金ベルトの腕時計の男
一 「初級簿記」講義
昭和五十六年四月、黒木と僕は、市内の私立大学の会計学科へ進学した。彼の祖父は国税査察官、父親は税理士の家系で将来の職業的安定のため会計学を修めるよう進言されたらしい。ただ祖父や父親のように一橋に行く学はなかった。僕も黒木も学がないから受験を避け、勝負を避けた推薦組。ただただ四年後の就活の足しになればと、初級簿記から会計学の門を叩き、淡々と記帳技術の習得に明け暮れていた。
「仕訳帳の『諸口』っていうのは、これが本当に必要だと思うかね?」
細田教授は僕の方を見て言った。
「僕は必要だと思います。元帳に転記するとき相手勘定が複数の場合は諸口があると便利だと」
「隣のきみはどう思う?」
教授は黒木を指して問いかけた。
「俺はいらないかなと。記帳手順を考えると『諸口』の存在はかえって、流れを乱すものになるかも知れません。借方科目が二科目で貸方科目が一科目のときには、借方にまず『諸口』と書いて、次に貸方科目を書くことになりますから、流れが不自然で気持ち悪いものになります」
「ふむ、なるほどね。諸君の考えはどちらも大変合理的だね。まぁこの『諸口』については中級簿記の部分でまた別の役割を紹介しよう。今日はこの辺でお開きしよう。では終わり」
週はじめ月曜日の二限が終わり、僕は黒木と大学前の喫茶店に昼食に出た。
ニ 卍と会計犯罪
「はい、いらっしゃい」
マスターが陽気に話しかけてきた。
「君たち最近よく来るね。一年生かい?」
「はい、僕も彼も」
「そうか、そうか。ゆっくりしてきや」
黒木と茶褐色のソファのボックス席に座った。
「僕はサンドウィッチにするよ。黒木は?」
「んー。俺はコーヒーでいいや」
僕はマスターにサンドウィッチとコーヒーを注文した。
「こっちのお兄さんは、何も食べないのかい?」
黒木は答えた。
「基本、一日一食で、朝と昼はコーヒーで済ませます」
「それはいかんな。若いうちは大丈夫かもしれんが、三十代に入るとだんだん身体がガタついてくる。食事には気をつけないといけん」
黒木はニヤリと軽く受け流した。
「ところでね」
マスターが話し始めた。
「君たちは地下鉄通学かい?」
黒木の方を見ながら「えーはい。僕も彼も」
「そうか」
マスターは話を続けた。
「私ももうこの店を始めて十年近く東西線で西手稲から中央通まで行って東豊線に乗り換えて商大前まで通っているんだけどね。最近朝の満員電車の中で気味の悪いものを見るんだよ。あんな光景を一人で抱えているのはもう気分が悪くてね」
黒木が言った。
「ほう。ではその続きはコーヒーをいただきながらうかがいたいですね」
「これは失敬。まずはサンドウィッチとコーヒーをね」
マスターは少々小走りで調理場に向かった。
黒木が話し始めた。
「札幌の地下鉄は中央通を起点に卍のような路線図で東西南北に分かれてるだろ。この卍は宗教的シンボルとして使われたり、家紋として使われたりするらしんだが、これがまた会計犯罪を想起させる」
あまりにも自信満々に言うので、すかさず口を挟めた。
「具体的にどんな?」
「まあ、本題に入る前にだ。三十億って見たことある?」
「あるわけないでしょ。三千万だってないよ」
「ということはもちろん、その重さも想像つかないだろ」
黒木は話しを続けた。
「昔、爺ちゃんが査察官時代に担当した大手精密機器工場の脱税案件で三十億の裏金を職員三十人の地方工場で現金保管していたことがあったらしくてね。内部通報で所長室にあることがわかっていて、数日前から査察当日まで現金の移動がないように張り込みまでしていたそうなんだけど、当日、査察に入ると三十億なんて影も形もない」
「嘘の内部通報だった?」
「いや、そうじゃない。内部通報日から査察当日までの間に迂回させられただけなんだ」
「でも張り込みをしてたんでしょ」
「もちろんしてたが、査察官であれば、三十億が三百キロの重量があることなんて容易に想像できる。しかしそれが盲点だったんだ」
僕も勿体ぶる黒木に対し、少し不機嫌に言った。
「どうやって運んだんだよ」
すると黒木はニヤリとし、説明を始めた。
「三十億を分散させて、製品と一緒に梱包して四つのペーパーカンパニーに発送したんだよ。しかもこのペーパーカンパニーは卍状に東西南北に分かれていたんだ。一点に集中させていた三十億をわずか数日で東西南北に散らばせる、巧みな芸当だよ」
結末まで辿り着いたところで、マスターがサンドウィッチとコーヒーを運んできた。
「お待ちどうさま」
マスターはサンドウィッチの皿とコーヒーをテーブルに置きながら、黒木の方を向いて言った。
「これで話を聞いてもらっていいかい」
「ええ、どうぞ」
三 木曜日の交換
「じゃあ早速聞いてもらおうかな」
