四十三章 ありがとう、と、さようなら 2
「…………っ」
リドは手紙が皺になる程強く握りしめた。
急に手紙だけ残していなくなるなんて、意味が分からなかった。
流衣はまだ回復しきっておらず、杖がなくては十分に歩けもしないはずだ。だというのに、部屋の壁には丁寧に松葉杖が立てかけてあった。
オウムの姿が脳裏によぎる。誰が手を貸したかなど、考えるまでもなくすぐに分かった。
でも、幾らなんでも、手紙一つだけでいなくなることはないだろう。それが友人に、それも親友に対してすることか?
怒りとも失望ともつかない曖昧な気持ちで手紙の文面を見下ろして突っ立っていると、扉の開く軋んだ音がしてクリスが部屋に入ってきた。
「宣言通り、出て行ったのですか……。素直な方で助かりました」
部屋をぐるりと見回し、リドが手紙を見て固まっているのに気付いて、クリスはそんなことを呟く。
リドはハッとクリスを振り返る。
「……あんた、あいつに何した」
思ったよりも低い声が出た。リドの鋭い視線を受け、クリスは肩をすくめる。
「何もしていませんよ。ただ、出て行って欲しいと頼んだだけです」
それが当たり前だと言わんばかりの態度に、気付けばリドはクリスの襟首を掴んでいた。
「………何でだ? 何であんたがそんなことを頼む?」
怒気をこめて睨みつけるリドを、クリスはやけに冷めた目で見返す。普段は温和に笑みを浮かべているクリスからは想像出来ない程、温度の無い目だ。
「これがグレッセン家の一員になるということです。あのような見るからに怪しい、それも平民と馴れ合うことなど許されません」
「………んだと」
「どこから足を掬われるか分からない。友人? それも良いでしょう。ですが、グレッセン家の者は王族の分家としても稀な力からしても、とても狙われやすい。あなたは今後、友人を巻きこまないでいる自信がおありなのですか? 私はあなたのことも、卿のことも、そしてお嬢様のことも考えた上で、ああ頼んだのですよ」
神官服の襟を掴んでいる手をどけ、皺を直しながら、クリスは淡々と言う。
「……じゃあ一つ聞くが」
リドは険を込めてクリスを睨みながら、唸るように問う。
「何でしょう?」
「あいつは一応、アルモニカを手助けした恩人ってことになってる。そんな奴を、碌に歩けもしない状態でほっぽり出すのが、この家の礼儀作法だって言うのか?」
「それは……」
正論を突かれ、クリスは口をつぐむ。目が僅かに泳ぐのを見て、リドは嘲笑を浮かべる。
「よくもまあ、そんな最低な礼儀があったもんだ。俺は貴族だとか身分だとかそういうのは分からねえし、政治のことだってさっぱりだ。――でも、礼儀くらいは弁えてる。それが俺の命の恩人で、親友相手なら尚更だ」
クリスは僅かに目を見開く。
恩人……? と唇が動くのを見て、リドは淡々と語る。
「俺は誘拐された後、十三の歳まで盗賊団にいた。そこから逃げて、東の辺境の村で木こりの爺さんに弟子入りして――。その後であいつに会った。俺が逃げてきた盗賊団が村を襲撃してきて、俺は頭に勝負挑んで、でも結局殺されかけて、そこを助けられたんだ。怯えて震えながらだぜ? 信じられるか? そういう奴なんだよ、あいつは!」
言葉を叩きつけるように投げつけると、リドは話は終わったとばかりに、クリスに背を向ける。
「あんたが何を心配しようが、どう行動しようがどうでもいい。――でも」
リドはそこで一度言葉を切り、小さく息を吸うと、強い語調で言う。
「俺は自分のことは自分で決めるし、友人も自分で選ぶ。そこまで世話してくれなくていい」
そして、もう振り返らず、部屋を出て行った。
リドが開けっぱなしにしていった扉を見つめたまま、クリスはぽつりと呟く。
「――あなたはまだ子供だ。考えが甘すぎる……」
その目には、強い懸念がじんわりと浮かんでいた。
「あ、兄貴!」
ちょっと気恥かしそうにそう呼んで、廊下の向こうからアルモニカがぴょこんと軽く背伸びした。そして、まるで小動物のように小走りに駆けてくる。その手には魔法の教科書とボードゲームを携えている。
「お早う。ルイの所に行っておったのか?」
アルモニカの無邪気な顔を見ていると心が痛んだが、リドは無言で流衣の置き手紙をアルモニカの手に押しつけ、廊下を歩いていく。
「……え? おいっ、何なんじゃ一体……」
手紙を渡されたアルモニカは憮然とし、よく分からないものの皺くちゃの手紙らしき紙を見下ろして、最後まで目を通す。どさっと手に持っていた物を取り落とした。それくらい、驚くことが書いてあったせいだ。
