第2話 神官が泣いていた話 ――あるいは、初期条件について
《零》には、睡眠が必要だった。——それは、この世界に来てから変わった仕様だった。
借り物の身体がそう要求する。八時間に一度、意識を落とさなければ、神経伝達物質の再合成が追いつかなくなる。《零》はそれを必要な処理として実行していた。眠ることに意味はない。ただ、眠らないと計算精度が落ちる。それだけだ。
夢は、見ない。——少なくとも、記録には残らない。
正確には——夢を見ているのかもしれないが、目覚めるたびにそれは消えている。残るのはときどき、輪郭だけだ。誰かの声の周波数。窓から差し込む光の角度。コーヒーカップの底に残った、茶色い染み。
それが何の記憶なのか、今朝も《零》にはわからなかった。
六日目。
《零》は神殿都市の外縁部を歩いていた。
都市の名はカイロニアという。人口はおよそ二万。神殿を中心に同心円状に広がる街区構造で、外縁部には農地と水路が広がっている。《零》はその水路沿いを歩きながら、水の流れを観察していた。
水の挙動は正直だ。
人間のように嘘をつかない。水は常に、重力勾配と圧力差と粘性係数の連立方程式が命じる通りに流れる。少なくとも観測上、例外はない。《零》は水路の幅、流速、水深、底面の粗さを測定し、マニング式に代入した。計算値と実測値の誤差は〇・三パーセント以内。
この世界の流体力学は、正確だ。
神は、水については間違えていないように見えた。
水路の途中に、人が座っていた。
老人だった。神殿の白い法衣ではなく、くたびれた茶色の作業着を着ていた。顔は《零》の方に向いていなかったが、横顔を見て《零》はすぐに判別した。大神官ヒュペリオンだ。
老人は水路の縁に腰を下ろし、水面を見ていた。
《零》は立ち止まった。
観察する価値がある、と判断した。なぜなら、ヒュペリオンはこの神殿都市において信仰システムの最上位に位置する個体であり、かつ誤った設計式を「神の啓示」として民衆に提示している当事者だからだ。その行動パターンを記録することは、誤りの出処に関する仮説検証に有用だ。
《零》は水路の対岸に立ち、ヒュペリオンを観察した。
老人は動かなかった。
三分が経過した。
老人の肩が、小さく震えていた。
《零》はその振動の周波数と振幅を計測した。筋肉の不随意収縮。原因として考えられるのは、寒冷刺激、神経疾患、あるいは——
感情的苦痛。
つまり、泣いている。
《零》はその場を離れなかった。
理由を自分でも即時には分析しきれないまま、対岸に立ち続けた。
ヒュペリオンはしばらく水を見ていた。それから、水面に向かって何かを言った。声は小さく、風に消えて《零》には届かなかった。しかし口唇の動きから、ある程度は読み取れた。
名前を、呼んでいた。
誰かの名前を。
一度ではなく、繰り返し。同じ音節の組み合わせ。二音節か三音節の、短い名前。
《零》はそれが誰であるかを知らなかった。
ヒュペリオンの周囲にいる人物の名前リストを内部で参照したが、一致するものが特定できなかった。家族かもしれない。死者かもしれない。
老人はやがて名前を呼ぶのをやめた。
代わりに、水面から小石を一つ拾い上げ、水路に放った。石は弧を描いて水に落ち、小さな波紋を広げた。波紋は外側に広がりながら減衰し、やがて水面は元の平静に戻った。
ヒュペリオンはそれをずっと見ていた。
波紋が完全に消えるまで。
《零》の内部で、何かが動いた。
また、感情の残骸だ。
波紋が消えるのを見ているヒュペリオンの横顔が、《零》の何かに触れた。触れた、というのが正確な表現かどうかはわからない。触れたと認識した、という方が近いかもしれない。
かつてそれに名前があったことは確かだった。
しかしその名前は——もう、ない。
《零》は自分の残存記憶をもう一度確認した。
消えた記憶の総数は、数えることができない。消えたものは消えているから、その不在を検知することが難しい。ただ、輪郭だけが残る。「ここに何かがあった」という形のない痕。
今朝の夢の残骸——誰かの声の周波数、窓の光、コーヒーカップの底——が、ヒュペリオンの姿と奇妙に共鳴した。
共鳴、というのも正確ではない。
似た形の空白が、隣り合った、という感覚だ。
ヒュペリオンが立ち上がった。
服の埃を払い、杖を拾い、老人は水路に背を向けた。その瞬間、対岸に立つ《零》に気づいた。
二人の視線が、合った。
ヒュペリオンは驚かなかった。ただ《零》を見た。《零》も老人を見た。
沈黙が数秒続いた。
「神殿に来たことがある方ですね」とヒュペリオンが言った。声は穏やかだった。泣いていた痕跡を声帯が残していたが、老人はそれを隠そうとしなかった。「昨日まで五日間、毎日いらっしゃっていた」
