二十七章 風の導き
「報告書は読ませて貰った。お前でも聖具の行方が掴めぬとはな」
執務室の重厚な机に肘をつき、ロザリーは重々しい口調で呟いた。
その前に直立していたリリエは肩を竦める。
「幾ら私が情報網をあちこちに持っていて、美人で剣技が強くて頭が良くったって、常に上手くいくとは限らない。こればっかりはお手上げね」
「美人云々はともかくとして、情報網は当てにしていたのだがな。昔から情報収集は得意なお前だから」
「あら、どうもありがとう。でも報告書にも書いておいた通り、聖具の行方は分からなかったけれど、魔王の右手の行方なら分かってるのよ」
女王相手だというのに、リリエは軽い口調で言って右目をパチンと閉じた。
「〈悪魔の瞳〉が所有しているのだとか? しかしな、先代魔王の躯の一部はそこまで重要ではない。瘴気は年月を経てだいぶ薄れているし、所詮は一部だ。大事なのは、魔王の力を封じるのに必要な聖具なのだ」
ロザリーにとって、それは頭痛の種だった。聖具がなければ、魔王を倒せない。古来、神より賜ったとされる聖なる呪具なのだ。改めて作ろうとして、ほいほいと作れる代物ではない。
「もちろん分かっているのよ。絶賛、探し中なんだから。それにね、ロザリー、最近〈悪魔の瞳〉が巷を騒がしているのも知ってるでしょ? 例え一部とはいえ、躯も回収しなくては。あなたの隠し玉さんだって色々と手助けしてくれているのに、そんなことを言っては悪いわ」
「そうだな、軽はずみな言動だった。認めるから説教はよしてくれ。小言は宰相からくらいまくっているんだ」
うんざりとした溜息を漏らすロザリー。リリエはそんなロザリーを見て、悪戯めいた笑みを浮かべる。
「そーんなこと言って、説教でも一緒にいれて嬉しいなんて思ってるんでしょ?」
「バレたか。だが内緒だぞ、また怒られる」
ロザリーはにやりと笑って暴露する。二人は顔を見合わせて笑いあう。
しばしの後、リリエは真面目な表情に戻った。
「ケーネスの町が落ちたそうね。魔物の被害は後を絶たないわ。あちこち旅をしてみて、廃墟になった町や村を時々見かけたもの」
ロザリーの表情にも影が差す。
「魔王の住処である洞窟に近い北部から、じわじわと町が壊滅していっている。皆、エアリーゼに避難し始めているようだ」
「エアリーゼ? 風の神殿のある都市ね? グレッセン卿もさぞやご心痛なことでしょう」
「そのことで、彼から手紙が来た。避難民が殺到している為、物資が足りなくなってきているらしく、救援を求めたいと。わざわざ出向いてくるとのことだよ」
リリエは眉をひそめた。
「今のこの時期にいらっしゃるなんて、危ないわ。卿にも内乱の噂は届いているはずなのに」
「それだけ逼迫した状況ということだ。カザニフにもすでに救援依頼を出しているらしく、神官が何人か派遣されているらしい」
「そう。魔王問題は一国の問題ではないものね、カザニフが動いてくれて助かるわ」
それにはロザリーも同意見だった。幾らルマルディー王国が大国といえど、魔物に対抗しきれるわけではないのだ。ましてや神殿都市の問題にこちらはあまり手出しは出来ない。神殿都市は基本的に自治都市なので、国の関与は禁止されているのだ。今回のように、神殿都市自体が助けを求めてきたのならば、手も出せるが。
「リリエノーラ、お前は引き続き聖具の調査を頼む。〈悪魔の瞳〉については、例の彼に一任しているから問題ない。だが、王都からは出るな。今の時期、近衛騎士団団長に抜けられるときつい」
「了解です、女王陛下。貴女様の御身、このリリエノーラ・ヴェルディーの命に換えましてもお守り致しましょう」
騎士の誓いを口にして、リリエは優雅に一礼する。
ロザリーは見るからに不機嫌な顔になった。
「よしてくれ、私達は親友だろう?」
「親友だからこそよ。あなたの重荷を幾らかでも引き受けると決めて、騎士になったのだから。ねえロザリー、思いつめては駄目よ。魔王のことも、聖具のことも、あなたのせいではない。あなたの叔父上のことだってそう。今は辛くても、きっと良い方に傾くわ」
