家を焼かれた商家の娘のわたしは、仇の伯爵家に成り代わり、内側から静かに喰らっていく。証拠はいつも、夏の『打ち水』が洗い流してくれる——見初めてきた征服王だけが、わたしの本性に気づいて、笑った
しゃあ、と。
夏の敷石に、水を打つ音が、涼やかに、響きます。
打ち水です。
暑い盛りの、日暮れどき。
伯爵家の庭先で、わたしは、柄杓を手に、ひとり、静かに、水を、撒いていました。
しゃあ、しゃあ、と。
乾いた石畳が、みるみる、色を、変えていく。
そうして、その水は。
昨夜、この家で、そっと"入れ替わった"――ある人の、最後の痕跡を。
跡形も、なく。
涼やかに、洗い流して、くれるのです。
「まあ、お嬢さま。打ち水なんて、下働きに、させればよろしいのに」
通りかかった侍女が、そう言って、微笑みました。
「いいえ」
わたしは、令嬢らしく、たおやかに、微笑み返しました。
「わたし、この時間が、好きなの。……いろいろなものが、きれいに、流れていくでしょう?」
侍女は、何も知らずに、頷いて、去っていきます。
——ええ。
本当に、いろいろなものが、流れて、いくのですよ。
あなたが、思っている、よりも。
ずっと、たくさん。
*
わたしの、本当の名は。
ミレーユ・アルセン、と、申します。
大陸有数と、うたわれた、アルセン商会の、ひとり娘。
——でした。
一年前。
わたしの家は、焼かれました。
権勢を、狙った、この、ドラン伯爵家に。
ありもしない、密輸の罪を、着せられて。
商会は、焼かれ。
父も、母も、幼い弟も、奪われて。
生き延びたのは、たまたま、外へ、使いに、出ていた、わたし、ひとり。
——ふつうの娘なら。
きっと、そこで、泣き崩れて、終わったでしょう。
けれど、わたしは、商家の娘です。
奪われたものは。
帳尻ごと、耳を揃えて、取り返す。
それが、商いの、鉄則ですもの。
だから、わたしは、決めたのです。
このドラン伯爵家を。
内側から、まるごと、いただこう、と。
*
商家の娘には、ひとつ、特別な才が、ありました。
人の、顔も。
声も。
筆跡も、所作も。
——写し取って、成り代わることが、できるのです。
もとは、得意先の好みや、取引相手の癖を、読むための、商売の技。
けれど、これは。
復讐にも、ずいぶんと、役に立ちました。
わたしは、まず、伯爵家の、老いた家令に、成り代わりました。
本物の家令が、ある夜、こっそり、この家から、"いなくなった"あと。
わたしは、その顔で、その声で、何食わぬ顔で、家の帳簿を、握りました。
次に、口さがない、侍女頭。
次に、放蕩者の、次男坊。
そうして、少しずつ、少しずつ。
この家の内側を、わたしと、わたしの、息のかかった者たちで。
静かに、静かに、"入れ替えて"、いったのです。
そのたびに。
しゃあ、と。
打ち水が、痕を、流してくれました。
だあれも、気づきません。
だって、顔も、声も。
何もかも、昨日と、同じ、ですもの。
——中身だけが、そっくり、別の、ものに、なっている。
そんなこと。
誰が、思うでしょう。
*
そして、ついに。
わたしは。
この家の、令嬢その人――ミレーユ・ドランに、成り代わりました。
奇しくも、本物の令嬢と、わたしは、同じ名。
……いいえ。
正しくは。
わたしが、あの日、この家に潜り込むために、"ミレーユ"という名の令嬢を、あらかじめ、選んで、狙っていた、のですけれど。
ふふ。
これで、わたしは、名実ともに、この伯爵家の、令嬢です。
あとは、当主である、伯爵ひとり。
わたしの家を、焼くように、命じた、張本人。
——あの男を"入れ替えて"、しまえば。
この家は、丸ごと、わたしの、ものに、なる。
そう、思っていた、矢先でした。
この地に。
あの、お方が、やってきたのは。
*
ライハルト陛下。
一代で、この地を、征服した、敵国の、王。
獅子のような、金褐色の瞳で、なんでも、見透かすように、見る、豪傑の王。
