石と雨、水晶と涙
オリジナルです。
テーマは「涙」。
暖かな春の陽差しが燦々と降り注ぐ、今日のこの良き日に――、まぁ、良き日なのである。
今でこそ晴れているが、昨晩までの土砂降りのためか、雲はかなり多く、色も汚い。
桜の花だって、まだ咲いてもいないか、あるいは咲いていたとしてもこれまた昨晩の雨で道の絨毯と化している。
枝に薄紅はほぼ遺っていない。
彼らにとっては悲惨な状況だ。
でもとりあえず、天気関係なしに今日は良き日なはずなのだ。人が言うには。
雨の匂いがする。潤んだ土から未だ燻っているのだろうか。
こういった香りを一般に「ペトリコール」と呼ぶが、直訳すれば「石の霊液」という意味らしい。結構謎だが、なかなか面白い。いやはや、石と雨には、不思議にも強い結びつきがあるようだ。
***
「よっ、流!久しぶり。」
「”昨日ぶり”、な。」
玻璃 晶。当たり前に同い年。
俺 - 湿江 流は一応、彼のことを親友だと思っている。
彼の認識は知らない。知ろうとも思えない。
「いやいや、今は昨日ぶりとか言ってられるけどさぁ。明日からはもう、前にいつ会ったのかも忘れて、次に会えるときなんて基本ないような日々になるんだぜ?少しは俺との会話も噛み締めてくれよなッ。」
「おー、はいはい。みんなだいすき〜〜。」
「友達いないだろ。対人関係弱者。」
「黙れ。よく知ってたな、そんな難しい言葉。てか、会いたきゃ連絡取れば良いだろ、そんなん。」
会おうと思えば会えるだろ、いつでも。この学校の奴らは大概全員もれなく地元ごとここなんだし。まぁ、特に会いたくもないが。
「……あ、でもそっか。そういや今年でこの学校も潰れんだよな。」
近年の少子化により学校が再編となり、俺が今いるこの学校は今年度を以って、閉校となる。
「……そーだぞー。この建物も次に何かに使い回されるでもなく、そのまま取り壊すんだとさ。もったいねーよな。でもさ、なんか、俺達と一緒に学校も終わるってなんかロマンチックだよな。」
「…………、はっ。」
どこにロマンス見出してんだ。
お前の弱者っぷりも大概じゃないか、恋愛方面に。
そう思った。
窓の外、春幾番かの風が吹き抜ける。
花壇のスイートピーが嗤うように揺れている。
軒のウグイスがさも嬉しそうに飛び出した。
今日は卒業式だった。
***
皆様、嗚咽も嗚咽である。
この量の涙なら、いずれこの教室は沈没するのではなかろうか。
式中、泣かせに来るイベントは多分に訪れたが、俺は泣けなかった。
俺の周りは、卒業生席も、後方の在校生席も、両側の教師・来賓席も、ついでに保護者席まで、俺を目として、涙の台風が出来上がっているように感じられるほどだった。
それぞれが泣き出すタイミングはまちまちで、証書授与、呼びかけ、合唱と様々だったが、やはり一番どっと泣き出したのは、「卒業生代表の言葉」、それも、「保護者・教師への感謝」のパートだった。
……何が感謝だ。くだらない。
退場間際、保護者席に自分の母親が一人、端の方に座っているのが目に飛び込んで来た。
……あーあ。
鳰辺 和音。ある時期の名を、湿江 和音。
俺の実の母親であり、俺がこの世で最も忌み嫌う存在のうち一つである。
学生時代、ある男と肉体関係を結び、そのまま1人目を婚前妊娠し、中絶。2人目が俺。それを機に結婚するも、俺が小学3年生のときに離婚。そんな母親である。母親と形容したくもない。
そして、俺が同じくらい恨んでいるのは、言わずもがな父親だ。湿江はこいつの名字である。下の名前は……、カドモ……?と言った名前だった気がする。
知らない。つまりは、もう名前も顔も思い出したくもないのだ。
思い出したくもないのだが、思い出してしまう。トラウマというやつだろうか。
酒に溺れては、逐一癇癪を起こし、空き缶や、皿、椅子までもが飛び交うのは日常茶飯事。そしてまた酒に呑まれていく自堕落極まりない人間のクズ。
多感な小学生の俺には、やはり刺激が強かったのだろう。今でも鮮明に、思わぬ瞬間に思い出して、魘されることがそこそこある。
親子という関係上、無情にも、俺にはあの血が流れているらしい。
……クソが。殺せよ。なんで俺なんか産ませやがったんだよ。産みやがったんだよ。
そのせいなのか、俺は男も女も引っ括めて、人が嫌いだ。
もはや動物が嫌いだ。植物も嫌いだ。要は、生き物が嫌いだ。
