四十二章 お帰り 1
白い花を見ると、ごく稀に、頭の中をかすめる光景がある。
そこはどこかの庭で、白い薔薇が植えてあり、明るい日差しの下で穏やかな空気が流れている。そして薔薇の植え込みの前に立つ、髪の長い、ドレスを着た小柄な女の姿。
女はこちらに背を向けていて、リドは低い位置からその姿を見ている。
やがて女はこちらに気付き、振り返る。優しそうな微笑みだけが見えて、そこで必ず黒い幕が下りてしまう。
ふとよぎるこの光景はモノクロで色は無いのに、女の髪は金色で、服は白一色だと何故か分かっていた。
これは記憶の断片なのか、白昼夢なのか。
――リドには、どうしても区別が付けられない。
「真っ白だな……」
リドは神殿の屋根の上で、ぼんやりと雪原を眺めていた。
やがてそれに飽きると、僅かに傾斜している屋根にごろりと寝転がる。灰色の分厚い雲。ちらちらと雪が降ってくる。
まるで白い花弁みたいだ。
――この都市に来てからだ。あの白昼夢を見るようになったのは。
それに、ときどき、えも言われぬ切なさを覚える時がある。これが何なのか、リドには理解出来ない。知らない感情だ。誰も教えてくれなかった、分からない感情。
「ボロス爺さんなら、これが何か教えてくれるのかな……」
白い雪を掴むように右手を空に伸ばす。しかし雪は指の間をすり抜けて、かすりもしない。
思い出すのは、カザエ村で世話になった木こりの爺さんであるボロスだ。自分を本当の孫のように扱ってくれた、本当の祖父になってくれたらとまで思った人。ボロスのことを思い出したら、急に言葉交わしの森が懐かしくなった。
サワサワと揺れる枝葉とゆっくりと動く幹を持つユレギ。一見すると不気味にも見える、鬱蒼とした森だ。待つ人は誰もいないけれど、リドにとっての帰る場所だ。ようやく得た居場所。
もしかしたら、これは郷愁なのかもしれない。しばらくカザエ村に戻っていないのだ。
「くそ、じめじめ鬱陶しいのは性に合わねえ」
リドは勢いをつけて半身を起こす。
雪が降る厳寒の大地である為に、風は身を切るように冷たい。しかしリドにはそれが涼しく思えた。
暑いのは余り好ましくないが、寒いのは嫌いじゃない。凍えるような気温も、吹き抜ける風も、透明に澄んだ空気も、いっそ清々しくて好きと思えた。
上空を渡る風の精霊達の、楽しげで高らかな歌声が響く。彼女達はこの地が好きらしく、ここに来てから毎日機嫌が良い。
「よし、暇だしルイんとこに顔出すか」
見習い神官としての雑用は手早く片付けた。今日の仕事は薪割りだったから、木こりである自分には容易い仕事だ。ユレギの相手をするよりも遥かに楽である。
リドはひょいと屋根の上に立ち上がると、身軽な動作ですぐ下の渡り廊下に降りる。
急に降りてきた少年に驚く神官を尻目に、気軽な足取りで廊下を行くのだった。
* * *
安静生活も六日目を迎えた夕方、部屋で読書にふけっている流衣の元にグレッセンが訪ねてきた。
「あれ? アルのお父さん? 診察なら朝済んだし……。あ! アルならここにはいませんよ?」
予想外の訪問に流衣はアルモニカを探しているのだと思い、そう言う。
アルモニカは休学する代わりにどっさり渡された課題を片付ける為、自宅に戻っている。初日に謝った後にまた来るとの宣言通り、彼女は暇があるとすぐにやって来る。本当に遊び相手に認定されたみたいだと、退屈していたのもあって快く遊び相手になっていた。たまに魔法のことも教えてくれるので、流衣としても助かっている。
「ああ、いや……違うんだ。実は君に折り入って話があってね……」
何やら深刻そうな顔をしているグレッセン。流衣は自然と姿勢を正した。とはいえ、偉い人相手に――それ以前に客相手に布団の中にいたままというのは気が引けた。どうしようかと内心で困っていると、それが顔に出ていたのかグレッセンはアルモニカが放置していったベッド脇の椅子に腰かけて言う。
「楽にしてくれたまえ。安静を言い渡しているのは私なのだから、気にしなくていい」
穏やかな口調でそう言うが、何やら緊張しているらしいグレッセンを見ていると不安になる。
