足とるなよもう! だ、だから……まあ、護衛として、ちょっとは認めてやってもいいかも、って気になっただけだよ……」
アルカスは、もどかしいような、恥ずかしいような、なんとも言えない気分になりながら呟いた。
「だからほら行くぞ、えっと……」
そこでアルカスは言葉に詰まる。そういえば、男の名前はなんだっただろうか。父に紹介された筈だが、機嫌を損ねていたからか、耳に入っていなかったようだ。
「カイ」
「え」
「俺の名前。どうせちゃんと知らなかったんだろ?」
まるでこちらの考えを見透かしているかのような言葉だった。しかし、そんなことは、この時のアルカスにとってはどうでもよかった。
「カイ、か。……その……改めて、よろしく」
アルカスはおずおずと右手を、カイの前に差し出した。
「こちらこそ」
そう言って、カイは差し出されたアルカスの手を握り返した。
手袋越しにアルカスが握った手は、思ったよりも大きかった。