四十章 目覚め 1
*第七幕 あらすじ*
目が覚めた流衣を待っていたのは、思いがけない再会や事情だった。風の神殿エアリーゼを舞台に、複雑に絡み合う人間模様が交錯する。
さわさわと白いカーテンが風に揺れ、淡い影を床にえがく。
穏やかな午後の気配の中、部屋は沈黙に包まれている。耳を澄ませば、微かにベッドで眠る少年の呼吸が聞こえる程度。
一度死にかけてから、目を覚まさない少年。
短いようで長い月日で、元は短かった黒髪も肩先まで伸びている。
いつになったら起きるのだろう、こいつは。
内心で溜息をつきつつ、少年の額に手を当てる。そして、ここ一年ばかりでかなり上達した治癒の術を使ってみるが、いつも通り無反応だった。溜息を一つ。
誰でもいいから、こいつを起こしてくれないものか。
何の反応もなく眠り続けるなど、死んでいるのと変わらないと思うのだ。
だから、例えそれが、自分が信じていない神様でもいいからと、祈りにも似た気持ちを心に抱く。
こんな感情を抱える日が訪れるとは、旅に出た当初は予想もしなかった。
「いつまでも寝てないで、とっとと起きろよ」
眠ったままの親友に、そう小さく話しかけた。
* * *
流衣はハッと目を開けた。
二、三回、目を瞬かせる。が、さっきまで目の前に広がっていた花畑はどこにもなく、白色の石材の天井が影を落としているだけだった。あんな美しい光景の後では、何もかもくすんで見えるようだ。
(神の、園……?)
別れ際、レシアンテは神の園を辿れを言っていた。しかし流衣にはそれが何を示しているのか欠片も分からない。
後でオルクスに聞くことに決め、一度目を閉じる。何だか身体全体が重く感じる。くたびれているという感じだ。
ふうと息をつき、また目を開ける。口の中が渇いて張り付いている感じがして気持ち悪い。水を飲みたい。
流衣はゆっくりと半身を起こす。たったこれだけの動作がやけに疲れる。
(どこだろ……ここ………)
宿屋だろうか? 日常生活が送れる程度の家具が置かれていて、狭い部屋だが一人暮らしならこれくらいが丁度いい広さだと思えた。窓の方を見ると、カーテンが引かれていたがほんのりと光が漏れている。どうやら昼間みたいだ。
「………ぅ」
オルクスのことだから近くにいるだろうと思い、名前を呼んでみたが、声が上手く出ない。喉に手を当ててみる。どうやら寝すぎで声が出にくくなっているみたいだ。
誰もいないみたいだし、とりあえず現状確認だけでもしよう。流衣はベッドから降りようとする。……が。
(うわ)
支えていた手が滑って、降りるというより落ちた。それも派手に。
(うー……痛い………)
よっぽど筋力が弱っているらしい。自分の身体ではないみたいに動きがぎこちない。いったいどれだけ寝ていたんだろう。
床に転がったまま、顔の横にある右手を見る。
あれ?
不思議に思う。
そりゃあ自分は前から痩せてはいたが、ここまで痩せていただろうか? 筋張って骨みたいに見える。
そこで背後で扉の開く音がして、誰かが入ってきた。数歩室内に入り、ハッと息を飲んだ気配がした直後、ばさばさと本を落とすような音がした。
「ルイ!」
焦った様子で慌ただしく駆けよって来る。
流衣はそれで必死に身を起こし、自分の前に膝を着いたリドを見る。リドは何故か白一色の服を着ていた。何だか神官みたいに見える。
「お前……おせえよ……。どれだけ寝てたら気ぃ済むんだよ」
「………?」
感極まったように顔を歪ませるリドを、流衣は疑問と驚きで見る。
ここがどこで、いったいどれくらい寝ていたのか、それにその格好はどうしたのかとか、色々と訊きたいことが頭をかすめたが、泣きそうな顔をしているリドという余りにも非現実的な光景を前に全て吹き飛んだ。
理由はさっぱり分からないのだが、自分のせいらしいということは分かるので、罪悪感のようなものが心の中にぶわりと広がる。
が、声は出ないし、そもそも何を謝ればいいのかも分からないので、無言で硬直していると、リドは肩を貸してくれてベッドに座らせてくれた。
「まずは水に飯に医者だな。ちょっと待ってろよ」
そして、困惑する流衣を放置して、慌ただしく部屋を飛び出して行った。
流衣は開けっぱなしになっている扉をぽかんと見つめ、次いで窓の方に視線を向ける。
(えーと……だからここはどこ?)
それに、アルモニカやオルクスはいなくてリドがいるのはどういう訳だ? リドがいるのならディルもいるのだろうか……。
(二人はどうしたのかな)
アルモニカはともかくとして、あの主人第一のオルクスが近くにいないというのが解せない。もしかして何かあったのだろうか。
とりとめのない不安に襲われた頃、ようやくリドが見知らぬ男を連れて戻って来た。
深紅の髪と緑色の目をした優しそうな顔立ちの男だ。三十代後半か四十代初めの辺りか。リドと同じ白い詰襟のシンプルな衣服を着ていて、それがとても様になっている。
(あれ……?)
