2.
どれ程歩き続けただろうか。森の中心に近づくに連れ、木の高さは増し、日の光はほとんど届かない。もう日は傾いたのかどうかさえ、アルカスにはわからなかった。聖導術の光を手元に集め、それを頼りに、暗い森をアルカスは進み続けていた。その顔は、不機嫌さに加え、幾分か疲れが滲んでいるようだった。後ろの男は、相変わらずだ。それが更にアルカスの癪に障った。
「いい加減にしろ!いつまでついてくるつもりなんだ!」
振り向き様に、怒鳴り散らすように言ったアルカスに、男は一瞬きょとん、としたような顔をする。
「……ですから、あなたの護衛を頼まれていますので」
旅が終わって屋敷に戻るまでは、お供致さなければなりません、と男は言った。
「しつこい、くどい、うざい!」
まるで小さな子供のように、アルカスは雑言を並べ立てる。
「……流石にそこまで言われると、私も多少は傷つくのですが」
「勝手に傷ついてろ馬鹿」
そう吐き捨てて、アルカスは早足に進んだ。
「お待ち下さい」
焦るわけでもなく、男が声をかける。
「待たない」
「では、あまり一人で先に進まないでいただけると、ありがたいのですが」
「同じ事だろ、それ」
そうですね、と笑いながら男は言う。
「森には獰猛な獣も多いですからね。離れていては護衛ができませんので」
「いらないって言ってるだろ」
もう何度目になるかわからない言葉を、アルカスは男に投げつける。すると、急に男が立ち止まった。
「……え」
今までにない反応に、アルカスも思わず立ち止まってしまった。
「な、何だよ急に」
「いえ、今日はこの辺りで休まれた方がいいかと」
どうぞ、明かりは消して下さい、と男は言う。
「流石にお疲れでしょう? ご心配なく。仕事柄、夜目は利きますので」
「……」
たしかに疲労感が蓄積されていることは否めない。そろそろ休みたい、などと思っていたのも事実だ。
事実だが。
「休むなら勝手に休め。僕は一人で行く」
この男に指摘されたという事が気に食わず、アルカスは思わず強がった言葉を吐いてしまう。
「そう意地をはらず……どうか、お休み下さい」
男は困ったように笑いながら言う。
「冗談じゃない。お前なんかの指図に誰が従うか」
「別に指図はしていませんが」
「黙れ。というかもう話しかけるな。耳障りだ」
「それは無理な相談で――」
男の目が、また変わった。
「え……」
アルカスがそれに気付くか気づかないかのうちに、すぐ背後で何かが落ちる音がした。おそるおそる視線を後ろへ向けると、そこには既に事切れた獣が、綺麗な形のまま、横たわっていた。その額に、一本の投擲用ナイフを突き刺さして。
(急所を、一撃……)
一瞬の出来事に、アルカスは言葉が出なかった。
「……この通り、夜には危害を加えようとする獣も活発になりますので」
下手に動かないほうがよろしいかと、と男は言う。コートと同じ、黒いグローブを嵌めたその手には、何も持っていなかった。
(一発で確実に仕留める自信があったってことか……)
益々気に入らない、とアルカスは眉間に皺を作りながら、反論する。
「動かなかったら、かえって危険じゃないか?」
「いえ、奴らは本能的に、動くものを襲う生物ですから」
そう言う男の顔は、やはりあの気に食わない笑顔であった。しかし、男の言うことは間違ってはいない。そんなことは文献にも書いてあったな、とアルカスは思い出す。
「……休めばいいんだろ」
渋々、アルカスは腰を下ろし、側の木に背中を預けた。
「ええ、ゆっくりお休みください」
男の声を聞き、アルカスは光を消した。
光のない暗い森は、恐ろしいまでに静かであった。逆に落ち着かない、とアルカスは光を灯した。時間の経過はわからない。だが、光に映し出された男は、自分と同じように、木の幹に背中を預けていた。その瞼は閉じている。動く気配は、無い。
(――ひょっとして、チャンスなんじゃ……?)
