無実の悪役令嬢・番外編 しょっぱい紅茶と、小さな謎
『無実の悪役令嬢、処刑まで三十日で真犯人を捕まえます』(全30話・完結済み)の番外編です。
本編が終わって少しあとの、平和な一日のお話。
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その日の紅茶は、しょっぱかった。
正確に言えば、フィリアが飲んだ一杯は、ちゃんと甘かった。しょっぱかったのは、向かいに座るリーゼの一杯だけだった。
ラングドン公爵邸の、庭に面したサロン。晩秋の陽射しが、硝子越しに柔らかく差し込んでいる。卓の上には、焼き菓子の皿と、白磁の茶器。離宮の狭い部屋でも、鉄格子の向こうでもない。手紙に書かれていた通りの、「普通のお茶会」だった。
だから、フィリアは、リーゼの眉がほんの一瞬だけ寄ったのを、見逃さなかった。
リーゼは、何事もなかったように、もう一口、紅茶を含んだ。そして、また、ほんの僅かに眉を寄せた。
「――リーゼ様。無理に、飲まなくていいのですよ」
「え、いえ、その……美味しいです」
「嘘が、お下手ですね」
リーゼは、観念したように、カップを置いた。
「……少しだけ、しょっぱい、です」
その一言で、サロンの空気が、止まった。
給仕に控えていた若い侍女の顔から、さっと血の気が引いていく。壁際に立っていたカインが、音もなく一歩、卓に近づいた。フィリア自身も、指先が冷たくなるのを感じていた。
華やかな席。客人の杯。そして、中身が、おかしい。
ついこのあいだ、よく似た形の出来事が、一人の令嬢を処刑台の手前まで運んだのだ。
「――大丈夫です、フィリア様」
最初に声を出したのは、リーゼだった。
「これ、たぶん、お塩です。毒なら、こんな分かりやすい味はしないと思います」
リーゼは、困ったように笑った。その笑顔が、場の空気を、どうにか元の形に引き戻した。
フィリアは、砂糖壺の蓋を取った。指先に白い粒をつまみ、舐めてみる。
――塩だった。
「申し訳ございません!」
侍女が、床に膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。
「私が、今朝、厨房で壺を満たしました。お砂糖を入れたはずなのに、私が、取り違えて――」
「待ってください」
フィリアは、静かに言った。
「まだ、あなたがやったと決まったわけではありません」
侍女が、きょとんと顔を上げた。
都合のいい場所に、都合のいい犯人がいる。あの夜も、そうだった。
◇
「厨房で壺を満たした時、どのくらい入れましたか」
「縁まで、いっぱいに。お客様の日ですから」
フィリアは、匙で壺の中身を、そっと掘ってみた。上のほうの粒は、少し大きく、角ばっている。匙を深く差し込むと、その下から、もっと細かく、さらさらとした粒が出てきた。
舐める。今度は、甘い。
「――上が塩で、下が砂糖」
カインが、低く言った。
「ええ。縁まで砂糖を入れた壺なら、最初から全部が砂糖のはずです。誰かが、上のほうを使って、減った分を足したのです。塩で」
「足したやつは、塩だと気づいてなかった」
「気づいていたら、足さないでしょうね」
侍女は、ぽかんと口を開けて、二人を見比べていた。
「今朝、このサロンに入った者は?」
「私と、お掃除の者と……それから」
侍女は、少し言いにくそうに、言葉を濁した。
「……アレン様が、お一人で。お客様のお部屋を見てみたいと仰って」
フィリアは、窓の外に目をやった。
庭の隅で、赤茶色の髪の少年が、木剣を振っていた。いつもより、ずっと熱心に。そして、ときどき、こちらの窓を、ちらりと窺っている。
「――今日の稽古は、午後からの約束だったはずですが」
「朝から、ずっとああだ」
カインが、腕を組んだまま言った。
「俺が見回りに出た時には、もう振ってた。一度も、こっちに顔を出さない」
「お客様が来ると聞いて、昨日はあんなにはしゃいでいたのに」
