四十五章 サイモンと流衣 1
湯気を立てている薄黄色の茶が入ったカップを、流衣は微妙な面持ちで見つめた。
カップの乗った小さなテーブルの向こうでは、黒い羽を背中に生やしている少年がカップを傾けている。
カップを手に取ろうとしない流衣を、少年はちらりと見る。
「飲まないのか」
「………うん、まあ」
流衣はそろりと目を反らす。毒が入ってそうで怖いなどと、正直に言えるはずがない。
「毒なんて入ってないぞ」
「…………」
どうやら、流衣の考えていることなどお見通しらしい。
あっさり看破され、沈黙する。
すると少年は気に食わなさそうに目を細めた。
「どうやらお前は〈悪魔の瞳〉を勘違いしてるようだな。一応、お前は客だ。客相手に毒を入れた茶なんか振舞わない。ネルソフみたいな下種どもとは違う」
「でも、魔王崇拝……なんだよね? 闇属性の魔法を使うんじゃ……」
少年の金色の双眸が刃物のように鋭く光る。
「やっぱりな。勘違いするな、俺らは闇の魔法は使わない。教祖様自身によって禁止されてる。瘴気入りの置物をばらまくことはしても、瘴気に触れることはない」
だから、と、少年は低い声を出す。
「――飲め。客の癖にそういう態度を取ると腹が立つ」
「飲みます! ごめんなさい!」
少年がスローイングナイフを取りだしたのを見て、流衣は慌てて謝り、カップに手を伸ばす。
この少年の機嫌を損ねたら、さっきのチンピラのような末路を自分が辿るはめになるのだろう。確かな予感とともに恐怖が募る。
普通、客相手に脅したりはしないはずだが、少年は今まで会った人間の中でも随分短気みたいなので口答えはしないでおく。
緊張のせいであまり味はしなかったが、茶は色に反して烏龍茶のような味がした。飲みやすくておいしい……ような気がする。出来ればこんな殺伐とした空気の中以外で飲みたかった。
「……あ、あの、何……?」
やたら少年がじぃっと見てくるので、居心地が悪く、流衣は長椅子の上で身じろぎする。
「俺はラーザイナ・フィールド中のあちこちに行ったが、お前みたいな肌の色をした人間には会ったことがない。変わった奴だと思ってるだけだ」
端的に、きっぱりと言う少年。
「はあ……」
そう言われても、これが流衣の国では普通だ。むしろ亜人や獣人の方が変わっているように見える。
「ところで、話というのは何ですか。僕、出来れば今日の乗り合い馬車に乗りたいんだけど……」
恐る恐る希望を述べてみる。
「それは無理だ。ここに来た時点で、今日中に帰すわけがない」
流衣の意見はあっさり無視し、少年は言い切った。
なんとも理不尽な応答だが、またナイフを取り出されるのが怖いので言い返せない。我ながら脅しに屈しやすすぎると情けなくなるが、怖いものは怖いのだから仕方ない。
「そ、それって……明日の朝日は拝めないって意味……?」
「返事次第かな」
ひいいいぃぃっ。
流衣は内心でムンクのように叫ぶ。
何ていうことだ。流衣はかなり恐ろしい所に来てしまったらしい。虎穴に入らずんば虎子を得ずなんて言葉があるけれど、虎子なんかいらないから出て行きたい。
青ざめて瞬時に硬直した流衣を見て、少年はにやりと笑う。
「――冗談だ」
「そ、そう……」
「ああ。半分な」
……ということは、半分は本気ということか!?
ますます凍りつく流衣。
「サイモンだ」
「へ?」
急に脈絡なく少年が言葉を口にし、流衣はきょとんとする。
「俺の名前」
「あ、名前……。僕はルイだよ」
サイモンにならい、名前だけ返す。
サイモンはちょっと意外そうに片眉を跳ね上げる。
「名を名乗るとは。勇気があるのか、ただの考えなしなのか」
「え? でも、名乗られたら名乗り返すものだよね?」
「なるほど、ただの考えなしだな」
何だか失礼な納得をされてしまった。
「だが、高い魔力といい、ふん、確かに教祖様が仲間に引き込みたがるわけだ」
サイモンは膝の上で頬杖をつき、なにげない口調で呟いて、不愉快そうに眉を寄せて目を細める。
「……やっぱり殺しておこうか。ムカツク」
「!!?」
流衣はズザザッと後ずさり、長椅子の背に張りつく。
「そ、それも冗談……?」
恐る恐る問いかける。
「八割くらい本気」
「………っ」
ど、どうしよう。確かに目が本気だ。
今にもスローイングナイフを取りだしそうなサイモンを前に、流衣は冷や汗をかきつつ、涙目になる。
せっかく呪いを受けても生き残れたのに、ここで殺されてしまうのか?
