動き出す時間と心
レイモンドがそんな穏やかな日々を手に入れて、数年経ち。
「ミシェルももうデビュタントか……時が経つのは早いものだな……」
しみじみと噛みしめるように言うブライアンの視線の先では、ミシェルが母であるジェニファーと共にデビュタント用のドレスを選んでいる姿があった。
この国で成人となるのは十八歳だが、それよりも前、十五歳をもって準成人とし、貴族の令嬢令息は社交界にデビューする慣例がある。
デビュー後はそれ以前よりもある程度自由に他家の令嬢令息と交流することが可能になり、人脈を広げていくことになるわけだ。
まだまだ政略結婚の多いこの国だが、中にはそのまま恋愛関係に発展、最終的には恋愛結婚に至るケースもあるのだとか。
もちろんその場合でも親同士の話し合いと許可は必要になるし、思わぬ提携に繋がることもある。
だからデビュタントは貴族令嬢にとってもだが、貴族家にとっても重要なイベントなのだ。
もっとも、ブライアンのような子煩悩な男親からすれば、子供が無事成長してくれた証の日でもあり、同時に親元から離れる第一歩でもあるという複雑な心境になってしまう日であったりもするのだが。
「本当に。お嬢様もすっかり淑女らしくなられました」
傍に控えるレイモンドにとっては、そうではないらしい。
穏やかな微笑みを浮かべ、ドレス選びに夢中になる母娘を見守っている。
彼の言う通り、お転婆娘だったミシェルはこの数年でぐっとお淑やかになり、礼儀作法やマナーに関しても文句の付けようがないレベルで身に付けている。
どこに出しても恥ずかしくないとはこのこと、きっとデビュタントでも周囲の視線を集めてしまうことだろう。
などと満足そうにしているレイモンドの顔は、親戚のお兄さんのそれ。
彼に言えば『親戚などとんでもない、恐れ多いことです』などと言うだろうが、主の娘を見るにしては随分と親しみを感じている顔をしていた。
「……ああ、お前のおかげでな」
「私ですか? はて、私はお嬢様の教育になど何も関わってはおりませんが……」
ぽつりとブライアンが言えば、レイモンドは全く心当たりがないのか、首を傾げる。
しかしブライアンは知っている、彼の何気ない『お嬢様はお淑やかな方がお可愛らしいと思いますよ』という一言が、ミシェルに立派なレディになる決心をさせたことを。
もっとも、レイモンド本人は本当にさらっと何気なく言ったので、覚えていないのだが。
相変わらず、罪な男である。
「これで当日のエスコートもお前に頼めたらなぁ、と思わんでもないのだが」
「流石に私では役者が足りません。若様が引き受けてくださったのですから、問題はございませんでしょうに」
せめて思い出に、とブライアンが零せば、気付いていないレイモンドは至って常識的な答えを返す。
デビュタントに参加出来るのは男爵家以上の令嬢で、そのエスコート役もまた、男爵家以上の令息などに限られる。
ただし、男爵令嬢の婚約者が平民や騎士爵の人間であれば特例的に参加することは可能だったりもするが。
レイモンドの場合、男爵家出身ではあるものの、当主も嫡男だった兄も死去しており、事実上カークス男爵家は没落してしまっている。
だから彼の身分は男爵家の人間ではなく騎士爵のレイモンド・カークスとなり、デビュタントで侯爵令嬢であるミシェルのエスコート役を務めることが出来ないのだ。
もっとも、仮に男爵家の跡継ぎなり当主なりになっていたとしても、ミシェルのエスコートなぞすればあちこちに敵を作ることになっただろう。
貴族社会において、侯爵令嬢の隣というのはそれだけ価値があるものなのだから。
「もっとも、お嬢様に令息方が群がるという問題が発生する可能性はございますが……」
「そっちはそれこそグレアムが何とかしてくれるさ。何しろ二つ上の侯爵令息なのだから」
「なるほど、それもそうですね」
やや投げやりな言い方のブライアンに、しかし気を悪くしたような様子もなくレイモンドは頷いて返す。
なにしろ侯爵家より上は王家と三つの公爵家しかなく、その公爵家に歳の近い令息はいない。
