四十二章 お帰り 2
※この回、流血表現を含みます。
今から十年前のことだ。
グレッセンは静かな声で切り出した。
「私には息子が一人いた。名前はリディクス・グレッセン。生まれてすぐに風の精霊にも祝福を受けた」
そこで一拍置き、覚悟したように口を開く。
「だが、リディクスは死んでいない。死んでいることになっているだけだ」
「え………?」
意味がよく分からなかった。何でそんなことをする必要があるんだろう。
「実は賊に殺されたのではなく、さらわれたのだ。……我が家は風の精霊の恩恵を強く受ける稀有な血筋だ。先程も口にしたが、それで狙われたのだろう」
流衣とオルクスは相槌を打つ。
「息子がさらわれそうになった時、アイリスが……、リディクスとアルモニカの母親なのだが、彼女が止めに入った。アイリスは子供をとても可愛がっていたから、奪われるのが我慢ならなかったのだろう。私も、もしその場に居合わせたのなら止めに入っていた」
何かを悔やむように唇を引き結ぶグレッセン。しばらく黙り込んでいたが、軽く首を振り、話を続ける。
「その時、アイリスは賊の手にかかり重傷を負った。それにも関わらず、息子は奪われた」
グレッセンはぎりりと歯を噛みしめる。膝の上に置いた両手を力いっぱい握り締める。
「私達は必死で探したよ。しかしあのならず者を捕えた時には、すでに息子は別の者に売り渡された後だった。そして、風の精霊に問うても、何の手掛かりも得られず……。息子は死んだのだと、そう判断するしかなかったのだ」
血を吐くような声で暴露するグレッセンは、耐えきれなくなったのかまた顔を手で覆った。
流衣はそんな彼を息を飲んで見守るしかない。
我が子の身を案じる父親に、何を言えるだろうか。
「あの日から、アイリスはおかしくなってしまった。娘を部屋に閉じ込めて、一歩でも外に出ようものなら半狂乱になって騒ぎだす。このままでは娘の人生が狂ってしまう。もしかしたら今でも十分狂っているのかもしれない。でも、あのままにはしておけなかったから、〈塔〉の組合長であり、昔、私の教育係を務めていたヘイゼル先生に預けた」
「それで、その、アイリスさんは……?」
流衣は慎重に問いかける。
「生きているよ。とはいえ、死んでいるのと変わりはないのかもしれないが……。部屋から一歩も出ず、ずっと窓の外を眺めている」
グレッセンは自嘲的な笑いを零す。
「昔は、庭で白い薔薇の世話をするのが好きだったのだがな……。もう見向きもしなくなり、薔薇も枯れてしまった。彼女は息子を守りきれなかったことに絶望しているんだ。……それでも、私はきっと生きていると信じていた。もし我が家に戻らなくても、どこかで生きているのならそれでいいと。そんな言い訳をして、諦めてしまっていたのかもしれないな」
自分を嘲るような声音だが、グレッセンの目には深い後悔と哀しみが介在している。
流衣は泣きそうになる。
あんなに優しく笑う裏側に、こんな悲しい過去を持つのだ。人はなんて強いのだろう。そして、同時に脆くも見える。
「だが、王都でリド君に会った。風の精霊が導いてくれたのだ、関係ないわけがない。――しかし、彼は何も言わない。本当に関係ないのか? 知らないふりをしているのか? 訊けば済むことなのに、私は恐ろしくて訊くことが出来ない。もし、違っていたら? 知っていて、私達が助けきれなかったことを恨んでいるとしたら?」
だから、とグレッセンは言う。
「私は臆病者だ。彼の親友である君なら何か知っているのかもしれないと、こうして訊いている。直接は無理でも、間接なら耐えられる。どうか、教えて欲しい」
グレッセンは真摯な態度で頭を下げる。
流衣もそれに応えたいが、人の事情を勝手に暴露するのは偲ばれる。でも、一つだけなら良いかもしれない。
「僕は、全部は話せません。でも、リドには深い事情があって……。八歳より以前の記憶が無くて、家名も家族も故郷のことも思い出せないのだと、そう言っていました。僕といるのは僕の旅を見届けたいからだそうですが、きっと記憶を取り戻したい気持ちもあると思うんです」
流衣の言葉に、グレッセンは愕然とした様子で口を手で覆う。
「記憶が、無い……? それは、考えなかった……。そうか……それなら……。だが、しかし……」
緑色の目が戸惑ったように揺れるのを、流衣はじっと見つめる。
「僕には、事情とかそういうの、よく分かりません。でも、もしリドがそうだって可能性があるなら、話してあげてみてくれませんか? もし違ったとしても、それがきっとリドの為になると思います」