流衣はリドと並んだ男を見て、目の錯覚かと何度か目を瞬く。二人がとてもよく似ているように見えたのだ。
しかし、男の名乗りにただの他人の空似だと気づく。
「やあ、初めまして。私はデューク・グレッセン。この神殿の長を務めているのだが、君にはアルモニカの父親と言った方が分かりやすいかな? ……ああ、先に水を飲んだ方がいいね」
流衣がリドの手にある盆に乗った水の入ったグラスを見つめていたせいか、グレッセンはそう言ってグラスを差し出してきた。
その水を飲みながら、この人がアルモニカのお父さんなのかと内心で呟く。アルモニカと同じ赤い髪と深い緑色の目だ。印象はアルモニカと比べて随分柔らかいけれど。
そして遅れてグレッセンの言葉に反応する。
「神殿……?」
小さくてかすれた声しか出なかったが、グレッセンには聞こえたようで肯定した。
「そうだ。六大神殿のうちの一つ、エアリーゼだよ。覚えているかな? 君は影の塔で、呪いのせいで瀕死の状態に陥っていたことを……」
影の塔という言葉は知らなかったが、身に覚えはあった。
その言葉を聞いていて、黒いトカゲと使役者である男を思い出し、無意識に左腕に手を当て、ふとあちこちの怪我が治っていることに気付く。蹴られた左頬といい、左腕の骨折といい……順に手で触れていきながら、左手の甲に目をとめる。赤い紋様が痣になって残っている。呪いを受けた時の痛みを思い出して胸に手を当てるが、痛みはない。女神レシアンテは善き運命を授けたと言っていたが、呪いが消えたことがそうなのだろうか。
分からなかったが、あの時の暴力を思い出すと身が震える。
――けれど、自分がああなら、狙われていたアルモニカはどうなったんだ?
「あ、あの! アルを知りませんか?」
「え?」
目を丸くするグレッセン。
「えーと、上手く言えないんですけど。アルが狙われてて、僕がそれを邪魔しちゃって……そしたらあの人が怒ってですね……。ええと、とにかくあの人は〈杖の宝〉のことをアルに聞く気で、っていうことは僕より酷い目にあってるんじゃないかって……」
混乱気味に言葉を連ね、また部屋を見回してから、若干、身を乗り出す。
「それから、オルクス知りませんか? えと、オルクスっていうのは黄緑色のオウムで……っ」
「落ち着けって」
宥めるように肩を叩いてくるリドに、思わず食ってかかる。
「でもリド! あの人達はおかしいよ! いきなりヘイゼルさん家に魔法で攻撃してくるし、アルみたいな小さい女の子を平気で脅かすんだよ! それに影に変なトカゲ飼ってて、気持ち悪いし、追っかけてくるし……っ」
耳の奥がざわざわする。
不安の余り、目の前がぐらぐらしてきた。
ああ、どうしよう。どうしよう。
「アルモニカも、オルクスも無事だ。アルモニカは今は学校にいるし、オルクスの野郎はお前を守れなかったことでしょげて祈り場に引きこもってる」
リドは流衣の両肩に手を置いて、噛んで含めるように言う。そして一度言葉を切って、大きく溜息をつく。
「――あれから、一年経ったんだ」
二人が無事なことに安堵した流衣だったが、告げられた言葉に無言で目を丸くする。
何かおかしな冗談を聞いた気がする。
「いちねん……」
脳が理解を拒否している。また頭の中がパニックに見舞われた。
「い、一日の間違いじゃなくて……?」
思わず、眼前のリドの琥珀色の目を凝視する。が、冗談を言っている気配は欠片も見当たらない。
「一年だ」
「………マジ?」
「大マジ」
遅れてようやく流衣が事実を理解したようだと悟ると、リドは肩から手を放し、グレッセンを示す。
「とりあえず、医者の診察受けて、飯食って休んでろ。詳しいことはまた後で話してやる」
呆然自失に陥った流衣にリドはそう言葉をかけると、グレッセンに「こいつよろしく」と言って部屋を出る。
「………大丈夫かね?」
グレッセンの問いかけに、流衣はハッと正気に戻る。
「あ……すみません……色々とダメージが……」
「気持ちは分かるけれど、考えすぎるのも毒だよ」
「はい……。あの、ところでお医者さんって……?」
神殿の長なら神官なのだろうが、医者という言葉と今一噛み合わない。
「神殿で一番の癒し手は私でね。大丈夫、腕は良いから」
「でも……僕……あの……。入院費とか診察代とか……」
「心配しなくていいよ。娘のことがあるから、こちらから君の面倒をみると言い出したのだから」
グレッセンはやんわりとそう諭し、真面目な顔を作る。
「アルモニカについていてくれてありがとう。あの子は碌に外を出歩いたことが無かったから、君がいてくれてどんなに心強かっただろうと、親としてとても感謝しているんだ」
頭を下げるグレッセンを前に、流衣はまたもや混乱の渦に叩き落とされた。
内心で悲鳴を上げる。
(どどどどうしよう! 大人の人に、それも偉い人に頭下げられてる!)
そりゃあアルモニカとは一緒に行動していたが、だからといって役に立てていたかというと正直不安なところだ。
「あ、ああああの、そんなのいいですっ。ほんとっ、気持ちだけで十分ですっ」
内心でアルモニカに助けを求める。君のお父さんを止めて下さい、お願いします! が、ここにアルモニカはいないので、何の効果も無い。
かすれた声で叫ぶように言った流衣だが、急に大声を出したせいで盛大に咳き込む。
「ゴホ、ゴホ……ケホッ」
「す、すまない。無理をさせてしまったようだ。とにかく、先に診察するよ。いいね?」
若干慌てた様子で顔を上げたグレッセンに、流衣は咳き込みつつ頷く。
口の中の渇きは治まったが、どういうわけか喉の奥が鉄錆びたような味がする。流衣は無言で眉間に皺を寄せた。
*10.8.12 40章を大幅に書き直しました。読み直して頂けると助かります。
10.8.13 前41章は40章に纏めなおし、前42章は削除しました。