リリエの優しい励ましを受け、ロザリーは言葉を失くしてリリエの真剣な顔を見つめた。だが、その表情は一瞬にして消え、リリエは悪戯っぽく笑う。
「寂しくなったらいつでも言って。お酒くらいなら付き合うわよ」
「……単にお前が飲みたいだけだろう」
「あら、ばれた?」
リリエはころころと笑いながら、身を翻す。
「では、またね」
「ああ」
リリエが去って静まり返った執務室で、ロザリーは頬杖をついたまま薄らと微笑んだ。
白い風が爽やかに吹きぬけていったような、不思議な清々しさが部屋に残っていた。
* * *
「グレッセン卿」
名前を呼ばれ、車外に向けていた視線を右へと移した。
グレッセンは三十代後半の、穏やかな空気を纏った男だった。四角い帽子の淵についた、ベールのような白い布で隠されている深紅の髪と、深い緑色の目をしている。風の神殿のメインカラーになる白で統一された神官服を身に着けている様は、いかにも神官といった様相だ。静かでいて冷たくはなく、温かみすら感じられる優しい雰囲気をしている。
「着きました」
従者としてついてきてくれた神官のクリスの言葉に、グレッセンは軽く目を丸くした。居眠りをしていたわけではないのに、馬車が止まったことにも気付かなかった。
「ここ最近の忙しさといい、長旅といい、お疲れなのでしょう。今日は宿舎でお早くお休み下さい」
何もかもお見通しらしい。クリスのやんわりとした言葉に、少しだけ情けなくなる。
「すまないね。私がしっかりしなくてはいけないのに」
薄い金髪と青目をした、繊細な容姿をしているクリスは静かに笑っただけで、特に言葉は返さない。別にいいんですよ。雰囲気だけで、そう言われているのが分かった。
グレッセンは馬車から降りた。ちょうど中央神殿の前に停車しており、入口まで点々と続いている白い柱が見えた。柱の天辺を見上げると、女神像が目に映る。
――サワリ
空気が鳴る音がした。
風の囁きを拾い、グレッセンは振り返る。馬車が来た方角にある市場が見えた。
(あちらに何かあるのか?)
風の精霊がわざわざ呼びかけることは珍しく、グレッセンは興味を覚えた。
――サワリ
また、風の音がする。
特に何かを思うこともなく、グレッセンはそちらに歩き出した。
「グレッセン卿、荷物の用意が出来ました。――グレッセン卿?」
続いて、荷物を抱えて馬車を降りてきたクリスは、そこにグレッセンの姿が無いことに唖然とする。
「一体どこに……」
「どうかされたんですか?」
きょとんとした御者の言葉に、周囲を見回していたクリスは我に返り、頭を抱えた。
「――またあの方はっ! 一言残してから居なくなるようにと、日頃からあれ程言っているのに!」
ディルは雑用、流衣は〈塔〉に出かけてしまったので、リドは何もすることがなく、ノエルを連れて城下町をぶらついていた。
「王都は広いな。物が多くていいけど、人が多いのは嫌になるぜ」
「ギュピ」
全くその通りだ。そう言わんばかりに、ノエルが小さく鳴いた。
リドは黄土色の詰襟の上着の上に、灰色のマントをつけていた。城の侍女に頼んで貸して貰ったのだ。ノエルを連れて歩こうと思ったら、ノエルを隠す為にこうするしかない。上着は身体にぴったりなので、ノエルを入れる隙間はないし、籠に入れて歩くというのも女みたいで嫌だった。財布は首から紐で提げて上着の下に仕舞い込んでいるし、それに、手ぶらで歩く方が好きだ。
「だよなー。人が少なければ、お前も外に出られるもんな」
「ギューピピッ」
「ははっ、変な鳴き声」
リドは思わず笑ってしまう。たまに変な声で鳴くのだ、ノエルは。単語が増えた結果なのかもしれない。
市場の間を歩いていると、ふいにノエルが何かに反応を示した。
「ピギャピギャ。ギュピ、ピギャッ」
「んん~? どうした、ノエル」
「ピギャッ!」
よく分からないが、盛んに鳴き始める。マントの肩口からノエルはぴょこんと頭を出し、ぐいぐいと頭を左手の方に突き出す。リドは訝しく思いつつ、仕方なくそっちを見た。
チンピラらしき青年三人に、白い服を着た男が絡まれている。
「ピギャ!」
「なに、あれを助けろって?」
「ギュピィ」