「そういうビクついているところもムカツク。俺、弱い奴は嫌いなんだよね。足手まといだし、やたら視界をちらつくし。いっそ始末した方が楽だけど、仲間相手にそんなことすると教祖様に怒られるからな。でも、お前は仲間じゃないし、問題ないだろ?」
「いや、あると思うよ!? 僕には大有りだからね! 殺すくらいなら帰らせて欲しいです!」
「―――ふん。まあいい。お前のお陰でネルソフに大打撃を与えたからな。勘弁してやる」
殺気を引っ込めるサイモン。
流衣はほっと胸を撫で下ろし、どぎまぎと長椅子に座り直す。
(つ、疲れる……。この人といるとすっごい疲れる……)
深い谷底を覗いて歩いているような、そんな危なっかしい気分になる。
「俺は気に食わないけど、お前のことを勧誘しとけって言われてるんだ。お前、俺達の仲間になれ」
殺伐とした状況を乗り越えたと思ったら、また難問が立ち塞がった。
流衣はピシリと岩のように固まる。
さっきの半分は冗談だという言葉を信じるなら、この返事次第で流衣の明日は無いことになる。
だが、しかし、流衣には彼らの仲間になる気は一切ない。
「え―――と……、悪いけど、お断りします。僕、目的があって旅してるから……」
恐々と、言葉を選びながら断る。緊張のあまり、心臓がバクバク鳴りすぎて気持ち悪くなってきた。
「ふぅん、そう。それじゃ仕方ないな」
思いがけずサイモンはあっさりとそんな返事をする。納得してくれたのかと流衣は表情を明るくし、サイモンを見た。が、そこに悪魔の笑みを見てとり、表情を一変、青くする。
サイモンは固まる流衣の方を見て、目を細めて優越感たっぷりに笑いかけ、何でも無いことのようにあっさりと言う。
「じゃあ、考えが変わるまでここにいなよ。そのうち教祖様の所に連れてってやる」
「……え? ちょっ!?」
ひょいと気軽な動作で席を立ち、部屋を出て行くサイモン。流衣は混乱しつつ呼び止めようと右手をさまよわせるが、完全に無視された。
そのまま去るかと見えたサイモンだが、扉を閉める直前にふと思い出したように言う。
「ちなみにこの部屋、魔法無効化の結界をかけてるから。魔法で逃げようとしても無駄だよ。じゃあな」
――バタン。ガチリ。
扉の閉まる音とともに、ご丁寧に鍵のかかる音まで響く。
そういえば、そこそこ大きな民家の中に案内された時、地下への階段を下りた。部屋自体は広いし、ベッドや箪笥、それから奥には浴室やトイレまであるようだが、サイモンの自室か客間の一つだろう程度に考えていたのだ。まさか魔法使い対策が施された監禁部屋だとは思うまい。
どうやら、流衣は自分から罠に飛びこんでしまったようだ。
「ど……どうしよう………」
呆然とする流衣に、今まで黙って事の成り行きを見ていたオルクスが口を開く。
『とりあえず様子見しては? 坊ちゃんはまだ完全に体力が戻っていないのですし、ちょうどいい休憩場所を得たと思えば宜しいですよ』
割と能天気な使い魔殿の言葉に、流衣はがっくりとうなだれる。
「そういう問題……?」
『逃げることよりも、先に、彼らがどういう魂胆なのか見極める方が大事かと。ずっと付き纏われても迷惑ですし』
「そうだね……」
確かに迷惑だ。
へんてこりんな使い魔に監視されるのは元より、おっかないお姉さんに殺されかけるのも頂けない。いや、一番怖いのは有言実行で即行動のサイモンだが。
あんな人達を束ねている教祖というのは、どんな人なのだろう。
――もしかして相当怖い人なのかも。
つい鬼のような形相をした妖怪を想像しながら、流衣はぶるりと身を震わせた。
*
クレイヴォーレの町。すぐ側の山から湧き出る水がちょっとした観光資源という、小さな町だ。
その小さな町に一軒だけある丸太造りの宿屋の扉が開き、その扉につけられた鈴がカラランと鳴って来訪者を告げる。
「いらっしゃい」
一階が食堂、二階と三階が宿泊スペースである宿だ。食堂では朝食を摂る客の姿が見えた。
食事だけか宿泊するのかと問う、筋骨たくましい偉丈夫……いや、女主人の問いに、リドは首を振る。
「人を探してる。ここにルイ・オリベっていう十三歳くらいに見える男とオウムが泊まってないか?」
「そういうあんたはどちら様だい?」
いぶかしげな顔をする女主人に、リドはあっさり返す。
「そいつの旅仲間で、友人ってとこ。リドだ。――で、いるのか、いないのか?」
「そう、友達かい。残念だね、彼なら今朝がた出てった所さ」