王家はミシェルの四つ上に第一王子、一つ上に第二王子がいるが、今年のデビュタントに参加予定はない。
となれば、侯爵令息であるグレアム相手に強く出られる令息はほとんどいないことだろう。
であれば、ミシェルに変なちょっかいを出せる者はいないはずだ。
ならば一安心、とレイモンドが思ったところで、不意にミシェルがくるりと振り返った。
「ねえレイモンド、このドレスとかどうかしら?」
その身にドレスを当てながら笑うミシェルの顔は、最近のお淑やかな令嬢の顔でなく、レイモンドの良く知るお転婆なそれ。
どこか安心した心持ちになりながら、レイモンドは頷いて見せる。
「はい、とてもよくお似合いですよ」
「そう、じゃあこれにしようかしら!」
褒められてはしゃぐミシェルを見るレイモンドの顔は、微笑ましい妹を見るようであった。
この時は。
それからしばらくして、デビュタントの日。
「お嬢様、そろそろお時間です」
普段より改まった騎士礼装を身に纏うレイモンドがミシェルの部屋のドアをノックしながら言えば、中で少しばかり人の動く気配。
もしや最後の仕上げだったかと察したレイモンドは、返事があるまで待つことにした。
「……わかりました。レイモンド、開けてもよくってよ」
「はい、かしこまりました。ご準備はいかがですか、お嬢さ、ま……?」
いつもの調子でドアを開けたレイモンドは、少しばかり目を見開いて動きを止めた。
いや、動けなくなった。
その視線の先にいるのは、もちろんミシェルである。そのはずだ。
だがレイモンドは、こんなミシェルを見たことはなかった。
デビュタントの女性が着る真っ白なドレスは、胸の下に切り返しのあるAラインのスタンダードなもの。
特段このデビュタントで派手に目立つつもりのないミシェルが選んだそれは、決して華美ではなく、むしろ清楚と言っていいもの。
だがそれが、一層印象を強くしていた。特にレイモンドにとっては。
お転婆なミシェルを良く知るレイモンドにとって、目の前にいる少女はまるで見知らぬ人。
おまけに化粧を施され大人びた印象を与えるその顔を見て、初めて気付いてしまった。
こんなにも綺麗な人だったのか、と。
そして、やっと気付いた。
彼女はもう子供ではなく、大人への階段を上り始めた女性なのだと。
気付いたその瞬間、心臓が今まで感じたことのない動きをした気がした。
いつの間にか顔に血が上り、何故だか急に暑くなったようにも思う。
言葉もなく立ち尽くしてしまったレイモンドに、不安になったのかミシェルが口を開いた。
「あの、レイモンド……? どうかしら、似合っている?」
心細げな問いに、レイモンドはハッと我に返り、慌てて居住まいを正す。
「は、はい、とてもお似合いです」
そこまで言って、1秒だけ迷った。
これを言っていいのだろうか、と。
だが、言わねば後悔するような気がして。
「それから、とても……お綺麗です」
口にした瞬間、もう戻れないところに一歩踏み出してしまったような感覚を覚えた。
けれど、そのことを決して後悔はしないだろう。
「ふふ……綺麗だなんて……嬉しい」
ミシェルが、花開くような笑顔を見せてくれたのだから。
再び言葉を失ったレイモンドの横をすり抜けるようにしてやってきた父ブライアンと母ジェニファーが言葉の限りを尽くして褒めるのを、聞いていたような聞いていないような数分。
ひとしきり褒められたミシェルが、レイモンドの前に進み出る。
「じゃあ、馬車までエスコートをお願い出来るかしら、レイモンド」
「はい、ご下命承ります、お嬢様」
慌てて引き締めた顔を作り、レイモンドは応じながら恭しくミシェルの手を取る。
そして、ミシェルの部屋から馬車まで。
護衛として同行し、馬車から降りたミシェルに付き添ってエスコート役の兄グレアムの元へと導いて。
合わせて十分にも満たない時間が、ミシェルとレイモンドが過ごしたデビュタントだった。
それでも。
それでも、レイモンドにとっては十分に幸せな時間だった。
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