深刻な話題で、かつ流衣にも関係があること……というと、思い付くのは、自分がここにいることだろうか。そういえば、アルモニカが、エアリーゼには魔物に襲撃されて町や村を滅ぼされたりした人々や、魔物から逃げてきた人々が避難してきている為に大変だと言っていた。食糧は随分減ってきているし、城壁に囲まれた神殿都市内で暮らすことにストレスを覚えた避難民の間では、些細なトラブルから大きな喧嘩に発展することも見かけるようになったという。
そんな状況で、一年間も眠ったきりの患者の面倒をみていたわけだから、相当なお荷物だろう。自分でも面倒だと思う。
あっという間にその結論に行き着いて青ざめた流衣に、グレッセンは首を振る。
「いや、君が今考えていることは大方想像がつくが、それではないよ。眠ったきりの少年一人くらいの面倒をみる余裕ならあるから、心配しなくていい。それに今すぐ出て行けとも言わないから」
「そ、そうですか……。じゃあお話って?」
心底安堵して胸を撫で下ろし、では何なのか皆目見当がつかないのでグレッセンを見やる。
グレッセンは普段の落ち着いた表情と違い、どこか強張った表情で膝の上で両手を握りしめている。そして、言いにくそうに口を開いた。
「その……リド君、のことなのだが……」
「リド?」
また思いもしない名前が出て来て、流衣はきょとんと訊き返す。
そういえば、リドが、グレッセンやグレッセンの従者をしているクリスという男にやたらと構われると零していたのを思い出す。他の神官の話から、亡くなったグレッセンの息子――アルモニカの兄に面立ちが似ているせいみたいだという推測を漏らしていた。中身が中身なので強く突っぱねることも出来ず、面倒臭いとか何とか……。
「あのクソガキが何かしたんですか?」
リドが何か失態をしたと思ったらしいオルクスが嘴を突っ込む。
「いや、そうではなく――……」
流衣のすぐ右横の布団に座っているオウムを見て首を振り、それから神妙な顔になるグレッセン。
「ルイ君……。前々から不思議に思っていたのだが、そのオウムはもしや亜人なのかね? やけにすらすらと言葉を話すが……」
「亜人ではありません。わては使い魔で……ぶっ!」
流衣は大急ぎでオルクスの嘴を塞ぎにかかる。
『何するのですか、坊ちゃん!』
頭の中に響く声に切り替えて、オルクスが抗議の声を上げる。流衣はオルクスを手で抱え、グレッセンに背を向けてひそひそと言う。
「もう……隠そうってこの前話したところじゃないか。そういうことにしたら、一番怪しまれないよ」
『むむう。ですがわては嘘をつくことが出来ません! 神様方も精霊も使い魔も、皆そうです。真実しか口に出来ぬのです』
「え、じゃあ魔物は?」
『人間界に生まれるあ奴らにはそんな制約はありませんよ』
そうなのか……。オルクスは色々と決まり事の多い世界で生きているのだなと感心する。
「亜人ではないなら、単に流暢に言葉を操るオウムってことかい? 上手くしつけたものだねえ」
流衣が内心ではらはらしているのに対し、グレッセンはしげしげとオルクスを見ている。
「は、はは……。雛の頃から一緒にいるせいか、言葉を話せるようになりまして……」
引きつった笑みを浮かべ、何とかごまかそうと努力してみる。
火の神殿長やアルモニカのパターンはもう懲り懲りだ。
「ふふふ。でも先程、使い魔と聞こえた気がするが……」
グレッセンはにこにこと笑みを浮かべているが、その実、目が笑っていないように見えた。そして、彼は顎に手を当て、ふと思い出したというように呟く。
「そういえば、聖典の記述に、愛と慈悲の女神ツィールカ様にお仕えしている使い魔様のことが載っていたな」
ぎくり
「確か黄緑色の小さなオウムの姿をしていて、火と風と光の術に長け、人語を解すとか。第三の魔物という称号で呼ばれ、名前はオルクスという」
ぎくぎくり
「……ああ、そういえば君のそのオウムもオルクスという名だったな。これは面白い偶然だ」
「ハハハ……」
にこにこと微笑むグレッセンに対し、若干ひっくり返った声で、しぶとくごまかし笑いを浮かべる流衣。
――気付いてる。気付いてるよ、この人!