ふ、とアルカスの頭に妙案がよぎる。今のうちに一人で進めば、このうざったい護衛とやらを振り切ることも、あるいは可能なのではないだろうか――
アルカスは、音を立てないよう注意を払い、立ち上がった。少し近寄り、やはり男が動かないことを再確認する。
(――いける!)
アルカスは静かに、しかし嬉しそうに、その場から離れた。
(ざまあみろ)
目覚めたあいつが慌てるのを見れないのが残念だ、などと思いながら、アルカスは森の小道を、僅かな光を頼りに突き進んだ。
念願の、一人旅の幕開けだ。
幼い頃より貴族の一人息子として、厳しく、しかし過保護とも思える環境下でしつけられてきたアルカスにとって、『自由な外の世界』は憧れであった。別に外に出たことがないわけではない。しかし、たまに外に連れられていく時があっても、必ず父や使用人が付き添い、行動を見張られている感じは決して拭えなかった。何度となく、自分の生まれを嘆いた。だからこそ、聖導師としての『契約の旅』の存在を知った時、アルカスの心は躍った。母の血に心から感謝した。反対する父をなんとか説得し、旅の許可がおりたとき、どんなにか心が高ぶっただろうか!
(――もっとも、あいつのいた所為で、楽しみは半分未満になったけどな)
父の息のかかった護衛など、まっぴらだ。今はその男もいない。誰にも見張られない、自由な旅が始まったのだ。
アルカスは軽い足どりで森をどんどん進んでいった。疲れはあるが、そんなことはどうだっていい。一人で自由に動ける。それがアルカスの十分な原動力となっていた。
どれ程進んだかはわからない。だが、相変わらず暗い森を、微かな自分の光を頼りに、アルカスは進んでいた。
その時。
甲高い声と共に、アルカスの目の前の茂みから小柄な獣が飛び出してきた。
突然の事に、反応が少し遅れる。頭の中を文献の情報が駆けるが、追いつかない。剣を抜いたが、庇い切れず、片腕を獣の爪が切り裂いた。
「……くそっ……」
腕から流れ出る紅い雫が地を濡らす。痛みが頭の回転を鈍らせる。だが、そんなことに相手が構うはずもない。再び先程の獣が飛び掛かってきた。痛みを振り払うように、アルカスは相手も見ずに剣を振った。ぎゃっ、という悲鳴が上がる。続けて何かが落ちる音がした。はっと目を向けると、地には、形はそのままに、骸となった獣が横たわっていた。
(運よく当たったか……)
剣で斬ったにしては綺麗過ぎる骸だったが、そんなことに気づく余裕はなかった。
アルカスは、痛みに顔をしかめながら、傷にもう片方の手を当てた。白い手袋が、じんわりと紅く染まる。傷口に当てた手先に神経を集中させると、徐々に光が集まり出す。
「……っ」
傷は少しずつ塞がってきたが、痛みは消えない。寧ろ悪化しているかのように、意識がどんどん遠退いていく。――否、痛みが増しているのではない。
(……精神エネルギーが、消耗されている……?)
思っていたよりも傷は深く、治癒に要するエネルギーは予想以上であったようだ。治癒術の経験がなかったわけではないが、貴族暮らしの中で、これ程の傷は今までに負ったことがなかった。加えて、明かり代わりにずっと発動し続けていた術の反動が、今更になって来ているようでもあった。
(――甘かった、か……)
アルカスはそのまま地に膝を着いた。襲いくる激しい眠気は、精神エネルギーの消耗が酷いことを、身体の方が訴えているのだろう。何とか打ち勝とうと、必死に意識を保とうとするが、身体に力は入らない。と、背後で再び甲高い鳴き声が聞こえた。
(もう一匹……!)
振り返るのよりも少し早く、重さのあるものが落ちる音がした。視線の先には、先程のものと同じように、綺麗な骸の獣がいた。
「助、かっ、た……?」
安堵からか、意識は急速にまどろみの中へ落ちていった。
何故か、あの男の声が側で聞こえた気がした。しかし、言葉を返す事なく、アルカスは意識を手放した。