「なっ、何じゃこれ! おい、兄貴! どういうことじゃ!?」
落とした物はその場に放置し、慌ててリドを追いかけて問い詰める。
「どういうこともこういうこともねえ、クリスさんが追い出しちまったんだよ。ちきしょっ、ルイは気が弱いからな、面と言われたら出てくだろうよ。ムカツク」
「何故クリスが追い出すんじゃ!? 意味が分からぬぞ!」
身長差もある為に歩幅が全く違うので、すたすたと廊下を歩くリドをアルモニカは懸命に走って追いかける。だんだん、追いかけるのに疲れて半分切れ気味になってきていたりする。
「あいつは身元のはっきりしねえ旅人だろ。で、俺らは身分ある由緒正しい家柄の者。つまりそういうこった」
「はあっ!? では何か、ルイが怪しいから追い出したのか! ワシらに近づかれるのが疎ましくて?」
聡いアルモニカはあっさり事情を看破して、驚愕をこめてリドを見やる。
「俺もこないだまで似たような立ち位置にいたってのに、やってくれるぜ全く……」
短く舌打ちするリドを見上げ、アルモニカも眉を寄せる。
どうもリドはポーカーフェイスが得意のようで顔は冷静そうだが、物凄く不機嫌なようだ。眉間に若干皺が出来ている。
勿論、アルモニカも追い出されたと聞いては腹が立つが、それよりも疑問があった。
「で、どこに向かっとるんじゃお主!」
「決まってんだろ、父さんの所だ。お前、このままにしとけるのか? あいつ、杖無しじゃ碌に歩けもしねえってのに、松葉杖残して出てったんだぞ!」
これにはアルモニカも絶句した。
「あ奴……馬鹿じゃ阿呆じゃとは思っとったが、何をしとるんじゃ!?」
思わず声を荒げて、窓から外を見て怒鳴る。そして、リドとともにグレッセンの執務室に走った。
「父さん!」
「お父様!」
バターンと乱暴に執務室の扉を開け放った兄妹を見て、書類にサインをしていたグレッセンは手を止め、いっそ感心した様子で頷く。
「やあ二人ともお早う。そうしていると、本当に兄妹だな。何だか嬉しいよ」
温和な笑みに緊張感をごっそり削がれつつ、二人は気を取り直して事情を話す。
「……そうか、クリスがねえ。うーん、困った子だなあ。でも、彼の言いたいことも分かるよ」
リドはむっとしてグレッセンの顔を見る。
「追い出したのが正しいって言うのか」
「そうは言ってない。ただ、うちの人間が一介の旅人と仲良くし過ぎると、むしろ相手に迷惑をかけるという点では本当だ。脅しの種になりやすいし、それにほら、ルイ君はあの通り頼りない感じだからね……」
これにはリドもアルモニカも黙った。
確かに、あの見た目の頼りなさと実際のひ弱さなら、簡単に盾に取れると勘違いする輩はごろごろ出てきそうだ。いや、勘違いではなく盾に取れる。
「でも身元不明ってのは頂けないな。神仕えの使い魔が側にいる異界人だ、これ以上の身元の保証があるかい」
「え、お父様、ご存知だったのですか?」
アルモニカはきょとんと目を瞬く。
「オルクス様が口を滑らせたから、ちょっとばかり問い詰めてみただけだよ」
にこにこと他愛の無いことのように言うグレッセンを、兄妹は頬を引きつらせて見る。
つ、強い……。
「いいよ、行っておいで」
そしてグレッセンは、あっさりとそんな言葉を放り投げた。
「「へ?」」
探してくるなんて言ったら、確実に止められると思っていた二人は、肩すかしをくらってポカンとする。
「これが我が家の流儀だと思われては迷惑だし、それに彼はあまり一人にしない方がいいだろう。この辺りには少ないとはいえ、人買いだってうろついている昨今だ。――あとは、こちらの都合だよ。単なるエゴだ」
苦笑を浮かべるグレッセンを、リドは怪訝な顔で見る。
「都合って?」
「……ああ」
グレッセンは小さく息をつく。
「リディクス、君が生きていたことをまだ公表出来ないんだ。実は少し問題があって……。ああ、生きていたってことが問題なんじゃない。アルモニカのことでね」
「私、ですか?」
いつもと違う丁寧な言葉で訊き返すアルモニカ。彼女は時と場所で言葉遣いと態度を変えるので、普段の彼女を知っている者からすれば借りてきた猫のように大人しく見える。
「本当は言わずに済んでいたから黙っておくつもりだったのだが、長男が帰ってきたのならば言わざるを得まい」
ふうとやるせなさそうに溜息をつくグレッセン。リドとアルモニカは自然と顔を見合わせる。