必死だった。そう言わなくてはいけない気がした。流衣は、この世界で出来た初めての親友の為に、膝に頭を押しつけるようにして懇願する。
「ごめんなさい。僕なんかが口出し出来る問題じゃないって分かってるんです。怖いでしょうけど……でも………お願いします!」
流衣が必死なのを見て、隣に座っていたオルクスも頭を深々と下げる。
「わてからもお願い致します。正直、あのクソガキのことは嫌いですが、坊ちゃんがここまで言うのです。少しくらい考えてみても罰は当たらないはずです」
いつの間にか頼む側が頼まれる側に逆転していることに気付き、グレッセンは目を瞬き、流衣とオルクスを見つめる。その唇が、ふ、と緩められる。
「ありがとう、二人とも。この臆病な心を、奮い立たせてみることにしよう」
流衣は表情を明るくして顔を上げる。
「じゃあ……!」
グレッセンは優しく微笑んでいた。何かが吹っ切れたような、清々しい笑み。
「私から話してみる。ここまできたんだ、もし違うとしても、きっと大丈夫……」
流衣はぐっと唇を引き結び、もう一度、しっかりと頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
どうか、どうか。この人にとっても、リドにとっても良い方向に向かいますよう。
誰にともなく祈った。
* * *
流衣の部屋の前まで来たは良かったが、話題に自分の名が上がったことで、リドは中に入れずにいた。
異様な程に良い耳が憎らしい。自分の話をしているのを聞くのは嫌いだ。
それですぐに去ろうと思ったが、聞こえてきた話につい耳を奪われた。
だが、アルモニカとその兄の母親が重傷を負ったという時点まで訊くと、気付けばそこから逃げ出していた。
廊下を走り、勝手口から庭に出て、人のいなさそうな場所へ奥へ奥へとひた走る。そして神殿の真裏にある小さな森のような場所に辿りついたところで、ようやく足を止めた。
肩で息をする。
耳の奥で鼓動がガンガン鳴り響いてうるさい。
何だ?
今の話は、何なんだ?
賊にさらわれた? ……自分もそうだ。でも、さらわれた時のことは思い出せない。気付いたら、盗賊団にいたから。
思い出せ、思い出せ、思い出せ!
あの時、何があった。
「あの時……っ。う……っ」
頭が痛い。誰かこの鳴り響く鐘の音を止めてくれ。
リドは頭を抱え、木の根元にうずくまる。
ぐらぐらする視界の先で、途切れ途切れに記憶が流れる。
白い薔薇。小さな庭。黒いフードの男。伸びてくる手。掴まれる腕。叫ぶ女。そして――赤い、血。
「ぐぅ……っ」
瞬間、急に吐き気を覚え、その場に嘔吐する。
「げほ、げほっ。……はあ……はあ……っ」
胸元を押さえて吐き気に耐えながら、荒い息を繰り返す。
右手で顔を覆う。目の奥がちかちかと点滅している。
「そ……うだ……。俺のせいで……母さんが………死んだんだ」
――白い薔薇を世話する母を見るのが好きだった。
だからその日も、リドは薔薇を見に来た。
そうしたらそこへ黒いフードの男が現れ、リドの腕を掴んで無理矢理連れて行こうとした。
当然、嫌だとわめいて暴れた。すると、声を聞きつけた母が駆け付けてきて、男に飛び付いたのだ。
「私の子に何をするの!」
母はそう叫び、男ともみ合いになる。
やがて、苛立った男がナイフを取り出し、母の腹に突きたてた。
リドは悲鳴を上げ、母に縋りつこうとしたが、男は力で押さえこんでこう言った。
お前が騒いだから、母親は死んだんだ……と。
凍りついたリドを連れ、男は庭を去る。庭に倒れた母は、力無くこちらに手を伸ばしていた。
自分のせいで死んだ。
そのことが受け入れられなくて、自分から記憶を消してしまったんだ。
何てことだろう。俺は、最低のクズだ。
目からとめどなく涙が流れる。
自分への絶望と、悲しみと、思い出したことへの安堵と。全部がごっちゃになって、巨大な波となって心を襲う。
「う……っ」
頭が痛い。
苦しい。
でも、思い出せないのはもう嫌だ。
そして頭を抱えてうずくまっていると、自分を探していたらしいグレッセンが焦ったように駆けつけてきた。
「リド君! どうしたんだ、具合が悪いのか?」
グレッセンは嘔吐の跡を見て、眉をひそめる。
「吐いたのか。……さ、掴まって。部屋で休もう」
優しく伸ばされる手も、何もかも煩わしい。この人に、父から母を奪った俺が、優しくされる権利なんかない。
「触るな!」
リドは思い切り手を振り払った。