その方が、占領地の、視察と称して。
こともあろうに、この、ドラン伯爵家に、滞在なさることに、なったのです。
そして、その、初めての、晩餐の席で。
「――そなたが、この家の、令嬢か」
陛下は、わたしを、じっと、ご覧になりました。
「はい、陛下。ミレーユ・ドランと、申します」
わたしは、完璧な、令嬢の礼で、微笑みました。
一分の、隙も、ないはず。
声も、所作も、筆跡も。
わたしは、"ミレーユ・ドラン"に、なりきっている。
なのに。
陛下は、金褐色の瞳を、すう、と、細めて。
「――ほう」
なぜか、ひどく、面白そうに、口の端を、上げたのです。
「気に入った。……そなた、しばらく、おれのそばに、いろ」
……あら。
見初められて、しまったのかしら。
それは、それで、都合が、いい。
征服王の、寵さえ、得ておけば。
伯爵を"入れ替える"のも、ずっと、容易になる。
わたしは、しとやかに、頭を、下げました。
「光栄ですわ、陛下」
——このときは、まだ。
その方が、いちばん、厄介な、お客様だとは。
思っても、みなかったのです。
*
数日を、共に、過ごすうち。
わたしは、じわじわと、気づかされました。
この王は。
——なんでも、見えて、しまう、お方だ、と。
「ミレーユ」
ある夕暮れ。
打ち水をする、わたしの背に、陛下が、声を、かけました。
しゃあ、と。
柄杓の水が、敷石を、濡らします。
「妙な、令嬢だな、そなたは」
「あら。どこが、でしょう」
「令嬢のくせに、下働きの打ち水を、自分でやる」
陛下は、ゆっくりと、近づいて、きました。
「――しかも、ずいぶんと、丁寧に。まるで、何かを、洗い流すみたいに、な」
わたしの、柄杓を持つ手が。
ほんの一瞬、止まりました。
「……暑いのが、苦手なだけですわ」
「ふうん」
陛下は、わたしの、すぐそばに、立って。
金褐色の瞳で、わたしの顔を、覗き込みました。
「なあ、ミレーユ」
低い声で、囁くように。
「そなた、その名も、顔も」
しゃあ、と。
どこかで、また、打ち水の音。
「――本物じゃ、ないな?」
*
心臓が、ひとつ、大きく、鳴りました。
けれど、わたしは、商家の娘です。
顔色ひとつ、変えは、しません。
「……何を、仰るの、陛下」
「隠すな」
陛下は、にやりと、笑いました。
「おれは、人を、値踏みするのが、商売だ。……戦場でも、宮廷でも、な」
「……」
「本物の、伯爵令嬢の、筆跡を、おれは、以前、書状で、見たことがある。……そなたのそれとは、癖が、違う」
わたしは、しばらく、黙って。
やがて。
——ふ、と、令嬢の仮面を、脱ぎ捨てて。
にっこりと、笑いました。
「まあ。……ばれて、しまいましたのね」
陛下の、瞳が、面白そうに、光りました。
「わたしの、本当の名は、ミレーユ・アルセン」
わたしは、柄杓を、置いて、立ち上がりました。
「この家に、焼かれた、商会の、娘ですわ」
「ほう」
「わたし、この一年、かけて。……この家を、内側から、ひとりずつ、"入れ替えて"、まいりましたの」
しゃあ、と。
夕暮れの庭に、打ち水の音が、涼やかに、響きます。
「家令も、侍女頭も、次男坊も。……みんな、もう、本物では、ありませんのよ」
わたしは、扇のかわりに、濡れた柄杓を、口元に、そっと、あてて、微笑みました。
「あとは、当主の、伯爵ひとり。……あの方を、"入れ替えて"しまえば。この家は、丸ごと、わたしの、ものですの」
普通の、殿方なら。
ここで、青ざめて、わたしを、間諜と、斬り捨てるでしょう。
けれど。
陛下は。
*
「――はっ」
声を、あげて、笑ったのです。
「はっ、はははっ! 一族ひとつを、内側から、丸ごと、盗む、だと?」
金褐色の瞳が、爛々と、輝いていました。
「戦で、城を、落とすのとは、わけが、違う。……たった、独りで、内から、家を、喰らうか」