「アルモニカ、君にはとてもすまないことだと思うけれど、我が家は直系男子が継ぐ決まりだから、このままだとリディクスが跡継ぎになる」
「ええ、それは分かっています。私には精霊の祝福もありませんし、資格がありません」
少しはショックを受けるかと思ったが、案外あっさりとアルモニカは頷いた。アルモニカからすれば、精霊の祝福もないのに家を継ぐ方が問題で、兄が帰ってきたのならそちらが継ぐのが当然だと考えていた。……それに、そうすれば〈塔〉で研究を続けていられるというのも魅力的だ。
リドはやや複雑そうにアルモニカを見たが、全く気にしていないようなので内心で安堵する。母のことといい、自分のせいで妹に多大な迷惑をかけたことを実は物凄く気にしている。
「そこで問題なのだが……。アルスベル殿が王座に就いてから、国内の貴族に対し、子弟を一人、王都に住まわせるようにとの命令を出したのだよ」
グレッセンは軽く溜息をつく。アルモニカは息を飲んだ。
「それって……つまり人質ということですか!」
「ああ。反発が起きないようにする防衛策だろうね。あの方は反乱を起こして王座についたのだ、また反乱で斃れるのを憂うのは当然だ。アルスベル殿が王に就く前に治めていた西部一帯や関わりのあった南部の一部の領主はともかく、東部や南部の領主達の大部分では反発も強い。それに女王様は殺害されたわけでもなく、臣下の手で逃亡されたそうだし……いつ反乱が起きてもおかしくはない。つまり、そういうことだ」
グレッセンの落ち着いた声で語られると大したことではないように聞こえるが、相当大きな問題だ。
リドとアルモニカの表情にも、自然と緊張感が増す。グレッセンはちらりとリドを見る。
「君の友人のディル君の家もそうだ。噂の限りだと、本来なら末の弟――つまりディル君が王都に行くはずだったようだが、彼は今は行方不明である為に、次男のヴァン殿が王都に出向いたらしい。家長である長男のフィルフ殿と、それでちょっとした喧嘩になったらしいよ。まあ、フィルフ殿は病弱だし、自分が死んだ後はヴァン殿に家を任せる気でいるみたいだから、反感も強いだろうね」
思いがけなくディルの家の事情が出て来て、リドは驚いた。
「ちょ……っと待て、父さん」
リドは思わず右手を上げて制す。いっぺんに色々聞きすぎて、頭が混乱してきた。……まず聞きたいのは。
「父さんは、ディルがレヤード家の人間だって知ってたのか?」
グレッセンは片眉を上げる。面白そうに口元が弧を描く。
「それは愚問だね。彼はディルクラウド・レシムと名乗っていた。あの印象的な銀髪碧眼にレシムと聞いてすぐにピンと来たよ。彼の立ち居振る舞いは貴族のそれだし、軍人として育てられているのが分かる。軍人で貴族、そして銀髪碧眼でレシムと聞けば、『東壁のレシム』しか思いつかない。つまり、前レヤード家の家長の名で、ディル君の父君だな」
ルマルディー王国の貴族の名前は、名・父の名・家名の順に並んでいる。それでディルは修行中の為に家名を名乗らないと言っていた為に、レシムが父親の名前と分かるから、あっさりと結論に辿り着いたわけだ。
「レシム殿は黒髪でおられたがね。銀髪碧眼の美しい奥方のことは夜会でも話題によく上っていたし、そもそも私はレシム殿とは面識もあったしね」
レヤード家は代々王族を守る軍人の家系である上、堅物な人柄をしているのが玉に瑕ではあるものの人望があり、東部では大きな力を握っている。だから噂にも上りやすいのだ、とグレッセンは締めくくった。
リドは唖然とした。
レヤード家が東部一帯を治める領主であるのは、東部の辺境であるカザエ村に住んでいたから知っているが、そこまで実力のある家とは知らなかった。
「あいつ、そんなすげえ家の奴だったのか……。ただの暑苦しい修行馬鹿としか思ってなかったぜ」
実際、暑苦しい修行馬鹿であるが。
グレッセンはそんなリドの感想に肩を竦め、話を続ける。
「……そこでだが。もし今の段階でリディクスが生きていると公表してしまうと、アルモニカが王都に行かざるを得なくなるのだよ」
若干沈んだ声で言うグレッセン。椅子を立ち、窓際まで歩いていき外を見ながら続ける。
「神殿都市はどの国にも介入を受けない自治都市だけれど、我が家はルマルディー王国の王族の分家という微妙な立場だ。王に命令されれば出向かざるを得ない。――だが、アルモニカはまだ十四で成人していない子供で、しかも風の精霊の祝福を受けていない上、女の子だ。完全に脅威対象から外れているし、跡取りである為に王都に呼ぶことも出来ない」