生き物の本質には「子孫を残す」という役目があるらしい。
種の繁栄の為としては仕方が無いことなんだろうが、俺にとっては、ちょっと思うところのある本能だ。
そして、何より彼奴等は”意思”を持っている。
故に、産むし、産ませる癖に、裏切るし、見捨てる。
なのに、生かす。
生かしきるまで死なせない。
生き物とは、不便で、面倒で、融通の効かない容れ物なんだと。
それは、あの式場の中じゃ、俺が恐らく一番知っている。
ムードに流されて、無責任に涙を垂れ流す野郎共よりは、絶対に、遥かに知っている。
そもそも、”涙”なんてのは、たまたま瞼の裏から漏れ出しただけの水分にすぎないのだ。
雲に残りきれず地面に堕ちて来てしまう雨のように、要らない水、無駄な水なのだ。
そんなもの、流して何になる。
無論、溜め込んでいても別に変わらないのだが、ならば便所に汚水と共に流しても全く不自由はないのである。
決して、綺麗なものじゃない。
それほど俺は、涙は無駄なのだと言うことも、誰よりも知っている。
なぜなら、いくら泣けど、動植物どもは救っちゃくれないし、両親の愚かさも、俺の抱えた悩みも、こんな性格も、涙は癒やしちゃくれなかったからだ。
***
泣き合い、抱き合い、別れ合う。
今日の日程は全て終わり、もう帰ってもいいはずなのだが、誰一人として帰ろうとしない。
「最後だ」、と写真を撮ってはまたね、と繰り返す。そのまたね、は何回目なのだろう。
…………いいなぁ。
俺も、人生がもっとマシだったら、あんな風に、人を好きでいられたのかな。
「……ーい、おい!」
「!?、呼んでた?」
「やっとだよ……。当たり前だろ、今何回目でお前が気づいたと思ってる。」
「あー、なんか……、ごめん。」
「”なんか”は余計だよ、ったく。――さぁ、流。」
「……帰ろうぜ。一緒に。」
「おう。」
︙
「元素ってさ、正味あれいつ使うん?」
「使わんだろ。」
「だよな!?、俺、前にちょっと周期表ちらっと見たんだけどさ、タンタルとか、あー、その真上のやつ忘れちゃったけど、あんなん聞いたこともなかったぜ?」
晶と2人の帰り道。
一緒に、こうやって話しながら帰れるこの習慣が、一番楽しい。
ずっと続けば良いのにな、これが。
「でも俺、意外とそういう元素とかも好きなんだよな。石が好きだからかな。オパールとか綺麗じゃね?」
石は裏切らないから、好きだ。
「なんそれ。」
「あのー、二酸化ケイ素って分かる?」
「なんそれ。」
「なんそれしか言わねえなお前。だからあれだよ。石英。俗に言う……”水晶”。」
「………!!!」
晶はいきなりハッとしたような顔をして、少し黙ってしまった。何だろう。
「……どうした?水晶だぞ、水晶。まんまお前の名前にもある…」
「あぁ!、いや、分かってる。……分かった。そうだよな。」
「……何が?」
何だ。どうしたんだ。何か変なことを言ってしまったのか、俺は。
俺が声をかけようと思った瞬間に、晶は遮るような、切羽詰まったような口調で言った。
「お前ってさ、どこの高校行くんだっけ。」
「俺は、すぐそこの高校。楽だから。お前はどうなんだよ、そういえば全然聞いたことないぞ。」
晶は再び閉じていた口をやっと開いた。
「俺さ。もうここ帰ってこないんだよね。」
「は?」
は?帰ってこないって……、
「引っ越すんだ。明後日にはこの街を出る。」
「ぇ……それはなんで……。」
「父さんの仕事の都合でさ。ほら、ウチの父親、転勤族だから。6年越しにまた異動になったんだよ。」
あ……確か晶の父親の会社は……、
「石英ガラス……、それでか。」
「やっぱ言っとかないとかなぁ、って思ってさ。」
「場所は?」
「……北海道。」
「それまた遠いな。」
「うん。場所の遠さもそうだけど、きっと新しい環境だから、向こう行ってもずっとバタバタしてると思うんだよね。だからもう、多分ここには戻ってこれない。万が一、また父さんが異動になったとしても、この街じゃないと思う。」
「…………。」
どうしよう。言葉が出ない。言いたいことは色々あるけど、口が動かない。
「あ、会えるかどうかは別として、連絡は取れると思うよ。だからまあ……、たまにはメールくれよ。」
引き留めたい。
行ってほしくない。
これじゃ、高校行ったとき話せる相手が居ないじゃないか。
「な……、」
思い出した。