火の神殿長やアルモニカとは違った意味で怖い。笑っているはずなのに、笑っていない。
冷や汗が背中をだらだらと流れていく中、やっぱりグレッセンは穏やかに微笑んでいる。
「なあルイ君。君のような見た目の人間は初めて見たし、随分大きな魔力を持った魔法使いなのに、何故か君の名前は聞いたこともない。なのに、どういうわけか、魔法の事には厳しいヘイゼル先生に気に入られ、普段は絶対に誰も近づけさせないアルモニカに会わせた程だ。……それに、ヘイゼル先生から面白い話を聞いてね。君は世界を渡る方法を知りたがっていたそうじゃないか」
「え、ええ……そうですけど。ええと、“先生”?」
どうしてグレッセンがヘイゼルを先生と呼んでいるのか分からない。
「おや、娘から聞いていないかね。私の幼い頃、ヘイゼル先生は私の教育係を務めて下さっていたのだよ。だから今でも交流があるくらいには親しいんだ」
にっこりと笑い、更に続ける。
「そういうわけだから、先生からは君の話も少しだけだが聞いているよ。――なあ、隠し事をするのは辛くないかい」
と、グレッセンは心情に訴えかける作戦に出てきた。
(ぐっ。いたたたた。物凄く胸がいたたたっ)
良心にズカズカと矢が突き刺さり、流衣は内心でうめく。
心に訴えかけてくるとは、流石は神官職、どうすれば相手が心を開くか心得ている。
アルモニカのような突進型も対処に困るが、こちらの方が厄介だ。心配そうに言う相手に強く出られるはずがない。
「私は口が固いから、心配しなくても平気だよ」
駄目押しににっこり微笑まれ、流衣はとうとう白旗を振った。
娘に引き続きその父親までとは、なかなかの猛者揃いだ。……何て恐ろしい神殿だろう。
「……これはまた、難儀で厄介で壮大な迷子だねえ」
話を聞き終えたグレッセンの感想は一言、こうだった。
しばらく唖然と目を瞠っていたグレッセンだが、落ち着くと笑みを浮かべる。
「無理矢理聞き出したようなものだが、話してくれてありがとう。だいぶすっきりしたよ」
「はあ……それなら良いですが……」
流衣はついつい手元をじっと見つめ、ややあって恐る恐る尋ねる。
「あのぉ、気持ち悪かったりとかってしないんですか? 異国ならともかく、違う世界の人間なんて……」
「どうして? 君が殺人鬼だっていうんなら気持ち悪がりもするけれど、普通に言葉も交わせる人間だろう? それに勇者のこともある。記録では、毎回異世界より呼ばれるわけではないのだが、稀にそういうこともあるし……。彼らは大体において、知識や考え方といい、良い方向の影響を残して去っていく。だからだろうね、興味深いとは思っても、怖いとは思わないよ」
良い方向性での影響っていう話、そういえば女神レシアンテも言っていたなあ。流衣はちらりと記憶を掘り起こす。
「第一」
グレッセンは更に続ける。
「君はどう見ても人畜無害な子供だよ。怖がる以前に、保護をした方が良いのではと懸念を覚える程だ」
「へ、保護……ですか?」
つい流衣の脳裏に絶滅危惧種のパンダが浮かんだ。
「君自身は悪いことをしないだろうと思うのだが、君のことを悪用しようと思う人間もきっといるだろう。魔力が大きいということは、そういう危険もはらんでいる。幸いにして、運が良かったようでそういうことも無かったようだが……」
流衣のことなんて悪用してもたかが知れている気がするが、グレッセンは大真面目なので、本当にそういう危険があるものなんだろう。今まで気にしたことすらない。
「まあ、それ以前に、見た目の問題の方が大きいかな。珍しい見た目の人間を売買する者もいるからね……。特に被害に遭うのは亜人だ。数の少ない種の亜人程、人買いに狙われやすい。他には、珍しい力を所有する者もそうだね。――例えば、〈精霊の子〉とか」
何気なく紡がれた言葉に、流衣はバッと顔を上げてグレッセンを見た。そこではグレッセンがやるせなさそうに陰鬱な笑みを浮かべていた。
「風の〈精霊の子〉である為に、私自身、幼い頃はよく狙われたものだ。王家への脅しも兼ねたものも多少はあったが、それ以上にそういう者の方が多かったな。息子も……狙われたのはそれでだろう」
「息子さん……。アルが亡くなったお兄さんがいるって言ってましたけど……」
「その子のことだよ」
グレッセンの深緑色の目に悲しみの陰が差す。
何とも言えず沈黙する流衣の前で、再びグレッセンの顔が強張った。両手を握りしめる。
「それで、リド君、のことなのだが……」
「へ? あ、はい。そうでしたね」
急に話が切り替わったので、一瞬まごつく。
「君はリド君と親友だというし……、その……、彼のことを少し教えて欲しいんだ。出身はどこかとか、そういうことで」
「?」
何でそんなことを知りたいのかと流衣は首を傾げるが、どちらにしろ知らないので首を振る。
「いえ、僕も分かりません」
「……やはり、友人のことを話すのは気が引けるかな」
少し気落ちしたように肩を落とすグレッセン。
「いいえ、そういうことではなくて、本当に知らなくて……。でも何で僕にそんなことを聞くんです? リドに直接聞けば答えてくれると思いますが……」
グレッセンは膝へと視線を落とす。
「前に一度聞いたが、急に不機嫌になって教えてくれなかったのだ」
呟くように答え、更に沈んだ声で続ける。
「彼のあの髪の色と目の色に顔立ち、それからとても力のある風の〈精霊の子〉であること。その全部が、私にはそうとしか思えない……。でも、彼は何も言わない。何故だろう」
「? ? ?」
グレッセンが何を言いたいのか、推測してみたが流衣には丸きり分からない。
「何をおっしゃりたいんです? 話がさっぱり掴めません」
困っている流衣を見て、オルクスが代わりに問う。
グレッセンはうつむけた顔を右手で覆い、静かな口調で言う。
「少し積もる話になるが、構わないだろうか。良ければ話を聞いて、それで判断して欲しい」
急にグレッセンが小さく見えた。どこか痛々しくも見える姿に、流衣は気付くと頷いていた。
グレッセンはなかなか食えない人物です。