どうしようもない感情が押し寄せてきて、顔を手で覆ってうずくまる。
手を払われて、グレッセンは一瞬傷ついた目をしたが、リドが本当に具合が悪そうだと見るや再び手を差し出す。
「我を張っている場合か。具合が悪いんだろう?」
「やめてくれ!」
リドは悲痛な声を上げる。
「俺は、あんたに優しくされる資格がねえ……っ。分かってるんだろ! 妙に俺に親切だったし……っ」
「それは………」
グレッセンは口ごもる。が、流衣達との約束を思い出し、逃げずに踏みとどまる。
「それは、君が私の息子だ、ということを言ってるのか?」
告げられた事実にリドはヒュウとかすれた息をし、認めてはいけないと思うのに、嬉しさを感じ、首を振って追い散らす。
「そう……だ。けど……でも、俺は息子なんて言われるような資格なんか……っ」
先程から意志に反し涙を流し続けている目で、リドはグレッセンを見る。
「俺のこと、恨んでるんだろ。母さんが死んだのは、俺のせいだ。俺があの時騒がなきゃ……母さんは………っ」
そこでまた猛烈な吐き気が込み上げて、地面に嘔吐する。
それが精神的なものから来るのだと気づいたグレッセンは、静かに首を振り、少し強張った顔でゆっくりと告げる。
「アイリスは……、お前の母さんは、生きてるよ。どうして私がお前を恨まなくちゃならないんだ?」
「え……?」
激しく咳き込んでいたリドは、呆然とグレッセンを見やる。その目には恨みの影は何もなく、代わりに後悔のようなものが浮かんでいた。
「むしろ、私の方が恨まれるべきだろう。お前を助けることも、探しだすことも出来なかった。許してくれなど言えるはずもない。だが、もし、僅かでも許してくれるのなら」
グレッセンは言葉を切り、覚悟を込めて言う。
「帰ってきて欲しい。――私達家族の元に」
穏やかで静かな声は、懇願のような響きをもっていた。
母は生きていた。
父は帰ってきて欲しいと言っている。
――夢のようだ。
ずっと憧れていた。これが、俺の、家族。
「俺は、家族を恨んだことなんか、一度もねえよ……っ」
口をわななかせ、どうにかその言葉だけを声にする。
グレッセンの目からも、涙が零れ落ちた。
「お帰り、リディクス……。……ずっと待ってたよ」
「……ただいま。父さん……」
父は息子を力いっぱい抱きしめ、二人は日が傾き始めるまで、そこでそうして静かに泣いていた。
十年にも渡って引き裂かれていた親子の、これが再会の時だった。
* * *
温かな日差しが落ちる、静かな部屋。
今日も女は椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。金色の髪は無造作に背中に流れ、白いドレスに薄らと影を落としている。
そこへ、扉の開く音とともに、訪問者が現れる。
女はゆっくりとそちらへ視線を向ける。そして、その綺麗な琥珀色の目がぼんやりと訪問者を見据える。
「私は、夢を見ているのかしら……。昔に失った子が、大きくなって帰ってきたような、そんな気がするわ……」
訪問者――リドは静かに笑みを浮かべる。
「夢じゃないよ、母さん。帰ってきたんだ」
そう言って、リドはそっと女の傍らに近寄る。
女は信じられなさそうに目を見開いて、リドへと震える両手を伸ばす。
「本当に? 本当に、リディクスなの……? ああ、お願い。顔をよく見せて……」
女がリドの顔を両手でやんわりと包み、まじまじと見つめるのを、リドは黙って好きなようにさせていた。
やがてそれが本物の息子で、これが現実だと知ると、目に涙を浮かべる。
「お帰り。お帰りなさい、リディクス……」
女の胸に抱きしめられながら、リドも呟きを返す。
「ただいま、母さん」
静かな部屋に、女の嗚咽混じりの泣き声が響く。
女が気が済んで手を放すまで、リドはじっとしていた。それが十年もの間、母親に心労をかけ続けた自分なりの贖罪だった。
「――母さん」
リドは泣き続ける母親に、静かに言う。
「俺さ、母さんが薔薇育ててるのを見るのが好きだったんだ。……また育ててよ」
帰って来た息子のささやかな願いに、女は、しきりに頷きを返す。
日差しは穏やかに光を伸ばし、静かな部屋に小鳥のさえずりが届く。
そこにはすでに悲しみの影はなく、温かな光に満ちていた。
リドの事情の解題編でした。
七幕タイトルの邂逅はカイコウと読みます。
この単語が好きで、たまに小説の章題などに使うのですが、思いがけない再会という意味合いがある単語なのです。
では、お粗末様でした……。