006 記憶略奪者
昔から僕は記憶能力に問題があった。物、人それを覚えることが出来ず、過去の出来事の記憶なんて欠片も残ってはいない。そんな中でも言葉という中核だけは覚えられたのは奇跡と呼べるものだろう。
そんな僕は常に記憶するということに飢えていた。日記や写真、動画など数多の記憶を残してきたが、それを見返すたび他人の日常を覗いているようで、実感がなく、吐き気がするような気持ち悪さに襲われていた。
僕は何者か。僕は誰か。僕は本当に僕なのか。そうやって自分を定義づけるための毎日を送り、精神が擦り減るような毎日を送っていた。
「こんにちは。」
「はい、こんにちは。どうかされましたか?」
「えっと、道を聞きたくて。」
そんな時に彼女に出会ったのだった。彼女は美しい女性であった。ワンピースに麦わら帽子なんて、そんなべたな清楚系の体現者。もう狙っているようでさえあった。
そんな彼女はやはりただの清楚系の女性ではなく、悪戯な笑みがよく似合う素敵な女性だった。意外と行動的で初対面でも僕を振り回してくる。灰色の形式が一気に色づき、彼女色に染まっていく。
その彼女に僕が惹かれるのは至極当然のことだったのだろう。
数年後、僕と彼女は恋人関係になり、二人で同棲などという関係にまで進んだ。
記憶が出来ない僕が恋人を作るなど、当時の僕は信じられず毎日彼女に本当かと問い続けて、終いには私の愛を疑うのかと怒られたものだ。
それを困ったように僕は笑っていて、それでもそんな日々が幸せだった。
「ねぇ、結婚しない?」
「結婚……?僕が……?」
「あはは、あなた以外に誰がいるの!!」
この時の僕はやっぱりすっとぼけていて、彼女の言葉を信じられないような目で見つめている。記憶が出来ない僕が結婚なんて、そんな風に思っているのがありありと分かってしまう。
それでも、僕は嬉しそうな表情を隠すことも出来ず、幸せそうに笑っているのだから、結局のところ彼女を心底愛していたのだろう。
「う、うん。結婚しよう。」
「ふふっ、本当はプロポーズ、聞きたかったけれどね。」
「ぜ、絶対する!!プロポーズを僕から、いつか絶対にするよ!!」
同意した僕に彼女は少し寂しげな声を出した。きっと彼女の本心から出た言葉で、僕は彼女の手を必死に握りしめて、覚悟を決めた顔で見つめている。プロポーズ。その約束だけは忘れまいとそう誓って。
お互いの体温が混じり合って、唇と唇が重なり合った。
幸せだった。誰にも愛されない、愛することが出来ないと思っていた僕が、お互いに思い合うことが出来たのだから。これ以上の幸福はないだろう。
だが、それは長くは続かなかった。
やはり、記憶が出来ないという性質は結婚生活の上では中々難儀なものだったのだ。定職に就けず、約束も守れない。何より、彼女の結婚記念日なんていう大事な日さえも忘れてしまうのだから。
そんな僕と彼女は喧嘩をするようになってしまった。
「約束、したじゃん。」
「ご、ごめん。」
「何度目よ。あなたが大変なのは分かっているけど、でも……」
悲し気な彼女の声に僕は恐怖と悲壮が混じり合った顔で必死に彼女の手を繋ぎとめている。どうにか離さないように、捨てられないように。
僕のこの性質をこの時以上に恨んだことはないだろう。どうして、記憶できない。どうして、思い出せない。どうして、約束を守れない。結局、この時もプロポーズなんてものは、頭の片隅にもなかったのだろう。
それでも、僕らは何とか関係を維持して、喧嘩をしながらも成り立たせていた。
そんなある日の事。決定的なことが起きた。その時の僕はこれ以上ないくらい焦燥としており、苦しみと混じり合った表情が僕の心情をこれ以上ないくらいに指し示していた。
「……別れましょう。」
「待って……待ってくれ。」
「結婚記念日よ。それも五度目。」
そう、この時の僕が五度目の結婚記念日を忘れて、五度目のすっぽかしをやらかしていた。最初から約束なんてしなければよかった。出来ないことは出来ないと言えばよかった。
でも、僕はどうしても奇跡を信じて、あとで合流することを望んで、そして約束を忘れ去ってしまうのだ。日記に書いても、手帳に記しても、その事実を忘れてしまう。大いなる欠陥だ。
それでも、約束を神聖視して、ぽつんと一人で待つ彼女の気持ちに一切寄り添っていなかった。彼女は最初から二人で一緒にいようと、言っていたのに。その言葉さえも忘れていて。
「もう、限界なの。私がどれだけ惨めか知っている?私が……」
「……。」
沈痛な表情で僕は俯くしかなかった。だって、分からなかったから。忘れてしまうから。また、同じことをしてしまうから。
何も言葉を紡ぐことが出来ず、彼女の寂寥とした声にも寄り添うことはできない。それでも、何とか言葉を紡ごうと口を開け閉めするけど、それは声には乗らない。
「ね。別れましょう。」
「まっ、てくれ……。」
「ふふっ、私はね。幸せだったわ。あなたは忘れてしまうけれど、それでも私はあなたと過ごした毎日を一欠けらも忘れずに大事に、大事に持っていられた。……でも、それも虚しいだけ。どうしても通じ合わない時が空しくて、どうしても同じ言葉を紡ぐあなたを見るのが辛い。本当は、それも覚悟の上だったのに……」
あぁ、なんて僕は愚かだったのだろう。彼女は全てを飲み込んだうえで、それを覚悟して僕と向き合ってくれていた。でも、僕は忘れて、約束を破り、自分のことしか考えていなかった。
呆然としている僕は、その現状を受け入れたくないようで頭を抱えている。でも、彼女は僕が視線を外していても、ちゃんと僕を見てくれていた。
「別れましょう。」
「……。」
「私の記憶をあなたにあげられれば、よかったのに……。」
がちり。ピースが嵌る。理解する。急速に世界が再構成されて、物事が鮮明になる。僕ははっと顔をあげて、彼女の顔を凝視する。完全に理解したのだ。
「そうか……。そうか。そうか!!そういうことか!!」
「……?」
「ありがとう。ありがとう。僕は記憶できる。これで、僕は僕になれるんだ!!」
興奮したような声をあげた僕は目を大きく見開き、ざわめく観衆を置き去りにした。ただただ、今は彼女の顔だけを見つめていた。
僕は彼女の額に手をそっと伸ばした。彼女はそれを拒否することはなく、じっと僕の様子を見ているようだ。
「“記憶略奪者”。」
かくしてなった。僕の狂器が。記憶が出来ない僕が、ただ一つ記憶して、僕を定義することが出来る方法。
彼女の身体から力が抜けて、地面が近づいてくる。ぶつりと視線が途切れた。
なるほど。なるほど。僕はこうだったのか。僕はこういう人間なのか。僕は初めて彼女を通すことで、僕を定義することが出来た。
ざわめく観衆の声が聞こえる。でも、僕は心地よい彼女の記憶に身を委ねていた。彼女はどれだけの記憶を見せてくれるだろうか。
僕にどれだけ記憶させてくれるだろうか。
僕が僕であるために、君とのプロポーズの約束を守るために。君の記憶を僕に頂戴。君が忘れていても、今度は僕がプロポーズするよ。今度は覚えているから。さぁ、目覚めてくれ。僕ともう一度、愛し合おう。