アルモニカはとても複雑そうに眉を寄せ、沈黙する。
まさか無力である為に身の安全が守られているとは思いもしなかった。
「そこに風の精霊の恩恵も強い長男が生きて戻ってきたとなると、完全に我が家が脅威と判断されてしまう。当然、アルモニカを王都に寄越せと言うだろう」
呟くように言うグレッセンに、しかしアルモニカは強い口調で言う。
「しかし、そんなことでは何の解決にもなりません! 兄の立場が無いではないですか!」
「ああ、分かっている。だから時間が欲しい」
グレッセンはゆっくりと振り返る。その目には、強い意志の光が浮かんでいた。
「――二年だ。家督を継承する儀式は、成人の儀とともに行われることになっている。その為、アルモニカが十六歳を迎える静謐の第四の月までがタイムリミットだ。その二年でいい、あちこちに根回しする時間が欲しい。そして、リディクス、君もその間に家督を継ぐ覚悟をして欲しいのだ」
「二年……」
リドは目を瞠りながら、小さく呟く。
グレッセンは苦笑を浮かべる。
「私は臆病者の癖に欲深い人間だ。神官の長としてはあるまじき程に。……それでも、私はせっかく帰って来てくれた息子のことも、ずっと側にいてくれた娘のことも諦めたくは無い。それに二年あれば、この神殿都市の混迷ぶりも少しは片が付くだろう。
だから、リディクスだけでなくアルモニカも、心向くまま、好きなように過ごしなさい。――アイリスには私が上手く言っておくよ」
にっこりと、父親としての慈愛のこもった笑みを浮かべる。
生まれて初めて好きにしろと言われたアルモニカは、困惑して頬に手を当てる。
「え、でも、学校は……?」
「行きたければ行けばいいし、行きたくないのなら、別に二週間の休学が二年に伸びたくらいでとやかくは言わないよ。まあ勉強はして貰わなくてはならないがね。自分達の為にも」
「お父様……!」
アルモニカは目を潤ませ、両手を祈るように握り締め、パアッと明るい表情を浮かべる。
「では、私は、外に出ても良いのですね? あちこち旅したって、良いのですね?」
「うーん、旅をするなら、リディクスかヘイゼル先生がついてないと駄目だよ。一人は心配だし、アイリスだけでなく私も心労で倒れそうだ」
「分かりました! では、兄についていきます!」
いつの間にかアルモニカがついてくることに決まったリドは、へ? と間の抜けた声を漏らして傍らの妹を見る。まるで子犬みたいに目をキラキラさせた妹が、期待たっぷりに見つめていた。――かと思えば、リドが見たことに気付いた瞬間、断ったらてめえただじゃおかないからなと言わんばかりの黒い笑みを浮かべた。あまりの変わり身の早さに、リドの頬に冷や汗が伝う。
リドはとりあえずアルモニカから目を反らし、グレッセンに確認する。
「つまり、二年は自由にしてろってことでいいのか?」
「ああ。でもその間、家名は名乗らないでおくれ。余計な危険が付きまとうから」
「――ああ」
グレッセンのもっともな言葉に、リドは頷いた。
そうか。すぐにでも家を継ぐのかとそれなりに不安を覚えてもいたので、決意を固めるのに十分な時間を貰えて助かった。元々庶民として育っているので、分からないことの方が多いのだ。
「ありがとう、父さん。我儘言ってごめんな」
リドが礼を言うと、グレッセンは頬をほころばせる。
「もう帰らないと思っていた息子の我儘だ。むしろきけたことが嬉しいよ」
穏やかに返されて、うっかり目蓋が熱くなった。これが父親というものなのだなと、気恥かしいような嬉しいような不可思議な感情が胸を支配する。
「――ありがとう。じゃあ、早速出かける。また二年後に」
すぐに出かけると言っても、グレッセンは驚かなかった。ただ静かに頷いて返す。
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けて」
「行ってきます」
家族に対してこの言葉を使える日が来るなんて思いもしなかった。
少し照れるな。リドは頬を掻きつつ、身を翻す。
すぐ後ろで「行ってきます!」というアルモニカの溌剌とした声が響く。
……ところで、本当についてくる気なのか、こいつ。
静謐の第四の月は、この世界での十五月のことです。
お約束とか、言わないで下さいね……;
これもグレッセンの親心というやつです。