昔、俺の父親が出ていったあの日、俺は彼を引き留めた。
なんで引き留めたのかは分からない。
でも、彼は俺を振りほどいて、もう帰ってこなかった。
裏切られた。
寂しかった。
悲しかった。
そうか。
だから、俺は彼を嫌いになろうとしてきたんだ。
つまり、俺は元々、彼を好きだったんだ。
あんな出来損ないな父親だったけど、たまに外へ連れて行ってくれたり、母親に内緒で俺を楽しませてくれたりもした。
ある時、俺は彼に連れられて、楽園を見た。
自分を囲う城壁のような雨雲を抜けると、白ポプラを揺らす暖風が頬を撫でる、どこまでも広がる花畑が、そこには在った。
花は、笑うように揺れていた。
鳥が、蛇が、嬉しそうに踊っている。
産ませ産まれる、喰い喰われる、そんな存在たちが、裏切りも背反も知らぬように、生かし生かされ、生きている。
天国のようだと思った。
俺は、その景色が、そこに息吹く凡てが、そして何より、それを見せてくれた父親が、好きだった。
……なんだよ。飴と鞭かよ。典型的なDV男じゃないか。
そんな男に懐いてしまって、出て行った今も、それを裏返すように頑張って嫌っている、俺も俺だよな。
その所為で、ついでに母親を嫌い、人を嫌い、生きとし生けるものまで全部を、嫌おうとしてたんだ。
俺は、人が好きだったんだ。
出て行った理由は、離婚だろう。
そんなこと分かっている。
両親の間で決めたことだったんだ。
そうだ。だから、晶が引っ越すのも、彼の家の事情だ。俺が口を出しても、引き留めても、仕方ない。かえって迷惑なだけだ。きっとそうだ。そう思うに違いない。……知ろうとは思えない。
「―――そっか。……まぁ、元気でな。」
これぐらいの方がいい。
もっと悲しくならなくて済む。
清々しくて、済む。
「……なんだよそれ。」
「え?」
「なんでそんなあっさりしてんだよお前は!!!」
晶の叫び声が、晴れた南西の太陽をバックランのように暈ませる。
「引っ越すんだぞ!?もう会えないんだぞ!?、”昨日ぶり”も、”久しぶり”も無いんだぞ!?!? 寂しくないのかよ!?」
「……晶、」
「俺は!!」
「俺は寂しいよ!!!」
「……!!!」
「おかしいじゃんか!この街にはすっかり馴染めたのに!!この街の皆が、ほんとに大好きだったのに!、友達に会えない!俺だけが会えない!、お前にも会えない!!」
晶の目には、珪砂が輝いている。
初めて……、いや、久しぶりに見た彼の涙だった。
言葉が出ない。
また風が吹く。春何十番目の優しさだろう。
「言っとくけどなぁ、俺はお前が居なかったら、こんな人間になれてないぞ。小3でここに来たけど、前にいた街じゃずっと浮いててさ、友達もできなかったんだよ。この街でも、始めはそうだった。悲しくて寂しくて、泣いてた日もあった。でも、そんな時に、お前は俺を友達の輪に入れてくれた。そのきっかけをくれた。仲良くしてくれた。それが、本当に嬉しかったんだ。まぁ、すぐにお前の性格は卑屈になってったけどな。」
「……それは、ごめん。色々あってさ。」
「今回は、”なんか”を付けなかったな。」
「ぁ……、うっせ。」
そうだ。違う。
俺が晶に引っ越してほしくないのは、高校生活とか関係なく、俺が寂しいからだ。
言えることは言っておいた方が良い。
言うべきだ。
「……俺だって、寂しいよ!お前居なきゃきっと今、こんな風には生きれてないよ。それこそ卑屈になってった時も、人を嫌おうとしてた癖に、人の笑顔を見てメンタルを保ってた節があるからな。特にお前は、そんな俺とも、ずっと変わらず話してくれてただろ?…………お前のおかげだ。」
「…………え?、珍しく素直じゃん???」
「やっぱ今の無し。会えなくなってせいせいするぜ。」
「おい台無しだぞ貴様。」
「でも、”これぐらい”の方が清々しいだろ。きっと、またいつか会えるさ。そう思っとこうぜ。」
「お、おう…………お前、体調悪いのか?」
自分でも驚くぐらい前向きな言葉が出た。
危ない。危ない。バレる。
「――なぁ、流。知ってるか。水晶ってのは、雨が降って、それが地中の熱い場所に深く深く染み込んだその地下水が、何十万年もかけてゆっくり冷え固まってできるんだぜ?。」
「……というと?」
晶は、ふっ、と笑って言った。
「雨のおかげで、水晶はできるんだ。俺とお前みたいだな、”親友”。」
