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悪役令嬢フィリアの事件簿

無実の悪役令嬢・番外編 しょっぱい紅茶と、小さな謎

作者: 夜華カナタ
掲載日:2026/09/30

『無実の悪役令嬢、処刑まで三十日で真犯人を捕まえます』(全30話・完結済み)の番外編です。

本編が終わって少しあとの、平和な一日のお話。

本編はこちら → https://ncode.syosetu.com/n8272mr/

 その日の紅茶は、しょっぱかった。


 正確に言えば、フィリアが飲んだ一杯は、ちゃんと甘かった。しょっぱかったのは、向かいに座るリーゼの一杯だけだった。


 ラングドン公爵邸の、庭に面したサロン。晩秋の陽射しが、硝子越しに柔らかく差し込んでいる。卓の上には、焼き菓子の皿と、白磁の茶器。離宮の狭い部屋でも、鉄格子の向こうでもない。手紙に書かれていた通りの、「普通のお茶会」だった。


 だから、フィリアは、リーゼの眉がほんの一瞬だけ寄ったのを、見逃さなかった。


 リーゼは、何事もなかったように、もう一口、紅茶を含んだ。そして、また、ほんの僅かに眉を寄せた。


「――リーゼ様。無理に、飲まなくていいのですよ」


「え、いえ、その……美味しいです」


「嘘が、お下手ですね」


 リーゼは、観念したように、カップを置いた。


「……少しだけ、しょっぱい、です」


 その一言で、サロンの空気が、止まった。


 給仕に控えていた若い侍女の顔から、さっと血の気が引いていく。壁際に立っていたカインが、音もなく一歩、卓に近づいた。フィリア自身も、指先が冷たくなるのを感じていた。


 華やかな席。客人の杯。そして、中身が、おかしい。


 ついこのあいだ、よく似た形の出来事が、一人の令嬢を処刑台の手前まで運んだのだ。


「――大丈夫です、フィリア様」


 最初に声を出したのは、リーゼだった。


「これ、たぶん、お塩です。毒なら、こんな分かりやすい味はしないと思います」


 リーゼは、困ったように笑った。その笑顔が、場の空気を、どうにか元の形に引き戻した。


 フィリアは、砂糖壺の蓋を取った。指先に白い粒をつまみ、舐めてみる。


 ――塩だった。


「申し訳ございません!」


 侍女が、床に膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。


「私が、今朝、厨房で壺を満たしました。お砂糖を入れたはずなのに、私が、取り違えて――」


「待ってください」


 フィリアは、静かに言った。


「まだ、あなたがやったと決まったわけではありません」


 侍女が、きょとんと顔を上げた。


 都合のいい場所に、都合のいい犯人がいる。あの夜も、そうだった。


 ◇


「厨房で壺を満たした時、どのくらい入れましたか」


「縁まで、いっぱいに。お客様の日ですから」


 フィリアは、匙で壺の中身を、そっと掘ってみた。上のほうの粒は、少し大きく、角ばっている。匙を深く差し込むと、その下から、もっと細かく、さらさらとした粒が出てきた。