ノエルは鷹揚に頷いた。伝わって大満足、というような妙に誇らしげな顔をしている。
(さっすが、飼い主に似て正義感の強いこって)
主人の暑苦しさを思い出し、リドは若干うんざりしたものの、気付いてしまったからには素通りするというわけにもいかず、そちらに足を踏み出した。
「良い服着てんじゃねえか、おっさん」
「なあ、貧しい俺達に金目のもんを分けてくんねえかなあ?」
「それは申し訳ない。連れと別行動をとっている為、お金を持っていないんだ」
強面の男達に凄まれているというのに、絡まれている男は心底申し訳なさそうにそう返す。
「ふざけてんのか、おっさん!」
男達のうちの一人が声を荒げる。
その光景を見て、リドはこれはまずいと思った。こういう輩は、金さえ出せば無傷で解放してくれるものだが、金がないと逆に暴力に走りがちなのだ。
「ああ、いたいた! ったく、こんな所で何してんだよ!」
リドは咄嗟に知り合いを装い、白服の男とチンピラの間に割って入る。
「君は……?」
きょとんとする男を無視し、リドはチンピラの方を向く。
「悪いね、あんた達。この人、すぐにふらふらいなくなっちまって困ってたんだ。話し相手になってくれてたんだろ?」
「なんだこのガキ」
「いやあ、ありがとう! ほんっと助かった。じゃあ行こうぜ」
無理矢理に話を纏め、リドは男の腕を引っ張り、チンピラ達が呆気に取られている隙をついて急いで大通りの雑踏に紛れ込む。人の多い所にさえ行けばこちらのものだ。
人の波に乗りながら、幾分離れた場所で振り返ると、獲物を逃したことで苛立ったように舌打ちしているチンピラ達の姿が見えた。追ってくる気はないようだ。ひとまず安堵する。
それから、雑踏を抜け、人数がまばらな広場までやって来ると、リドは男に向き直って忠告をした。
「おっさん、身なりの良い人間が、あんな所を一人でふらふらしてるもんじゃないぜ? 不良どもにとっちゃあ、ネギを背負った鴨同然だ」
「ギュピッ」
同意するように、ノエルが顔を出して鳴く。
男はノエルを見て、深緑色の目を丸くした。
「竜? 竜連れなんて珍しい」
「……おい、人の話を聞いてたのか?」
リドは思い切り目を眇める。
「ああ、すまない。少し驚いて。手を貸してくれてありがとう、助かったよ」
男は心からの笑みを浮かべた。ほっと心を和ませる、温かい笑みである。
「礼ならこいつに言うんだな。チビが助けろってうるさいから、手助けしたんだ」
「そうなのか。ありがとう、小さい竜君」
「ピギャッ」
礼を言われ、ノエルは誇らしげに首を反らす。
「で? あんた、一体どこの貴族? 辻馬車でも捕まえて……ああ、金が無いって言ってたな。うーん、ついでだ、送ってってやるよ。おっさん一人じゃ、きっと迷子になるのがオチだしな」
男は緩やかに首を振る。
「いや、それには及ばない。私は単に探していただけだから」
「探す?」
「ああ、私にもどういうものか分からないんだけど」
男の言葉を聞き、リドは目を丸くした後、ぶっと吹き出した。
「ははっ、探しているのに、何を探しているのか知らないのか? 変な奴」
――良かったわね、可愛い子。
ふいに風が吹き、風の精霊がそんな言葉を残して去っていった。
「は? 良かったって、何が?」
思わず中空に問いかけるリドの目の前で、今度は男が目を見開く。
「君、もしかして風の〈精霊の子〉かい?」
「そうだけど? なんだ、おっさんもそうなのか?」
不思議な縁があったものだ。
(ん? じゃあ、さっきのはどっちに話しかけたんだ? おっさんか?)
リドは首を傾げる。
男はまじまじとリドを見て、ふいに悲しげな目になった。
「……どうもありがとう。私はこれで失礼するよ」
「え? ああ、うん。気ぃつけてな」
男が急に沈んだ空気になり背を向けたので、リドは目を丸くした。それでも、ひとまず声をかけておく。
男がゆっくりと立ち去っていくのを目で追いながら、リドは更に首をひねる。
「……どうしたんだろうな、急に。な、ノエル」
「ギュピ」
マントの隙間から顔を出しているノエルも、不思議そうに呟くのだった。