そう言って肩をすくめた女主人は、大仰に溜息をつく。
「重傷負って昏睡してたのに、ようやく気が付いたところで世話になってた貴族の家を追い出されたらしいね。そんな友達を心配して追っかけてきたってところかね?」
「似たようなものかな」
リドもまた肩をすくめて返し、小さく溜息をつく。
「そうか、ここにもいないか。あいつ、アカデミアタウンに行くって言ってたんだが、なんでまた街道から外れたこの町に来たんだ? 何か聞いてないか?」
「お連れさんの話だと、ここは空気が清いから、怪我や病気の回復には効くんだと。そんな風に言われたのは初めてで、町の住民としちゃあ驚くやら嬉しいやらってところだよ。ルイ君も良い子だし、亜人の旦那は立派な人だし、病持ちではなくて単に体力がないだけだから安心だし、払いも良いし。なかなか良いお客さんだったね。この時期、雪で道が閉ざされて客が少なくて商売上がったりだからねえ」
女主人は笑みを乗せ、うんうんと何度も頷く。そして、にかりと豪気に笑った。
「リドだったかい。あんた、そんなに心配しなくても、あの亜人の旦那がついてるんだから何も心配いらないよ。いやぁ、私も若い頃は名の通る冒険者だったから分かるけど、あの旦那、なかなかの使い手だね。足運びは静かで無駄がない上、足音はほとんど立てないときた」
そこまで言って、興奮した様子で拳を握る女主人。リドは次々に繰り出される言葉を前に、口を挟む隙もなく気圧される。
「一度、町を盗賊団が襲撃してきてねえ。あの旦那、騒がしいって言って出かけてって、素手で全員叩きのめして王国警備隊に突き出してたよ。刃物相手に素手だよ!? わたしゃすっかり感動しちまったよ!」
うっわぁー……。
リドはげんなりした。
(オルクスの奴、本当に敵には容赦しねえよな)
どんな黒い笑みで騒がしいと呟いたのか、容易に想像がつく。
リドとて敵対者には一切加減しないところがあるが、自分のことは棚に上げ、オルクスに叩きのめされた賊を不憫に思った。
「しかも亜人だっていうのに、薄着でねえ。『鍛えています故』だって、頼もしいよねえ。くううっ、私があと二十年若かったら……!」
中年の女主人は悔しそうに呟いている。
いや、もし二十年若かったとしても、オルクスは魔物、人間の女など歯牙にもかけないだろう。
「そ、そうか。話聞かせてくれてありがとよ。俺はもう行くから」
リドは頬を引きつらせ気味に頷いて頭を下げ、宿を後にしようとする。が、そのリドの肩を、女主人はがっしりと掴んで引き止める。
「教えてやったんだ。うちで飯を食っていきな。情報料だ」
にんまりと笑う女主人を前に、商売上手な女だなとリドは苦い顔をした。
「どうじゃった、兄貴」
宿屋前に停めた馬車のまえで待っていたアルモニカは、ダッとリドに駆け寄る。
「一足遅かったな。今朝、出てった所だと」
風の精霊が居場所を掴む都度に転移され、お陰で情報がごちゃごちゃしていて精霊達は混乱気味だ。それでもようやく流衣の足取りを掴み、訪れた町ではすでに出立した後だった。
精霊達は魔力の匂いで対象を探しているのだが、対象に転移されてしまうと、追っていた道がぶつりと途切れてしまい、手掛かりがなくなるようなのだ。犬が匂いで人を追っていて、川に出て匂いが消え、痕跡を失くすようなものらしい。そうなると、広い範囲を探し直すしかないのだが、前に通った場所もあってごちゃついてしまい、匂いの新旧が分からなくなって混乱する、というわけだ。
「そうか……。また探し直しか」
アルモニカはふうと小さく息をつく。それから、リドの手に抱えられているパンが詰まった紙袋を見る。
「で、その大量の食料は何じゃ?」
「情報料だって買わされた。飯食ってけって言われたんだけどな、食ってく暇無いっつったら、パンや総菜を押し売りされたんだ」
食料の入手は助かるが、こんなにはいらない。
手掛かりがなくなったこととは違った意味で疲労を覚え、溜息をつくリド。
「――とりあえず、今度こそアカデミアタウンに向かったみたいだから、そっちに行きつつ、精霊に探して貰うぞ」
「うむ。分かった」
アルモニカはそう頷いて、リドから紙袋を受け取る。そして馬車の座席に座り、わくわくしたように目を輝かせて中身を物色し始めた。
朝食はまだなのでお腹が空いていたのか、それとも単に庶民の食事が珍しいのか。
こうしていると普通の女の子だよなあと、リドはそんなアルモニカを一瞥し、楽しげに口端に笑みを乗せた。