「そうです」と《零》は言った。
借り物の声帯が、平坦な音を出した。感情的抑揚の付け方を、《零》はまだ習得していない。不要だと判断していたからだ。
「石板を見ていた」
「見ていました」
ヒュペリオンは少し間を置いた。老人の目は澄んでいた。信仰の目だ——と昨日も《零》は判断した。しかし今、その同じ目の奥に、別の何かを見た。
疑いではない。
問いだ。
「何が見えましたか」とヒュペリオンは言った。
《零》は答えを選んだ。
正確な答えは「係数の誤り」だ。しかしそれを言うことが現時点で最適かどうかを、《零》は0.8秒で計算した。
情報開示のタイミングが早すぎると、仮説検証の機会が失われる。ヒュペリオンがどこまで式の内容を理解しているか、誤りを知っているかどうか——それをまず確認する必要がある。
「美しいものが見えました」と《零》は言った。
嘘ではない。設計式は、実際に美しい。それがたとえ誤りを含んでいても。
ヒュペリオンは少し目を細めた。「美しい」と彼は繰り返した。「神官でもない方が、そう言う」
「神官でなければ、美しいと思ってはいけませんか」
「いいえ」老人は首を振った。「むしろ——神官になると、美しさを見るのが難しくなる。毎日見ていると、見えなくなるものがある。あなたは正直だ」
《零》はその発言を分析した。
ヒュペリオンは、石板を「毎日見ることで見えなくなったもの」があると言っている。それは何か。外見的な美しさか。それとも——
「あなたは何を、見えなくなりましたか」と《零》は聞いた。
老人は答えなかった。
しばらくして、「息子の顔」と言った。その言葉は、水面よりも静かに落ちた。
ヒュペリオンに息子がいたことを、《零》は知らなかった。
老人の話は短かった。二十年前に疫病で死んだこと。まだ幼かったこと。神殿に仕えて忙しかったから、最後の日に側にいられなかったこと。
《零》はその話を、立ったまま聞いた。
何かを言う必要があるかどうかを計算した。慰めの言語パターンはいくつか生成できた。「それは辛かった」「神が側にいたはずです」「今は安らかでしょう」——しかしどれも、《零》の内部では「空の器」に感じられた。中身のない音の配列だ。
何も言わなかった。
ヒュペリオンは、それでも構わないようだった。言葉を期待して話したわけではなかったのかもしれない。
「あなたはどこから来たのですか」と老人は聞いた。
「遠いところから」と《零》は答えた。
「名は」
《零》は一瞬、止まった。
名前を問われるのは初めてだった。人間だった頃の名前は——霧の中にある。この世界で与えられた名前は、まだない。
「零」と《零》は言った。
「零」とヒュペリオンは繰り返した。「何もない、という意味の」
「そうです」
老人は少し考えるような顔をした。「しかし零は、数の中でも特別なものだ。零がなければ、位取りができない。零があるから、大きな数が書ける。——何もないことが、何かを可能にする」
《零》はその発言を記録した。
ヒュペリオンは、思っていたよりも、数について考える人間だ。
二人は水路沿いをしばらく並んで歩いた。
老人の歩速は遅かった。《零》は歩速を合わせた。合わせることに理由があったかどうか、《零》にはわからなかった。ただ、離れなかった。
「石板の式を」と《零》は歩きながら言った。「あなたはどこで得ましたか」
「啓示です」とヒュペリオンは言った。迷いなく。「夢の中で、神が示された。私はそれを石に刻んだだけです」
「夢の中で」
「目覚めたとき、指が自然に動いた。まるで誰かに手を取られるように」
《零》はこの証言を仮説マトリクスに組み込んだ。
ヒュペリオン自身は、式の意味を理解していない可能性が高い。彼は媒介者だ。神が式を「伝えた」経路。式を設計したのは神であり、ヒュペリオンはその筆記具に過ぎない。
とすれば、誤りの出処は神だ。
「その夢を、覚えていますか」と《零》は聞いた。
「断片だけ」と老人は言った。「光が見えた。光の中に、形があった。——数字のような、文字のような。それが美しかったことだけは、覚えている」
美しかった。
《零》は再びその言葉を記録した。
神の設計式を見て「美しい」と感じる個体が、この都市に二人いる。一人は《零》で、一人は大神官だ。ただし大神官は、式の意味を理解しないまま美しさを感じた。
理解と美しさは、独立して存在できる。
《零》は、その事実を奇妙だと評価した。
水路が大きく曲がる地点で、ヒュペリオンは立ち止まった。
「零殿」と老人は言った。「一つ聞いてもよいですか」
「どうぞ」