 舐める。今度は、甘い。


「――上が塩で、下が砂糖」


 カインが、低く言った。


「ええ。縁まで砂糖を入れた壺なら、最初から全部が砂糖のはずです。誰かが、上のほうを使って、減った分を足したのです。塩で」


「足したやつは、塩だと気づいてなかった」


「気づいていたら、足さないでしょうね」


 侍女は、ぽかんと口を開けて、二人を見比べていた。


「今朝、このサロンに入った者は?」


「私と、お掃除の者と……それから」


 侍女は、少し言いにくそうに、言葉を濁した。


「……アレン様が、お一人で。お客様のお部屋を見てみたいと仰って」


 フィリアは、窓の外に目をやった。


 庭の隅で、赤茶色の髪の少年が、木剣を振っていた。いつもより、ずっと熱心に。そして、ときどき、こちらの窓を、ちらりと窺っている。


「――今日の稽古は、午後からの約束だったはずですが」


「朝から、ずっとああだ」


 カインが、腕を組んだまま言った。


「俺が見回りに出た時には、もう振ってた。一度も、こっちに顔を出さない」


「お客様が来ると聞いて、昨日はあんなにはしゃいでいたのに」


 フィリアは、少しだけ考えてから、侍女に尋ねた。


「厨房の塩と砂糖は、どんな入れ物に入っているのですか」


「同じ形の、陶器の壺です。蓋の色で、分けていますけれど」


「蓋を外したら、見分けがつきませんか」


「……慣れていない方なら、たぶん」


 フィリアは、小さく息を吐いた。


 角ばった粒。同じ形の壺。朝のサロンに一人で入った少年。そして、朝から一度も、姉の前に顔を見せない弟。


 答えは、もう、ほとんど出ていた。


「あんた、もう分かってるだろう」


 カインが、フィリアにだけ聞こえる声で言った。


「ええ。でも、ここで名前を出すのは、違う気がします」


「なら、どうする」


「本人に、聞きに行きます」


 フィリアは、リーゼに向き直った。


「リーゼ様。少しだけ、席を外してもよろしいですか。この謎の、いちばん大事なところが、庭にあるようなのです」


 リーゼは、くすりと笑って、頷いた。


「はい。待っています。――しょっぱくない紅茶を、楽しみに」


 ◇


 フィリアが庭に出ると、アレンの木剣が、ぴたりと止まった。


「あ……姉様」


「稽古、熱心ね」


「う、うん」


 アレンは、フィリアの顔を見ようとしなかった。木剣の先が、地面の上で、落ち着きなく揺れている。


 フィリアは、弟の袖口に、白い粒が一つ、引っかかっているのに気づいた。指でつまんで、陽に透かす。角ばった、大きな粒だった。


「アレン。今朝、サロンで、何をしていたの?」


 アレンの肩が、びくりと跳ねた。しばらく黙っていたが、やがて、小さな声で話し始めた。


「……お茶を、淹れる練習」


「お茶を?」


「今日のお客様、姉様の大事なお友達なんでしょう。だから、僕も、ちゃんとおもてなししたくて。大人みたいに、上手にお茶を注げたら、姉様、喜ぶかなって」


 アレンは、ぎゅっと木剣を握りしめた。


「でも、お砂糖、たくさんこぼしちゃって。壺がちょっと空いたから、厨房から持ってきて、足したんだ。……そしたら、さっき、窓から、お客様が変な顔するのが見えて」


「それで、塩だったって、気づいたのね」


 アレンは、こくりと頷いた。目の端に、涙が溜まっている。


「言わなきゃって、思ったんだ。でも、姉様のお友達の前で、失敗したって言うのが、恥ずかしくて。……ごめんなさい」


 フィリアは、しゃがんで、弟と目の高さを合わせた。


「アレン。失敗したことは、いいの。誰だって間違えるわ。私だって、しょっちゅう間違える」


「……ほんとう?」


「ええ。でもね、黙っていると、別の誰かが悪者にされてしまうの。今、サロンで、あなたの代わりに謝っている人がいるのよ」


 アレンの顔が、さっと青くなった。


「――あの人が?」


「そう。自分のせいだと思って、泣きそうになっているわ」


 アレンは、しばらく唇を噛んでいた。それから、木剣を地面に置くと、まっすぐにフィリアを見た。


「僕、謝ってくる。ちゃんと、自分で言う」


「ええ。一緒に行きましょう」


 フィリアが立ち上がると、少し離れたところに、いつの間にかカインが立っていた。


「――アレン」


 カインが、短く呼んだ。アレンは、少し緊張した顔で、黒髪の騎士を見上げた。


「自分から言いに行くのは、剣の稽古より、ずっと難しい。それができるなら、上等だ」


 アレンは、目を丸くして、それから、少しだけ胸を張った。


 ◇


 サロンに戻ったアレンは、侍女の前で、深く頭を下げた。


「ごめんなさい。お塩を入れたのは、僕です」


 侍女は、目を白黒させながら、慌ててアレンの頭を上げさせた。その顔には、安堵と、困惑と、それから、どうしようもない優しさが、いっぺんに浮かんでいた。


「アレン様……わざわざ、私のために」


「だって、僕のせいで、怒られたら、嫌だから」


 それから、アレンは、リーゼの前に進み出た。


「お客様、変なお茶を出して、ごめんなさい」


「いいえ」


 リーゼは、椅子から少し身を屈めて、アレンに微笑みかけた。


「それなら、今度は、あなたが淹れてくださいますか。ちゃんと、甘いほうの紅茶を」


 アレンの顔が、ぱっと明るくなった。


 侍女が、新しい砂糖壺を運んできた。今度は、蓋の色を、フィリアが自分の目で確かめた。アレンは、両手でポットを抱え、真剣な顔で、リーゼのカップに紅茶を注いだ。少しだけ、受け皿にこぼれた。誰も、それを咎めなかった。