陛下は、笑いながら、わたしの、顎を、そっと、持ち上げました。
「気に入った。……いや、惚れた、と、言うべきか」
「……あら」
わたしは、少しだけ、目を、瞠りました。
「こわく、ございませんの? こんな、女狐が」
「こわい?」
陛下は、おかしそうに、喉を、鳴らしました。
「一国を、盗れる才を、こわがる王が、どこにいる。……むしろ、喉から手が出るほど、欲しい」
しゃあ、と。
打ち水の音が、遠くで、鳴りました。
「ミレーユ・アルセン」
陛下は、わたしの名を――本当の名を、はじめて、呼びました。
「おまえの、その復讐。……最後まで、おれが、隣で、見ていてやる」
「……陛下」
「いや。手伝ってやる、と、言った方が、早いか」
陛下は、不敵に、笑いました。
「伯爵ひとり、"入れ替える"くらい。……おれの手を、使えば、造作もない。そのかわり」
金褐色の瞳が、まっすぐに、わたしを、射抜きました。
「その家を、盗ったら。……おまえ自身は、おれが、いただく。おれの、妃として、な」
*
わたしは、この一年、たった独りで。
顔を、変え、声を、変え、名を、偽り。
だれにも、素顔を、見せずに、生きて、きました。
素顔で、笑ったのなんて。
家を、焼かれた、あの日から。
――一度も、なかった。
なのに。
このお方の前で。
わたしは、生まれて初めて、"ミレーユ・アルセン"の、素の顔で。
くすり、と、笑って、しまったのです。
「……よろしくてよ、陛下」
わたしは、濡れた手を、陛下の、大きな手に、そっと、重ねました。
「では、これは。……いちばん、割のいい、取引ですわね」
「ああ」
「家、ひとつと。……わたし、ひとりで」
「安い、ものだ」
陛下は、わたしの手を、握り返して、囁きました。
「一生かけて、支払ってやる。……おれの、女狐」
しゃあ、と。
夏の打ち水が、敷石を、濡らします。
その夜。
この家の、最後の、"お客様"――伯爵その人が、静かに、姿を、消したことは。
もう、申し上げるまでも、ございませんわね。
翌朝、庭では。
わたしが、いつものように。
しゃあ、しゃあ、と、涼やかに、打ち水を、していました。
*
それから。
ドラン伯爵家は、丸ごと、わたしの、ものに、なりました。
そして、わたしは。
焼かれた、商家の娘は。
征服王ライハルトの、妃として。
こそこそと、顔を隠す必要も、なく。
堂々と、表舞台に、立つことに、なったのです。
「ミレーユ」
夏の宵。
陛下は、わたしを、後ろから、抱きしめて、囁かれます。
「今日は、いい、打ち水日和だな」
「あら。陛下も、覚えられましたのね。……"流したいもの"が、おありなの?」
「ああ。……おまえの、まわりの、目障りな虫を、な」
わたしは、くすくす、笑いました。
しゃあ、と。
どこかで、下働きの、打ち水の音。
……いいえ。
もう、わたしが、自分で、撒く必要は、ないのです。
この方が。
わたしの"取引"の、すべてを。
隣で、面白がって、見ていて、くださる。
そして、それでも――いいえ、だからこそ。
このお方は、わたしを、世界のだれよりも、深く、愛して、くださいますの。
奪われたものは、帳尻ごと、取り返す。
それが、商家の、鉄則。
——ふふ。
思っていたより、ずいぶんと、割のいい、取引に、なりましたこと。
しゃあ、と。
夏の打ち水が、今日も、涼やかに。
いろいろなものを、きれいに、流して、いくのでした。
蜜月 憂です。今作は黒幕ヒロインもの、「商家の娘×打ち水」。家を焼かれた娘が、仇の伯爵一族に一人ずつ成り代わり、内側から家を丸ごと盗っていく下剋上。証拠は夏の打ち水が涼やかに洗い流す——そんな女狐を、ただ一人その本性を見抜いた征服王が、恐れるどころか惚れ込んで共犯に。ヒロイン自身が黒幕の、ざまぁ×溺愛です(タグに明記しています)。彼女は最後まで傷つかず、堂々と勝って愛されて幸せです。スカッとゾクッと、共犯の甘さを、どうぞ。