フィリアは、少しだけ考えてから、侍女に尋ねた。
「厨房の塩と砂糖は、どんな入れ物に入っているのですか」
「同じ形の、陶器の壺です。蓋の色で、分けていますけれど」
「蓋を外したら、見分けがつきませんか」
「……慣れていない方なら、たぶん」
フィリアは、小さく息を吐いた。
角ばった粒。同じ形の壺。朝のサロンに一人で入った少年。そして、朝から一度も、姉の前に顔を見せない弟。
答えは、もう、ほとんど出ていた。
「あんた、もう分かってるだろう」
カインが、フィリアにだけ聞こえる声で言った。
「ええ。でも、ここで名前を出すのは、違う気がします」
「なら、どうする」
「本人に、聞きに行きます」
フィリアは、リーゼに向き直った。
「リーゼ様。少しだけ、席を外してもよろしいですか。この謎の、いちばん大事なところが、庭にあるようなのです」
リーゼは、くすりと笑って、頷いた。
「はい。待っています。――しょっぱくない紅茶を、楽しみに」
◇
フィリアが庭に出ると、アレンの木剣が、ぴたりと止まった。
「あ……姉様」
「稽古、熱心ね」
「う、うん」
アレンは、フィリアの顔を見ようとしなかった。木剣の先が、地面の上で、落ち着きなく揺れている。
フィリアは、弟の袖口に、白い粒が一つ、引っかかっているのに気づいた。指でつまんで、陽に透かす。角ばった、大きな粒だった。
「アレン。今朝、サロンで、何をしていたの?」
アレンの肩が、びくりと跳ねた。しばらく黙っていたが、やがて、小さな声で話し始めた。
「……お茶を、淹れる練習」
「お茶を?」
「今日のお客様、姉様の大事なお友達なんでしょう。だから、僕も、ちゃんとおもてなししたくて。大人みたいに、上手にお茶を注げたら、姉様、喜ぶかなって」
アレンは、ぎゅっと木剣を握りしめた。
「でも、お砂糖、たくさんこぼしちゃって。壺がちょっと空いたから、厨房から持ってきて、足したんだ。……そしたら、さっき、窓から、お客様が変な顔するのが見えて」
「それで、塩だったって、気づいたのね」
アレンは、こくりと頷いた。目の端に、涙が溜まっている。
「言わなきゃって、思ったんだ。でも、姉様のお友達の前で、失敗したって言うのが、恥ずかしくて。……ごめんなさい」
フィリアは、しゃがんで、弟と目の高さを合わせた。
「アレン。失敗したことは、いいの。誰だって間違えるわ。私だって、しょっちゅう間違える」
「……ほんとう?」
「ええ。でもね、黙っていると、別の誰かが悪者にされてしまうの。今、サロンで、あなたの代わりに謝っている人がいるのよ」
アレンの顔が、さっと青くなった。
「――あの人が?」
「そう。自分のせいだと思って、泣きそうになっているわ」
アレンは、しばらく唇を噛んでいた。それから、木剣を地面に置くと、まっすぐにフィリアを見た。
「僕、謝ってくる。ちゃんと、自分で言う」
「ええ。一緒に行きましょう」
フィリアが立ち上がると、少し離れたところに、いつの間にかカインが立っていた。
「――アレン」
カインが、短く呼んだ。アレンは、少し緊張した顔で、黒髪の騎士を見上げた。
「自分から言いに行くのは、剣の稽古より、ずっと難しい。それができるなら、上等だ」
アレンは、目を丸くして、それから、少しだけ胸を張った。
◇
サロンに戻ったアレンは、侍女の前で、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。お塩を入れたのは、僕です」
侍女は、目を白黒させながら、慌ててアレンの頭を上げさせた。その顔には、安堵と、困惑と、それから、どうしようもない優しさが、いっぺんに浮かんでいた。
「アレン様……わざわざ、私のために」
「だって、僕のせいで、怒られたら、嫌だから」
それから、アレンは、リーゼの前に進み出た。
「お客様、変なお茶を出して、ごめんなさい」
「いいえ」
リーゼは、椅子から少し身を屈めて、アレンに微笑みかけた。