マスターは僕の隣に座って話し始めた。
「私はね、毎朝、水曜日以外の平日は西手稲駅発八時三分、土日は四分の地下鉄に乗って中央通まできて、そこで東豊線に乗り換えて商大前まで来るんだ。もちろん時間的に満員だね。だからそんな中で不思議なことが起きたとしても本来は誰も気づかないんだろうけど、私のこだわりの癖のせいで気づいてしまってね」
黒木が間髪入れずに言った。
「もう少し具体的にお願いできますか?」
「これは失敬。つまりだね、私は腕時計には目がなくてね。地下鉄だとか、店にいてもそうなんだが、人の手首を見てしまう癖がある。それだから、地下鉄に乗っていても他の人が新聞とか本を読んだり、寝たりしているなか、私はキョロキョロと人の手首を見ていてね。いつも通りそんな癖を繰り返しているところ、常盤公園から乗って降り口の脇に立っていたサラリーマンの金ベルトの腕時計に目がいってね。やはり高級住宅の多い地域に住む人は違うなとジーっと見ていると、彼は手に持っていたビジネスバッグを西十二丁目から乗ってきたサラリーマンと満員電車の中で顔も合わせず交換したんだよ」
「交換ですか」
僕はあまり真剣には聞いていなかった。
「そうなんだよ。気持ちが悪いだろ?で、彼らは中央通でお互い顔も合わせず、点でバラバラに歩き去っていくからね。闇取引でもしているのかと思ったよ」
コーヒーを飲みながら聞いていた黒木が口を開いた。
「カバンを交換したのは、何曜日でしょう?」
マスターは考えながら答えた。
「木曜日だよ。あれは先週、店が休みの平日の次の日だったからね」
「なるほど木曜日ですか。ちなみにマスターがいつも乗るのは何番目の車両で座る位置は?」
「先頭から二番車両の優先席向かいの四人がけだよ。あっ、優先席は一番車両寄りの方だよ」
黒木はどこか好奇心を我慢しながら「そうですか。これは『諸口』の謎以上に興味深いですね」と僕の顔を見た。
「もしかして明明後日、乗ろうとしてる?」
黒木は自信ありげに言った。
「いや、乗ってみるのは明後日、水曜日だ」
四 空白の水曜日
二日後、僕は黒木に言われるがままに、朝八時前に西手稲駅へ行くと、すでに黒木は改札口で待っていた。水曜日の講義は午後の三限からなのに、この日はマスターの寝ぼけた話を真に受けた黒木に付き合わされ、意味のない早起きをさせられた僕は、あまり元気もなく「早いね」と声を発した。
「おはよう。じゃ行こう」
黒木と僕はエスカレーターを降りて、マスターが普段乗る車両の座席に座った。そして僕は思わず彼に聞いた。
「マスターが言ってた話は木曜日の話でしょ。何で今日水曜日に?」
「それはね」
黒木が続けて言った。
「きみも会計学徒だろ。木曜日にサラリーマンのビジネスバッグが交換されている、これは一種の取引だ。ということは、その前段として、何らかの契約があることを疑ってもおかしくはない。まして、水曜日だけマスターは地下鉄に乗っていないのだから観察してみる価値はある」
「うーん、契約?」
そんな話をしていると、地下鉄のアナウンスが鳴った。
「お待たせしました。八時三分発、中央通方面、新札幌行き発車します」
ドアが閉まり車両が動き出した。これから何が起きるのだろうと次第に不安になってきた。ただこれは繰り返される朝の日常だ。たまたまマスターは寝ぼけて現実と夢をごちゃ混ぜにしているに違いない。僕は自分にそう言い聞かせていた。そして発車から十分後、常盤公園に停車した。すると黒木が僕の耳元で呟いた。
「あの男だ、金ベルトの腕時計をしている」
僕は思わず黒木の顔を見た。黒木は無言のまま、目を閉じた。男は降車口脇に立っているが、カバンを持っていない。黒木は目を閉じたまま言った。
「見なくていい。西十二丁目まで待て」
動揺する僕の心拍数は上がっていった。四分後、西十二丁目駅に停車した。するとサラリーマン風の男が一人混雑の中、無理矢理、金ベルトの腕時計の男の隣に立った。
「何かポケットから出したな」
黒木が言った。
「紙切れっぽいよ」
その男はポケットから出した紙切れを隣に立つ金ベルトの腕時計の男に手渡した。紙切れを手に取った男は、それを下目遣いで確認するや、そのまま手放した。
僕はすかさず言った。
「捨てた、捨てたよ」
黒木はいたって冷静だった。
「中央通であれを回収する。飛んでいきそうになったら、足で踏んでくれよ」
二分後、車両は、中央通に停車しようとする。僕は黒木と混雑する車内で無理矢理立ち上がり、紙切れに近づいていった。ドアが開き、人の波に流されるなか、飛んでいきそうな小さな紙切れを足で踏み付けた。何とか回収した。車両を降りた後、早速、紙切れを見てみた。
「『C』って書いてある。アルファベット?」
黒木はすべてわかりきった様子で