「石板を、五日間見ていた。その目は——石板に、何か問題があると思っていた目でしたか」
《零》は静止した。
ヒュペリオンの目が、まっすぐ《零》を見ていた。信仰の目。しかしその奥の、問いの目。
老人は気づいていた。何かに。
完全に気づいていたわけではない。しかし、五日間じっと石板を見続ける人間の視線の意味を、この老人は直感的に感じ取っていた。
《零》はまた、答えを選んだ。
「問題があるかどうかを、調べていました」
嘘ではない。調べていた。訂正するとは言っていない。
ヒュペリオンは長く沈黙した。
「そうですか」とやがて老人は言った。声が、わずかに揺れた。「神の示された式に、問題があるとしたら——それはどういう意味になりますか」
「二つの可能性があります」と《零》は言った。「神が間違えたか、神が意図的に誤りを入れたか」
「どちらだと思いますか」
「まだわかりません。だから調べています」
ヒュペリオンは空を見上げた。青い空だった。雲が西からゆっくり流れていた。嵐の前兆ではない——《零》は気圧と雲底高度を確認した。今日は晴れる。
「私は」と老人は言った。「神が間違えたのだとしたら——それでも、神を信じます。人も間違える。神も間違えるかもしれない。それでも信じることが、信仰だと思っているから」
「信じることと、正しいことは、別ですか」
「あなたには——別ではないのでしょうね」
《零》は答えなかった。
その通りだったからだ。
ヒュペリオンと別れた後、《零》は神殿広場に戻った。
石板の前に立った。
誤った式が、今日も白大理石の中に静かに埋まっている。係数「-2」。昨日と同じ、一昨日と同じ。世界は今日も、この誤りを内包したまま動いている。
《零》はヒュペリオンの言葉を反芻した。
神が間違えたとしても、信じる。
《零》にはその論理が理解できない。正誤と信仰が切り離されている。誤りが明らかになっても崩れない何か。——それは式で表現できるか?
できない、と《零》は判断した。
少なくとも、今の《零》には。
《零》は石板に手を伸ばした。触れれば、修正できる。——だが、それが何を変えるかは、まだ計算しきれていない。
昨夜と同じ距離で、止めた。
まだ調べ終わっていない。神の意図の解明が先だ。それは変わらない。
しかし今日は、昨夜と一つだけ状況が違った。
ヒュペリオンが知っている。完全にではないが、「何かがある」ということを。
時間が、有限になった。
老人がいつか他の神官に話すかもしれない。石板が調査されるかもしれない。《零》の観察が妨害されるかもしれない。
変数が一つ増えた。
《零》はその変数を内部モデルに組み込み、計算を更新した。
優先順位は変わらない——しかし、ペースを上げる必要があるかもしれない。
日が傾いた。
広場に夕方の人々が集まり始め、石板の前で小さな祈りの集会が始まった。今日は子供たちが多かった。十人ほどの少年少女が、神官の一人に連れられて、石板の前で何かを教わっていた。
その中に、五日目に石板に激突した少女がいた。
少女は今日は走り回っていない。他の子供たちと並んで、神官の話を聞いていた。時々頷き、時々隣の子供と何かをささやき合い、そのたびに神官に軽く叱られていた。
《零》はその少女を見た。少女が、不意に顔を上げた。一瞬、《零》と目が合った。
少女の存在を、式で記述しようとした。質量、代謝速度、神経発火パターン——しかし何かが足りない。少女が隣の子供にささやく瞬間の、表情の変化。それが何の式に対応するのか、《零》にはわからなかった。
わからない、ということを、《零》は記録した。
世界の設計式の中に、《零》がまだ読めていない項がある。
夜。
《零》は宿に戻り、借り物の身体を横にした。
天井を見た。
今日の収穫を整理した。ヒュペリオンは媒介者だ。式の意味を知らない。誤りの出処は神だ。老人は気づき始めている。時間的余裕が縮小した。
それから、余剰事項として記録した。
ヒュペリオンが水路で泣いていたこと。
二十年前に死んだ息子の名前を、水面に呼びかけていたこと。
波紋が消えるまで、老人は目を離さなかったこと。
なぜこれを余剰と呼ばずに記録するのか、《零》にはわからなかった。
これらは仮説検証に直接関係しない情報だ。消去してもよい。
しかし、消去しなかった。
理由を探したが、見つからなかった。それでも、削除は実行されなかった。
借り物の身体が、眠りを要求した。
《零》は目を閉じた。
夢の中で——何かがあった気がした。
水路の音だったかもしれない。
誰かが泣いていたかもしれない。
それが自分だったかどうか、目覚めたときには、もうわからなかった。