「それなら、今度は、あなたが淹れてくださいますか。ちゃんと、甘いほうの紅茶を」
アレンの顔が、ぱっと明るくなった。
侍女が、新しい砂糖壺を運んできた。今度は、蓋の色を、フィリアが自分の目で確かめた。アレンは、両手でポットを抱え、真剣な顔で、リーゼのカップに紅茶を注いだ。少しだけ、受け皿にこぼれた。誰も、それを咎めなかった。
「――美味しいです」
リーゼは、今度は、眉一つ寄せずに言った。
「本当に?」
「本当に。私、嘘は下手なので」
リーゼは、フィリアを見て、いたずらっぽく笑った。フィリアも、思わず笑い返した。
◇
夕方、リーゼを乗せた馬車が、門の向こうへ消えていった。
見送りを終えたフィリアの隣に、カインが並んだ。空は、橙色から、薄い紫へと移り変わり始めている。
「――今日の謎は、簡単だったな」
「ええ。犯人は十歳で、動機はおもてなし。凶器は砂糖壺です」
「被害は、紅茶一杯」
「それと、侍女の寿命が、少し縮んだくらいでしょうか」
カインが、小さく笑った。以前なら、滅多に見られなかった顔だった。今は、一日に一度くらいは、見られる。
「あんた、最初に塩だと分かった時、顔色が変わってた」
「……あなたも、一歩、前に出ていました」
「癖だ」
カインは、そっけなく言った。
「たぶん、しばらくは抜けない」
「私もです。誰かの杯を見るたびに、きっと、少しだけ、身構えてしまいます」
フィリアは、暮れていく庭を見つめた。
「でも、今日は、ちゃんと笑って終われました。前とは、違う形で」
「ああ」
カインは、しばらく黙っていた。それから、フィリアのほうを見ないまま、口を開いた。
「あんたは、犯人を見つけても、すぐに名前を出さなかった」
「アレンなら、自分で言えると思ったからです」
「そういうところだ」
「――何が、ですか」
「調査顧問に向いてる、って話だ」
フィリアは、目を瞬いた。それから、ふっと口元を緩めた。
「褒め言葉として、受け取っておきます」
「そうしてくれ」
カインは、そう言ってから、ほんの少しだけ、言い淀んだ。
「――フィリア」
呼ばれた名前に、フィリアは、思わず足を止めた。
カインが、フィリアの名前を呼んだのは、あの暗殺者が離宮に踏み込んできた夜の、一度きりだった。叫ぶように、とっさに。こんなふうに、静かに呼ばれたのは、初めてだった。
「……今、名前で」
「嫌なら、戻す」
「嫌だなんて、言っていません」
フィリアは、頬が熱くなるのを感じながら、どうにか平静を装った。
「――どうしたのですか、急に」
「リーゼ嬢に言われた。帰り際に。『いつまで、あんた呼びなんですか』って」
フィリアは、とうとう、声を上げて笑ってしまった。
「リーゼ様らしいですね」
「俺も、そう思った」
カインは、決まりが悪そうに、黒髪をかき上げた。
「……慣れるまで、少しかかる」
「ええ。待ちます、カイン」
期限は、もう、どこにもない。三十日を数える必要も、残りの日数に怯える必要もない。慣れるまで、どれだけかかっても、構わないのだ。
門の脇の灯りに、火が入った。屋敷のほうから、アレンが、夕食を知らせに駆けてくる声が聞こえた。
しょっぱい紅茶から始まった一日は、そうして、甘く、穏やかに、暮れていった。
番外編「甘くない紅茶」をお読みいただき、ありがとうございます。
本編では、夜会の杯がフィリアを処刑台の手前まで運びました。その同じ形の出来事を、今度は、誰も傷つかない小さな謎として描きたくて書いたお話です。リーゼが手紙で願っていた「普通のお茶会」、アレンの成長、そしてカインがようやく口にしたひと言。三十日が終わったあとの、平和な一日を楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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