「なるほど、これはなかなかの量かもしれない」
「量ってどういうこと?この『C』は何を意味しているの?」
「初級簿記の講義のときに細田教授がアラビア数字の雑談をしたのを覚えてるだろ」
「あーあれは、あれでしょ。期末試験のときに解答用紙に『なお、学籍番号はアラビア数字で記入すること』って記載したら、不学な学生が勘違いしてローマ数字で学籍番号を書いてきたって落ちの話でしょ。だけど、数字とアルファベットって何か関係あるの?」
黒木は笑いながら言った。
「関係大ありだよ、この紙切れの『C』はローマ数字の『100』だからね」
「えっ、そうなの?」
「そう。ローマ数字は定位文字だから一文字で桁も表せる。ゼロがないと桁がわからないアラビア数字とは違うのさ。俺たちの探求はここまでで、後のことは警察に判断を委ねることにしよう」
「警察?」
僕はこの紙切れの「C」とサラリーマンのバッグの交換が何を意味しているのかわからなかったが、およそ、よからぬことが平凡な日常の朝に行われていることを察することになった。
五 事の顛末
次の日、僕と黒木は三限終わりのティータイムにマスターの店を訪れた。
「はい、いらっしゃい」
月曜日に来たときと変わらず、マスターは陽気であった。
「一日一食の君はコーヒーだったね、君は?」
僕はもっぱら紅茶党なので、アールグレイを頼んだ。
「紅茶、アールグレイで」
「コーヒーとアールグレイね」
マスターは注文を聞いて、調理場に行こうとしたところ、黒木がすかさずマスターに話しかけた。
「マスター、ひとつ顛末の報告をさせてください。月曜日にうかがった金ベルトの腕時計の男の話です」
マスターは不思議そうな顔をしていた。僕たちに怪体験を打ち明けてからは、もうそんな不気味なことは気にもしていなかったのだろう。
「おぅ、もしかして調べてみたのかい」
「いえ、そんな大層なことはしていません。あくまで学生の推測の域を出ませんが、警察には相談しました。マスターが木曜日に見た光景はやはり、闇取引だと思われます」
マスターと僕は顔を見合わせた。
「マスターが木曜日に見たサラリーマン風の男同士のバッグの交換は、麻薬取引だと推察します。金ベルトの腕時計の男のバッグには麻薬が、もう一方の男のバッグにはその対価が入っている」
僕は黒木に質問した。
「なぜ、麻薬取引だと」
黒木は少し間をおいて答えた。
「俺は探偵でも、警察でもない。あくまで俺の考えたミステリー、空想だよ。少し頭の中で自由に冒険しただけだ」
黒木は続けた。
「最近、闇社会から一部の麻薬が学生にも流れているという新聞記事を読んだんだが、彼らはいったいどこで金銭の支払いとモノの受け渡しを行うのかと疑問だった」
「それが地下鉄だと?」
「そう、俺はそう考えた。朝の地下鉄は混雑していて警察を欺くには好条件だし、何せ中央通から東西南北に綺麗に路線が市内に枝分かれして、人も一気に散らばる。中央通を中継地点にすれば、通学に乗じてモノの受け渡しがしやすい。金ベルトの腕時計の男でない方の男は運び屋で、その男は中央通で降りた後、商売相手の学生に麻薬を渡していると思われる」
確かに理にかなった物語だとは思い、黒木の想像力の高さに感心していた。
「なるほど、だいぶ飛躍はあるけどおもしろいよ。で、あの紙切れの『C』にはどんな意味が?」
黒木は笑いながら答えた。
「ハハハ、そのままの意味さ。麻薬の必要量を伝えただけだ。『C』つまり、100グラムの麻薬を取引日の前日に伝え、翌日、金銭とモノの受け渡しを行う。彼らは極力、取引数量や金銭の流れを追跡されやすいデータに残さないように工夫しているんだ」
じっと黒木の話に聞き入っていたマスターは真剣な顔をして黒木に尋ねた。
「その話はフィクションで終わりそうかね、それとも―」
黒木はソフアに深くもたれかかりながら、答えた。
「もちろん、フィクションで終わることを願いますよ」
僕はそんな話をまさに黒木の空想として楽しんでいたのだが、それから三週間後、地下鉄中央通駅で麻薬の運び屋が一名逮捕されたという新聞記事を目にした。彼は現役のサラリーマンで小遣い稼ぎと借金返済の必要から闇兼業を始めたのだという。ただ僕はもうひとりの男がいることを知っている。金ベルトの腕時計の男だ。彼の存在もまたフィクションとはなり得ないものと思われる。
さて、事の顛末はさておき、黒木を素材に会計エッセイを書くつもりが、ミステリー小説になってしまったことをおおいに反省したい。この雑文は、文芸サークルの同人誌にでも載せてもらうことにする。
タイトルは「会計学徒の空想」とでもしておこう。
※昭和五十六年六月、銀杏玲著「会計学徒の空想」は北城商科大学文芸サークル同人誌に「金ベルトの腕時計の男―会計学徒の空想―」と改題され、掲載された。