「――美味しいです」


 リーゼは、今度は、眉一つ寄せずに言った。


「本当に?」


「本当に。私、嘘は下手なので」


 リーゼは、フィリアを見て、いたずらっぽく笑った。フィリアも、思わず笑い返した。


 ◇


 夕方、リーゼを乗せた馬車が、門の向こうへ消えていった。


 見送りを終えたフィリアの隣に、カインが並んだ。空は、橙色から、薄い紫へと移り変わり始めている。


「――今日の謎は、簡単だったな」


「ええ。犯人は十歳で、動機はおもてなし。凶器は砂糖壺です」


「被害は、紅茶一杯」


「それと、侍女の寿命が、少し縮んだくらいでしょうか」


 カインが、小さく笑った。以前なら、滅多に見られなかった顔だった。今は、一日に一度くらいは、見られる。


「あんた、最初に塩だと分かった時、顔色が変わってた」


「……あなたも、一歩、前に出ていました」


「癖だ」


 カインは、そっけなく言った。


「たぶん、しばらくは抜けない」


「私もです。誰かの杯を見るたびに、きっと、少しだけ、身構えてしまいます」


 フィリアは、暮れていく庭を見つめた。


「でも、今日は、ちゃんと笑って終われました。前とは、違う形で」


「ああ」


 カインは、しばらく黙っていた。それから、フィリアのほうを見ないまま、口を開いた。


「あんたは、犯人を見つけても、すぐに名前を出さなかった」


「アレンなら、自分で言えると思ったからです」


「そういうところだ」


「――何が、ですか」


「調査顧問に向いてる、って話だ」


 フィリアは、目を瞬いた。それから、ふっと口元を緩めた。


「褒め言葉として、受け取っておきます」


「そうしてくれ」


 カインは、そう言ってから、ほんの少しだけ、言い淀んだ。


「――フィリア」


 呼ばれた名前に、フィリアは、思わず足を止めた。


 カインが、フィリアの名前を呼んだのは、あの暗殺者が離宮に踏み込んできた夜の、一度きりだった。叫ぶように、とっさに。こんなふうに、静かに呼ばれたのは、初めてだった。


「……今、名前で」


「嫌なら、戻す」


「嫌だなんて、言っていません」


 フィリアは、頬が熱くなるのを感じながら、どうにか平静を装った。


「――どうしたのですか、急に」


「リーゼ嬢に言われた。帰り際に。『いつまで、あんた呼びなんですか』って」


 フィリアは、とうとう、声を上げて笑ってしまった。


「リーゼ様らしいですね」


「俺も、そう思った」


 カインは、決まりが悪そうに、黒髪をかき上げた。


「……慣れるまで、少しかかる」


「ええ。待ちます、カイン」


 期限は、もう、どこにもない。三十日を数える必要も、残りの日数に怯える必要もない。慣れるまで、どれだけかかっても、構わないのだ。


 門の脇の灯りに、火が入った。屋敷のほうから、アレンが、夕食を知らせに駆けてくる声が聞こえた。


 しょっぱい紅茶から始まった一日は、そうして、甘く、穏やかに、暮れていった。


番外編「甘くない紅茶」をお読みいただき、ありがとうございます。


 本編では、夜会の杯がフィリアを処刑台の手前まで運びました。その同じ形の出来事を、今度は、誰も傷つかない小さな謎として描きたくて書いたお話です。リーゼが手紙で願っていた「普通のお茶会」、アレンの成長、そしてカインがようやく口にしたひと言。三十日が終わったあとの、平和な一日を楽しんでいただけていたら嬉しいです。


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 ▼本編(全30話・完結済み)

『無実の悪役令嬢、処刑まで三十日で真犯人を捕まえます』

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