009 見知らぬ場所
ここは何処だろうか。どこか朧気な場所。夢も、現実も。その境界線が曖昧で何もかもが霧がかっていてすべてを見通すことができない。ただ何故かこれは夢であり、現実でもあるという確信だけはこの胸にある。
辺りにはざぁーという雨の音がする。リビングだろうか、そこには大きなテレビと大きな机。椅子が3つあった。家族団らんの場所で心温まる光景だ。そこに胸がぽっかりと空いた女性の死体が転がっていなければ。
そしてその横たわる女性を自分の小さな小さな手が不安で揺れる心に合わせたようにゆすり動かしている。
「お母さん。ねぇ、お母さん。」
「どうしたんだい?」
「お母さんがね、お母さんが返事しないの。」
「そうなのかい?」
ふと先ほどまでいなかった男が女性の死体の迎い側に立っていた。どこか人好きのしそうな容貌をしており、優し気な雰囲気はその人の人徳を表しているようだった。一つ、そう一つおかしなところを除けば。
その男の口の周りにべったりと赤くドロドロしいものが滴っている。それは血だ。何がどうなってそうなったかは分からないが、血が口いっぱいに着いている。
「……うん。どうしたら返事してくれるのかなぁ。」
「ヌフフ。どうして返事しないか知ってるかい?」
「えっ?知っているの?」
「それはね……。僕が君の母さんの心臓を食べちゃったからさぁあああ!!ぎゃはははは。」
幼い自分のその純粋な問いに男は醜悪に顔を歪めて答えた。その狂った笑みはどこか現実味がなく、そしてその口から発せられた言葉は信じられないものだった。その時心に激情が走る。恐怖、畏怖、拒絶、絶望。様々な負の感情が幼い自分にのしかかる。
その感情が自分の心を深く深く澱ませて歪んでいかせるのを自分で理解できる。それでも止め方が分からない。一度理解したら止められない。どうにか感情を放出しようと口が大きく広がり声を発した。
「ひっ。い、いやぁあああああ。」
「ヌフフフフ。良いねぇいいねぇイイネェ。その悲鳴イイッ!!クヒヒヒ。クハハハハ。」
「うえぇええええん。」
「ムムッ?悲鳴はイイものですが、泣き声はいただけませんなぁ。鳴き声はともかくねぇ。ぎゃははははは。」
「ひっく、ひっく。」
男の雰囲気の変化に幼い自分は敏感であった。それはある種の生存本能か。その男の望むように今を改変しだす。どこまでも強大な感情という負荷は幼い心を押しつぶし、ついには軽減させることに成功した。
それは代償に心を消費して。きっと生きていくうえで必要だったであろう感情を、正の感情を、負の感情を、感じるであろうはずだった未来を閉ざして成しえたことだった。それでも澱んだ心は晴れることなく幼い自分を蝕んでいく。
「ほぉら、ほぉら泣き止まないとお母さんみたいになっちゃうよぉ。ぐへへへへ。」
「ひっ。うぅうぅ。」
「そうそう。いいよぉ。イイヨォ。ゲヒヒヒ。」
「ひっ、ひっ。」
改変が完了しつつあった。幼いながらの自分でもわかっていた。これを終えた瞬間に自分はたぶん戻ってはこれないことを。それでも人間の生物の本能は今を生きることを選んだ。幼い自分の未来を奪った。
「僕はね。“食人鬼”なのさぁ。だからねぇ。君のお母さんを食べちゃったんだぁ。くひっ、くひっ。」
「……っ。」
「あー、あー。おいしかったなぁああ。また食べたいなぁ。あっ……。」
「……ぇ?」
空気が変わったことを幼い自分はまたも感じ取った。そして同時に心の奥からふつふつと怒りが湧き上がってくることを感じた。この不条理な世界へ。この理不尽な男に対して。自分の心を代償に無駄をした自分に対して。
それはただの子供の癇癪だと思った。でも、それを受け入れた。癇癪だっていい。ただの自分の生きる権利を叫んでいるだけなのだ。それでいいのだ。
「女の心臓すぐそこにあるじゃないかぁああ。それもあれと同じ血肉で出来た心臓がさぁあああ。あー、食いたいなぁ。食いたいなぁ。」
「……。」
「うへえええええ。たまらなくおいしそうだ。じゃあ、いただきまーす。」
「……。“愛憎霊装”。」
怒り、憎しみ、許さない。その心が狂器として発現した。際限なき憤怒、果てなき憎悪、終わりなき鉄槌を下さんとその身を包んだ。形は自分の夢。いつかの絵本で見たそんな美しきお姫様の姿。
「あっ?なんだっ?そんなちんけなもので僕に対抗しようって言うのか?あぁあぁぁぁぁぁあああああ!!腹立つ腹立つ腹立つ。僕はねぇぇええ!ゴミにねぇえええ!舐められるのが一番嫌いなんだよぉおおおおお!このごみがぁああああ!」
「……お母さん。愛してる。そして私を一人にするお前が憎い。愛しくて、憎くて心が張り裂けそう。これがそう。無限の愛。愛して、愛して、私を食べて?そして一つになる。それが最高の愛なんでしょ?お母さん、ね?」
ぶつぶつと自分の心に言い聞かせる。お母さんに、目の前の男に、そして何より自分に。愛して、愛して、愛して、そして憎んで、食べて。その全てこそ無限の愛で最高の愛だとそう決めて、かくしてなった。ここに狂器“愛憎霊装”が。
「餓鬼がぁ。ぶっ殺してやる。はらわたをほじくりだして生きたまま食ってやる。そして最期は命乞いする君の心臓を取り出して目の前で食ってやるっ!」
「ねぇ?あなたは私を愛し(憎み)尽くせる?試して魅せてよ。」
「このがきゃあああ。」
「じゃあね。名もなき“食人鬼”さん。またどこかで会いましょう。」
自分の一閃は確かに男を切り刻みその肉体を地面へと倒れさせた。終わりは呆気ないもので、幼い自分はこんな簡単なことに色々なものを犠牲にしたのだ。そんな自分が憎くて、憎くて、憎くて。それでも自分を愛している。
「なっ。ぐはっ……。バカ……な。」
「あなたの愛が足りなかったの。それなら仕方ないでしょ。」
「……。」
「死んじゃった。……ねぇ、お母さん。私を無限の彼方に迎えに来る王子さまは何処にいるのかなぁ。早く会いたいなぁ。その時まではこの気持ちを大事にしまっておくから。待っている。ねぇ。」
絵本で見た王子様のように素敵で、美しく、私だけを愛してくれるそんな人を私は愛して、憎んで、食べるから。だから、あなたも愛して、憎んで、私を食べて?ねぇ?私を見ている王子様。
本当の自分の心が戻ってくるのを感じる。そして眼下の少女がぐるぐると目を狂気に包ませながらこちらを見ていた。目があった瞬間自分の意識は白に包まれやがてここから消えた。幼い天城凪海を取り残して。