親友……、親友か……。
お前もキザじゃねぇか。
――最後に知れてしまえたな。良かった。
俺は、同じようにふっ、と笑い返して、
「ありがとな、”親友”。」
やっぱり、言った方がいいことはちゃんと伝えるべきだ。
言うしかない。
そう思ったので、俺はちゃんと言ってみた。
「じゃ、俺はここで。」
「あぁ。うん。そうだな。」
「”またな”!」
「…………おう、”またな”。」
曲がり角、晶はこちらに背を向けて、遠ざかって往く。
もう、会えない、かもしれない。
晶が見えなくなっていく。
「……元気でな!!!」
住宅街に、自分の叫び声がディレイをかけたように木霊する。
晶は、振り返った。
こちらに手を振ったのが、幽かに見えた。
そしてまた遥か家々の奥に、煙のように、幻影のように、破れたシャボンの泡のように、滲んでいく。
見えなくなった。
足元に何か落ちたのを感じた。
その瞬間、また少し世界は晴れたが、すぐに滲んで屈折して揺らいでしまった。
俺は泣いていた。
危なかった。
もうちょっと決壊が早かったら、格好がつかないところだった。
あんなに馬鹿にしていたのに、涙が止まらない。
無駄だ、無駄だと言ったが、これも無駄だろうか。
いや、これは無駄じゃない。
要らなくなんてない。
涙もまた、良いものだと思った。
…………、おかしいなぁ……、ほんと。
石に滴る雫、鼻の奥がつんとする。
長い間乾燥した土壌に、雨が降って立ち昇るのが「ペトリコール」。
石と雨、石と水。そのシナジーを改めて、噛み締めた。
雲はもう清々しく、澄んでいた。
桜の花も、よく見れば綺麗に咲き遺っていた。
数え切れずとも大切な、あの日の楽園を孕んだような、風が吹き抜ける。
道端の街路樹も、花壇のコチョウランも、アスファルトの青草も、笑うように揺れている。
どこかでウグイスがさも嬉しそうに、新たな始まりを祝うように、鳴いている。
忘れないで居ようと思った。
沈みかける洪水の渦の眼中で、再び、ほんのちょっと視界が晴れた。
少し光ったように見えた、流れる自分の涙は、――彼の如く、まるで水晶のようだった。
【参考】
・リュシテアーと水晶
リュシテアー(またはリュシトエー)は、海神・オーケアノスの娘でゼウスの愛人のひとり。
リュシテアーがゼウスによって身籠ったとき、彼女は妊娠をゼウスから隠しておこうと望んだ。そこで彼女は植物・動物・石に助けを頼んだ。植物と動物は助けることを拒否したが、石は彼女が出産するまで閉じこめて匿った。
この間リュシテアーは彼女の運命のことで涙を流し、この涙が石に与えられて水晶(玻璃、水精)が誕生することになった。
リュシテアーはセメレーの別名であると主張する著者たちもいる。
・セメレー
テーバイの王カドモスとその妻ハルモニアーの娘で、酒神・ディオニューソスの母。
・カドモスとハルモニアー
カドモスは、「7つの門のテーバイ」として名高いテーバイの始祖。
ハルモニアーは、アレースとアプロディーテーの娘とされる調和の女神。
2人は結婚し子供を生んだが、子供たちはことごとく不幸な死に方をしたため、神の呪いがこれ以上テーバイに降りかからないようにと、カドモスと連れ添いテーバイを出て放浪の旅に出た。 カドモスがアレースにより蛇に変化する際に、ずっと抱き続け最後には自らも蛇に変じてしまった。
その後二人はエーリュシオンの野に住むこととなる。
・ニオベー
タンタロスの娘で、テーバイ王アムピーオーンと結婚し、多くの子宝に恵まれた。
ニオベーは女神レートーに対して子供が多いことを自慢し、その上アポローンとアルテミスの姿を馬鹿にして自分の子供たちが優れていると自慢した。
このため怒ったレートーは、アポローンとアルテミスに彼女の子供を殺させた。
嘆き悲しむニオベーの涙はとまらず、その後、子殺しを後悔したレートーがニオベーを哀れみ、テーバイで石に変えられたニオベーは風によって故郷に運ばれた。ニオベーは石になっても涙を流し続けたという。
ちなみに、タンタルという元素の名はタンタロスが由来であり、その真上の元素は、ニオベーが由来のニオブである。
・エーリュシオン
世界の西の果て、オーケアノスの海流の近くにあり、気候は温暖で芳香に満ち、花や白ポプラが茂った、神々に愛された英雄たちの魂が暮らすとされる世界。死後の楽園。
出典:ギリシア神話




